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唯今二一五〇羽の白鳥と妻居り

「金子兜太 自選自解99句」より。

まがりなりにも俳句を詠んでるにも関わらず、真面目に句集を購ったことも読んだこともない。これでは到底腕も上がらぬわけである。

わかってる。ちゃんと読んでこれ、と思った俳人の句をしっかり読まなければならないとは、わかってる。が、やらない。怠惰であり怖れである。

一応、季語ありの定型俳句を詠んでいるのだけれども、心惹かれたのは尾崎放哉の自由律俳句。その解説を書いていた縁で金子兜太の名も覚えた。現代俳句会の重鎮なのだそうだ。

自選句集だったこともあるのだろうが、金子兜太の句には人生がある。氏が種田山頭火や尾崎放哉の句を取り上げて語るのもなんとなく納得がいく。彼らにとって、俳句=人生の発露なのだ。魂と表現が一致しているのだ。なんとも羨ましい。
まあ、趣味程度になれば、と思う自分が到底たどり着けないところに彼らがいるのもわかる気がする。

この自選集を手に取るのは二度目だ。はじめに手に取った頃はまったく理解できなかった。今は、少しわかるところがある、ような気がする。

俳句が一行書いてあり、その後でその時の感慨や解説を述べているのだけれども、正直な話、それがなければ理解できない。それでも妙に生き生きとしていて岡本太郎の絵を見るが如く、シャガールの絵を見るが如くの心待ちになるのは、動物や色の名が出てくるためだろう。それがとても強烈に脳裏に浮かぶ。何故なのかはわからない。この何故?がわかったらもっと俳句が上手く詠めるのではないだろうかと思う。

「俳句は一行の詩」というのは本当なのだなぁとこの本を読んでいて思う。本当に、詩、なのだ。
型に嵌めようと四苦八苦してるのではなく、自分の思いがするっと十七文字で出てきたような感じがいい。若い頃の青さ満載の作品も好きだけれども、人生を経た人の研ぎ澄まされた純粋さも好ましい。

よくわからない句が多いけれども、目に留まった句を並べておく。有名なものは省く。いつか全て理解できる日が来ればいいのだけれど。

人体冷えて東北白い花盛り

日の夕べ天空を去る一狐かな

黒部の沢真つ直ぐに墜ちてゆくこおろぎ

犬一猫ニわれら三人被爆せず

れんぎように巨鯨の影の月日かな

氏の俳句には敗戦時のものもある。その句を読むと、その時代に生きていなかったにも関わらず、その目で見ているような気持ちになってくる。自分の知らない時代を句を通して肌で感じるような思いがする。

最後に。次の句から自分には孔雀の姿がぱっと浮かんだのだが思い込みだろうか?

どれも口美し晩夏のジヤズ一団


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