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なぜテクノロジーは発展しているのに、労働時間は減らないのか


最近AIの話題がすごいですね。頭脳労働の分野にも産業革命が来てるって感じ。歴史の教科書に載るぐらいのタイミングを生きているんじゃないかな、とワクワクしたりしています。

一方で失業者が溢れるんじゃないかという不安の声も出てますよね。AIによって人は仕事が減って楽になるのか、それともAIに仕事が奪われて生きづらくなるのか。

面白い記事を読んだのでそれを僕なりに要約しつつ文章にしてみようと思います。
(別に専門家ではないので、解釈がおかしいところがあるかもしれません。もし何かあったらやさしく教えてくれたら嬉しいです。)
https://www.1101.com/n/s/bullshit_job/2021-08-19.html

AIによって労働はどうなるのか


これ、第二次産業革命の時にも似たような議論がされてたみたいなんですよね。
ケインズっていう経済学者が
「孫の世代(20世紀後半)には人は週15時間くらい働けば十分になってるはずだ」
って言ってたみたいなんです。


それが今、全くその通りになっていない。どうしてか。

実は、一度そういう流れになりかけたらしいんです。それが1960年代のカウンターカルチャー運動に代表される「脱労働」的な思想だったとのこと。

テクノロジーの進化とそう言った思想が重なって、ケインズの言った通り、人々が労働から解放される道すじが見えた。

しかし、その時にネオリベラリズムという経済政策が広まり、流れが大きく変わりました。


ネオリベラリズムは、簡単にいうと
「市場を自由にして、競争させることで社会を発展させていこう」
という価値観に基づいたしくみや政策のことです。

具体的に言うと、関税を緩和したり、公共事業を民営化したり、貿易や金融取引を自由化したり。

「市場原理に任せると効率化されていく。これは合理的なはずだ」という原理です。

そして同時にそれは「すべて自己責任」ということでもあります。
「効率化のために切り捨てられるのはお前の能力が低いからお前の責任」
「老後生活が苦しいのは2000万円貯めてないお前の責任」ってことです。


このネオリベラリズムが普及していく中で「金融」という市場が大きくなっていきました。

経済成長を経て、生活に必要なモノは飽和状態です。
キッチンツールとか、一度買うと壊れるまで買わないじゃないですか。家も車も電化製品も、暮らしに必要なモノは社会に一度行き届くと、消費のペースが落ちるわけです。

それでも消費を促すために壊れやすくつくったり、買い替えることを前提に商品開発したりしてなんとか消費を促すわけですけど。

それでもモノの需要は明らかに減るわけです。すると企業の売り上げは落ちます。でも企業は利益を出さなければいけない。するとコストを減らすために雇用を減らします。すると不景気です。不景気になると政府がどうにかしようとして公共事業を進めたり、金融政策を実施します。すると貨幣の供給量が増えて、金利が下がります。金利が下がると融資が受けやすくなったり、投資しやすくなるので、その結果お金が回るわけです。

つまり、生活に必要なモノの生産・消費の経済サイクルが負のスパイラルで止まりかけたところを、「金融」という経済サイクルを回す。それでなんとか社会全体の経済サイクルが回り続けているというわけです。


ネオリベラリズムによって金融市場の規制も緩和され、国を超えて金融商品が開発され、金融市場は大きくなっていきました。
誰かの生活に直接役立つ仕事というよりは、お金を回すための仕事が増えてきたわけです。

インフラ整備や砂防ダムなどの公共事業、原材料の採掘、
土地を買い上げて地上げして売る不動産、預かったお金で投資運用する銀行や保険会社、欲求を刺激して消費を促すための広告やマーケティング、それらの企業の事務作業の効率を上げるシステムやソフトウェア開発、
モノの経済に関しても、市場競争原理によってより大規模に、効率的に、工業的にモノづくりをしていく企業が勝ち残っていきます。

さらにこの競争は自由貿易協定によって世界との戦いになっていくわけです。グローバリゼーションです。
勝ち残った企業がすべて持っていくわけです。富めるものがより富んでいく社会です。

地方から都会に、さらに国外へと、お金は抜け出ていきます。


話を戻すと、ネオリベラリズムにより世界とつながる自由な市場での競争が激化。
「効率主義」「個人主義」の社会となり、お金を回すためのやり取りに関する仕事が増え、結果労働時間は減らず、忙しいままになったと。

そしてこの市場競争原理は公共性が高い領域にも入ってきているようです。
医療や学校、公共放送なども「市場競争の原理によって効率化されて良くなる」とかいって。


でも、公共性が高いものにまで市場原理が絡んじゃうと、お金持ちじゃないと医療を受けられなくなったり、メディアの独占が起こったり、公共性が脅かされていくわけです。
あらゆることが市場原理による自由競争の海に放り込まれて、経済サイクルをなんとか回し、経済成長し続けてきた結果、今社会はどうなっているでしょうか。


経済成長の名のもとに自然環境を破壊してきたしっぺ返しをくらいかけて
水も空気も山も気候もおかしくなってきています。
競争についていけなかった人は生きていくのがやっと。社会を維持するために必要なエッセンシャルワーカーたちは過酷な労働環境で、社会には心身ともに病気になっている人で溢れています。日本人の15人に1人がうつ病の経験があるとのこと。


「市場を自由にして、競争させることで効率化し、より合理的でより良い社会になる」

というネオリベラリズムをどんどん進めてきた結果が今の社会です。
もちろんこれによって便利になった側面もあるし、その恵みを僕も享受しているわけですが、
「これ以上この仕組みのまま進んでいくのはどうなん?」
というのが正直な僕の意見です。


じゃあどうすればいのか。
僕はここまで人類が辿ってきた道のりにヒントがあるんじゃないかと思うんです。
それが、脱労働思想がネオリベラリズムによって消えてしまったという部分です。

関税緩和、自由貿易によって大きくなり過ぎてしまったグローバル経済をどうにかするのは、やっぱりローカリゼーションなんだと思います。
ローカルで完結できる経済圏をつくっていくということです。

いうのは簡単だけど難しいことです。

これはすでにいろんな人が取り組んでもいて、地域通貨といってその地域でしか使えない通貨をつくることでなんとかローカルの中での経済循環率を高めようとしていたりします。

でも、ローカルを構成する人の暮らしが外部への消費に頼っている限り、ローカルで完結できる経済ってのは難しいと思うんです。

支払いが地域通貨のカフェは、その原材料とそれを運営する人の生活が地域通貨だけで賄えるからこそ成り立つんです。

つまり、「地域」という単位で自給自足できている必要があるんじゃないか、と思っています。
コモンズを取り戻し、食、エネルギー、生活に必要なものをローカルで賄えるようにする。
そうなった時にようやく、グローバル経済への依存のないローカルをつくりなおせる。

トマトが一個1000円の時代になろうが、外の経済システムに大きく振り回されずにいられると思うんです。


そしてもうひとつ、コミュニズムという考え方です。
記事の中での定義が気に入っていて

「能力に応じて支出し、必要に応じて受け取る」というものです。

それぞれが共同体に対して自分のできることをして、その対価としてではなく、必要としているものを受け取る、という組織のあり方です。

家族というのはこのコミュニズムに基づいた組織ですよね。「この子はこの能力でこの組織にこれだけの貢献をしてくれているから、これだけのおかずを与える」みたいなことはしないですよね。

家庭への寄与度や量に関わらず、平等に扱われる。

こういった、必要なものは十分に与えられる、対価を要求し取引する以外の資源の動きのしくみに希望を感じています。


拡張家族的な考え方ですよね。1つのローカル自体を大きな生命体のように捉えて、構成するメンバーの声は、嬉しいことも悲しいことも大きな生命体の声として扱うように捉えられたら、こういう世界って実現できるんじゃないかなぁとか思うんです。

でも家族ってこんな感覚ですよね。そういう存在が増えると思えば、できなくはない気がする。

これは、仕組みだけでなく、思想や価値観といったOSの部分の共有も重要な気がしていたり。

まぁそんなようなことを色々考えながら、限界集落の中で現実的な課題とも向き合いながら、今日も試行錯誤しています。


ちょっと疲れてきたのでこの辺で終わります。笑
経済のことって複雑で難しいからめっちゃ時間かかった〜
でも書きながら現代社会への理解がかなり深まった気がする。

ではまた〜


参考サイト



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かがりこうへい
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