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鍵盤楽器音楽の歴史(50)踊るパッサカーユ

フランスのクラヴサン音楽で、現在はあまり注目されていないジャンルに、ジャン=バティスト・リュリ (1632 - 1687) の舞台作品の編曲物があります。この種のクラヴサン曲は実に400以上の例が現存しており、これは17世紀にフランスで出版されたクラヴサン曲の総数を凌駕しています。

この未開拓の世界を覗いてみたいという方には The Online Thematic Catalogue of Lully Keyboard Arrangements (OTCL) という大変ニッチで便利なウェブサイトがあります。

しかしやはりその中でも抜き出た傑作なのが《アルミードのパッサカーユ》のダングルベールによるクラヴサン編曲版でしょう。溢れんばかりの装飾音を詰め込んで、クラヴサンのみでオーケストラに勝るとも劣らない豪華絢爛たる音楽を作り上げています。

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Jean-Henri D'Anglebert, Pièces de clavecin, 1689.

スキップ・センペとオリヴィエ・フォルタンによるクラヴサン2台版はさらに凄まじいことに。

フィレンツェの粉挽き職人の息子であったジョヴァンニ・バッティスタ・ルッリは、1646年にフランスに移住して下男として働きながら音楽を学び、1653年の《夜のバレ》で頭角を現してルイ14世の寵愛を受けるようになります。彼は1650年代から1660年代にかけて王のために多くのバレを作曲、1661年にはフランス国籍を取得しています。

加齢により王が踊りを引退したことでバレが下火になると、リュリは歌劇へと向かいます。彼は1672年に王立音楽アカデミー(後のオペラ座)の特権を取得し、2人以上の歌手と6人以上のヴァイオリンによる音楽劇の上演を独占します。この頃のフランス音楽は完全にリュリに牛耳られていました。幸いであったのは、リュリは権力に阿り陰謀を好む嫉妬深い卑しい守銭奴でおまけに男色家でしたが、彼の音楽の才能は本物だったことです。

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リュリの《アルミード》(1686) はトルクァート・タッソの『エルサレム解放』(1581) を原作にした叙情悲劇 (Tragédie lyrique) です。脚本はフィリップ・キノー (1635 - 1688)。

『エルサレム解放』は第1回十字軍 (1099) を舞台にした剣と魔法のファンタジーで、これに登場するアルミード(アルミーダ)は邪悪な魔女であり、キリスト教陣営に潜入して騎士たちを誘惑するのですが、しかし彼女は敵であるはずの騎士ルノー(リナルド)に惚れてしまい、彼を魔法で洗脳して恋人にします。

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《Renaud et Armide》François Boucher, 1734.

《アルミード》の第5幕はアルミードの宮殿での二人の暮らしの場面で始まります。アルミードは結局まがい物でしか無い愛に苦悩しつつ、用事で地獄にでかけます。一人留守番のルノーの気晴らしにのためにアルミードが召喚した幸福な恋人たち (les Amants fortunés) が歌い踊る、そのディベルティスマンが《パッサカーユ》です。この割とどうでもいい場面に、音楽史上でも屈指の名曲が使われているわけで、実に詩神が降り来る処を人は選べないようです。

お話の方は、結局アルミードの留守のところに仲間の騎士が来てルノーの洗脳を解いてしまい、アルミードの悲恋に終わります。

このアルミードのパッサカーユは、ト短調の下降テトラコードに基づく典型的なパッサカーユですが、ロンドー形式はとっていません。リュリならばイタリア流のパッサカリアを作ることもできたでしょうが、彼はあくまで顧客(ルイ14世)のニーズに応えることを旨としており、フランス人好みの符点リズムによる華麗なパッサカーユを作り上げています。

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編成は通奏低音と4声部のトゥッティと、ヴァイオリン×1、フルート×2のトリオが交代で現れます。リュリのオーケストラ音楽は、舞踏家らしい明快なリズムと明快な和声を特徴としており、このパッサカーユも小難しいところはまったくなく、ただひたすら情熱的で甘美な旋律が胸を打ちます。

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Kimiko Okamoto, The ‘Passacaille of Armide’ Revisited: Rhetorical Aspects of Quinault’s / Lully’s tragédie en musique, 2012.

もう一つ、このパッサカーユのフランスらしいところは、これが舞曲だということです。その起源においてパッサカリアはチャッコーナとは違い舞曲ではありませんでしたが、フランスでは舞曲扱いとなり、このパッサカーユにも振り付けが残っています。これはコントルタン・バチュ Contretemps battus という足どうしを打つ技を多用するかなり難易度の高いものです。

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Louis-Guillaume Pécour, Nouveau recüeil de dance de bal et celle de ballet contenant un tres grand nombres, 1715.

リュリは1685年に王の小姓との男色関係が露見したことで王の不興を買ったこともあり、この《アルミード》は宮廷での上演はなされませんでした。

1687年1月8日、リュリは王の手術からの回復を祝した《テ・デウム》の演奏中、指揮杖で誤って足を突いて負傷します。その後、傷が壊疽するも脚の切断を拒否したため、3ヶ月後に死亡しました。

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