成長する人と成長しなくなった人との違い:成長を止めて何も生み出せなくなると他人を攻撃するしかなくなる

人は生まれたとき、世の中のあらゆるものが新しいものであふれている状態で生まれてくる。
新しいものは魅力的で、好奇心の塊になる。
赤子の学習能力が高いのは、正に好奇心の塊であり、何でも吸収するところにある。

人間は成長するとともに、真新しいものが少なくなってくる。
それでも人は何かに興味を持つ。
美しい花を見て美しいと思うことは、成長のあかしなのである。
美しいと感じる感性こそが成長であり、そのような感性が生まれるからこそ好奇心という学びたい気持ちが生まれる。
「学びたい」「勉強したい」という気持ちは、好奇心から生まれるものであり、人間が人間であり続けるものなのだ。

何かに夢中になって、「学びたい」と思っている人は、人を貶めようという気持ちがそもそも湧かない。
学ぶことにエネルギーを注ぎたいのに、何故、誰かを貶める必要があるのだ。

だが、何の成長もなくなり、他人と比較することしかしなくなった人間は、常に自分が上位にいることを主張し、周りにそれを認めさせる行動にでる。
インターネットで誹謗中傷に執念を燃やすような人間がまさにそれだ。

インターネットは特に、自分の顔や個人情報を隠せる。
本当の意味では隠せないのだが、愚か者には、隠せると思ってしまう。

現実の世界では、有能な生身の人間を誹謗中傷することは難しい。
生身の人間に面と向かって誹謗中傷をすると、即座に反撃が返ってくる。
だから現実の世界では陰口という形で誹謗中傷をするのだが、それも簡単にバレて反撃が返ってくる。

これがインターネットの世界では、たとえ「お前が言うな」的な立場であっても、堂々と主張することができる。
働いたことのない人間があたかも長年の労働経験があるようなフリをして説教を垂れることも容易である。
万が一、その嘘がバレても、どこの誰ともわからない人間にバレても、痛くもかゆくもない。
インターネットの世界では、好きなだけ、誰にでも、マウンティングを取れるのだ。

常識的に人と対話することができる人は、インターネット上で自分の意見と違う人が居た場合、黙ってそこから立ち去るだけだ。
どこの誰かもわからないのに、その人にわざわざ反論をして議論しようと思うことはほとんどない。
にもかかわらず、執拗なまでに攻撃する人たちがいる。
それは正に、「マウンティングを取るチャンスを狙っているだけの、他人を誹謗中傷するしか能がない人」なのだ。

成長し続けている人は、人の悪口をほとんど言わない。
前向きな議論をするために、人の意見を批判することはあっても、単に人を攻撃するだけということはしない。
人を攻撃することで得られるものなど、何もないからだ。

成長を完全にやめてしまった人は、人を貶めることしかしなくなる。
自分の中の虚無感を、誰かを貶めることでマウンティングを取り、それに満足することでしか生きれないからだ。

人を誹謗中傷ばかりしている人が居たら、それを反面教師にしよう。
そして、そのような人からインターネットやSNS上で攻撃されたら、「哀れでかわいそうな生霊がさまよってきた」と思って、憐れんであげよう。

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