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俳句は創作

俳句の添削例などが載ってる本などパラパラ眺めていると、俳句は結局創作なんだろうと思えてくる。

写実写実と言いつつ、詠み手の実際の感慨や実景はさほど重要ではなくて「こうあるべき」といったなんらかの理想がまずあって、それに合わせて言葉を整えていく、みたいな。

俳句は一番短い詩と言われているのだから事実より芸術、という方向性なのは理解できる。実際、整えられたほうが真実「らしい」のだ。

俳句の勉強とはその「あるべき理想」に向かい創っていく作業だ。職人みたいに方法を学び自分の中に知識を溜め技術を高めていく。

伝統となり引き継がれていくのだから、その技術はちゃんとしたものであり知識も整えられている。見栄えもいい。

芸術家肌の人に向いている。そして徒弟制度のごとく地道な修行に耐えられる人に向いている。両方とも好きではない自分はさてさてどうしたものか、と思う。

あらかじめ出来上がった枠組みに言葉を嵌めていけば俳句は完成する。そうすれば誰も文句を言わない。余計な「我」など必要なく素直にはいはいと言うことを聞くのが良い作り手。そこに「自己を表現したい、ただ表現を楽しみたい。」という欲求はいらないのである。子供が粘土をこねくりまわしてその感触や見立てを楽しむようなそんな「楽しさ」を自分は欲しているのだけれど。

言葉は祝いであり呪い。大抵は意識の外に消える泡沫のようなものだけれども、まれに毒のように内奥深く浸透するものもある。言葉自体に呪術的な力が宿るとは思えないが、それを受け取る側には何らかの枷が嵌められる。

言葉の持つ、イメージを呼び覚まし繋ぎ紡いでいく世界が面白くて俳句を作ってる。

頭の中の理想を表出させようともがく芸術家と自分は違うようだ。ああでもないこうでもないと言葉を取っ替え引っ替えし、繋ぎ合わせていく過程が楽しい。

その末にできた作品は気にいるものもあれば気に入らないものもある。綺麗に整えて貰えばそれもまた嬉しい。

まだスタート地点ではなくスタート以前のところを彷徨っている。何者でもないことはひたすら自由で軽い。吹けば飛ぶように。






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