図書館って目に入る情報量がほぼドンキ
日記です。
占い師の仕事がまだまだこれからなので、日銭を稼ぐために動画台本の仕事をはじめました。
動画台本の仕事は(題材を慎重に選びさえすれば)WEB関連ライティングとしてはかなり実のある仕事です。
(本当にインターネット・デブリをばらまくだけのWEBライティングの多いこと!もう悪いインターネットの片棒は担ぎたくないです)
日本史解説系の動画だったのですが、提示された納期が短く、第一稿はインターネット上の情報をまとめて仕上げました。
しかし、それではどうにも字数が足りない。提示された字数を満たすにはインターネット情報だけでは明らかに不足なので、紙の資料にあたるしかないと図書館に出かけました。
大学を卒業してからというもの、市の大きな図書館が遠いのもあって、図書館の利用は予約した本をカウンターで受け取るばかりになっていました。本棚の間を泳ぎ、飛び回ることがほとんどなくなっていたのです。
久しぶりに図書館に行くと、こんなに本棚という本棚全部に目移りするものかと思いました。目当ての本を見つけて抱えたあとも、あっちにフラフラこっちにフラフラ。図書館ってこれが楽しいんだよな、と思い出しました。
この情報量の厚みには最近覚えがありました。年末年始東京に滞在していたとき、何度かドン・キホーテで買い物をしたのですが、棚の圧といい情報のぎっしり感といい、あれにそっくりです。
とはえいえドン・キホーテで目に入る情報はわたしにとって90%がノイズで、図書館で目に入る情報は90%以上が興味の対象ですから、わくわく感がまるで違います(ドン・キホーテをしばらくうろついたあとは、頭痛がして早々と退散したものです)。
古典全集の必要なページをコピーして書誌情報を書きつけ、持ち帰って原稿を仕上げるときも、大学時代を思い出してしみじみと感慨深いものでした。
しかも、大学時代とは要求されるレベルがまったく違って気楽なことこの上ない。研究の第一線に立たなくても、一般向けに古文を噛み砕いて解説することが仕事になりうるのだと思うと、「文学部卒業して何の役に立つの?」と無邪気に聞いてくるたぐいの人間に勝訴の紙を突きつけてやりたい気分になります。
まあ、古文を噛み砕くこと自体は高校レベルの古文知識でできるのですが。
そういえば高校時代から、逐語訳を踏まえて自然な現代語に整えるのがやたら得意だったな、と思い出しました(平家物語の一節を気分良く訳していたら「このへんでいいですよ」と止められて「えっ……」が出てしまい、最後まで訳させてもらったことがあります)。
わたしの人間性を保障したのは学問であり、知性でした。
学問がなければわたしはあの地獄のような田舎を出ることもできず、大学でさまざまな知性に触れることもできず、札幌の夏の緑と木漏れ日に心和ますことも、冬の痛いほどの寒さに身を引き締めることもありませんでした。
みずからの身体感覚を見つめておのれがここに在ることを実感し、それによってわたしの精神は救われました。ために知性が言語をもって心をかたちづくりました。
ゆくさきと現在地を見失いかけたとき、いつでも知性がわたしの在処を教えてくれるのだろうと思います。