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オスマン・トルコとバロック音楽(鍵盤楽器音楽の歴史、第81回)

1683年の第二次ウィーン包囲において、ポーランド出身の商人ゲオルグ・フランツ・コルシツキー (1640-1694) は、トルコ人になりすましてオスマン帝国軍の包囲を突破し、外部との連絡に成功したことで、一躍ヨーロッパを勝利に導いた英雄となりました。

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そして敗走したオスマン帝国軍の残留品の中から、コルシツキーは大量のコーヒー豆を発見し、それによって彼はウィーンで最初のコーヒーハウスを開いた… 

という有名な逸話は、現在では完全に否定されていますが(これは1783年にゴットフリート・ウーリッヒによって創作された物語で、またブルーボトル・コーヒー以前からウィーンではコーヒーハウスが営業していたことが判明しています)、この頃コーヒーがヨーロッパで普及を始めていたのは事実です。

ヨーロッパ最初のコーヒーハウスは1645年にヴェネツィアでオープンしています。北方諸国との貿易競争で相対的に地位を落としたとはいえ、ヴェネツィア商人のイスタンブールとの結びつきは強く、東方文化をいち早く受け入れていました。

ヴェネツィアからの輸出品は主に絹織物でしたが、ガラスなどの工芸品や、絵画なども需要がありました。では音楽は?

話が飛びますが、ここでヴォイチェク・ボボウスキー (1610–1675) という人物について少し触れたいと思います。

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彼はポーランドに生まれ、プロテスタントの家庭に育ちましたが、若いときに囚われの身となり、音楽の素養があったためイスタンブールのムラト4世の宮廷楽団に売られました。彼はイスラム教に改宗してアリ・ウフキーと名乗り、楽団で歌い、サントゥールを弾きましたが、その歌を記憶する能力の高さは師を驚かせたといいます。1657年頃に彼は自由を回復し、オスマン帝国で最も重要な通訳の一人となりました。

彼が当時のトルコ音楽をヨーロッパ式に採譜した手稿が、フランス国立図書館に MS Turc 292 として所蔵されています。

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この楽譜は右から左に読むのですかね。

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これはウードのためのタブ譜でしょうか。

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何やら興味深い音階が。

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Vanitas vanitatum et omnia vanitas

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uyan ey gözlerim gafletten uyan
uyan uykusu çok gözlerim uyan
azrail’in kastı canadır inan
uyan ey gözlerim gafletten uyan
uyan uykusu çok gözlerim uyan

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彼、アリ・ウフキーの記すところによると、スルタンはイタリア音楽を知っていたということです、というのも奴隷として贈られたイタリアの音楽家を抱えており、彼が多くの美しい音楽を作曲し、歌ったというのです。

すると、17世紀のイスタンブールのカフェで、バロック音楽のアリアが聴けてもおかしくないかもしれません。

トルコの古楽グループ、ペラ・アンサンブルは、トルコ古典楽器を交えたバロック音楽の演奏を行っていますが、その国籍不明の音楽には不思議な説得力があります。

ところで、フランスに最初にコーヒーをもたらしたのは、1669年11月にルイ14世に会見した、オスマン帝国公使ソリマン・アガとされています。

ルイ14世はソリマン・アガを「大使」だと思って盛大な歓迎式典をもって迎えましたが、実のところ彼は単なる使者に過ぎませんでした。

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それが判明して、恥をかいたと逆恨みしたルイ14世が「トルコを愚弄するバレ」をモリエールとリュリに発注してできたのが、コメディ・バレの傑作〈町人貴族 Le Bourgeois Gentilhomme〉であるといわれています。

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https://imslp.org/wiki/Special:ReverseLookup/1908

その劇中のトルコ行進曲を、本物のトルコ人達がオスマン・トルコ風に演奏するというのは皮肉が効いて何とも痛快といえます。



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