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風邪をひいて考えたこと。

喉の奥にかすかな痛みが残っている。ヒトライノウイルスが僕の体内でどんどん小さくなり最後の抵抗をしているかのような痛みだ。風邪をひいて三日間寝込んだ。体温は39度まで上昇した。人生の変わり目にはいつも強烈な風邪をひく。強烈な風邪をひくと身体の組成が変化する気がする。疑似的な死を通過して再生のプロセスに入っていくことを体験するからだろうか、少し生まれ変わったような気がする。

一粒の種籾は地に落ちて死ななければならない。体調の安定した三日目にバガボンドの37巻を読んでそんなことを想った。見捨てられた村で水田を作る話だ。秀作と言う一粒の「いのち」が死ぬことによって豊かな稲穂が実る。一粒の「いのち」が無数の「いのち」の中に生きている。秀作は実った稲穂を見て言う「足りないものは何もない」と。稲という弱いものを育て上げるということ、武蔵に足りなかった「いのち」という視点。恐らく僕も見捨てられた土地で水田を作っているようなものだろう。見捨てられて当然の「いのち」など存在しない。

「いのち」を見つめる。ウイルスも菌類もコケも草も花も木も動物も自然界にあるものはみな美しい。一切が響きあい、交じり合い、消えていく。人間だけが醜い。自然界のほうが弱肉強食であるにもかかわらず、その「いのち」のありようは輝いている。人間の世界から「いのち」の価値が失われて行っている気がしている。それは死を遠ざけたから。世界では40秒間に一人の人が自殺しているという。近代の生み出した人間の理想は古びて壊れそうになっている。人間とは神の生み出した失敗作なのか。あるいは失敗作の神が人間か。全てがバーチャルになっていく世界で、ポケモンをやるのもいい、だがもう一度僕たちはリアルな「いのち」を見つめるところから始めるべきではないか。

足元に咲いてる小さな「いのち」に気づく時、僕たちの革命が始まる。簡単に損なわれていい「いのち」などないと、僕たちは壁に向かって突き進むだろう、催涙ガスの中をマスクをして、あるいは銃弾の降り注ぐ中を、それでも僕らは前進をやめない。僕らの「いのち」が地に落ちてやがて多くの「いのち」が実りを迎えることができると信じて、僕たちは前進する。僕たちは希望の世代だ。僕たちの進む意志が希望の種だ。

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