ただし、それが正しい努力なら
努力は必ず報われる。
塵も積もれば山となる。
走った距離は裏切らない。
”ただし、それが正しい努力なら”
どんなに努力しても、どんなにたくさん走っても、どんなに気持ちを込めても、それが結果に結び付かなければ、意味はない。
競技スポーツはそういう世界だ。少なくとも僕はそう考えている。
適切なタイミングでの適切な負荷。
適切なタイミングでの適切な休養。
適切なタイミングでの適切な食事。
適切なタイミングでの適切な意識。
適切なタイミングでの適切な行動。
パフォーマンスに結びつくかどうかは、すべて、その選択(努力)の正しさ次第だ。それを間違えればパフォーマンスは上がらない。
“神は細部に宿る”
だからパフォーマンスが上がらないなら全ての変数を意識する必要がある。だから腹落ちするまで言葉と行動の解像度を上げる必要がある。だから分析して徹底的に振り返る必要がある。
あの時、なぜダメだったのか。あの時、どうすれば良かったのか。何が正解で、何が間違いなのか。たとえ難解だとしても絶対に間違えないように。自分にとっての正解を目指して。
ただし、それでも満足するような結果が出なかったら?
そしていつからか、僕は走ることを好きだと言えなくなった。
社会学者の真木悠介氏は、人間の精神の複雑さを色に例えた。いつも冷静で理性的で、たえず分析する「脱色の精神」。一方、好奇心旺盛で、物事に何らかの意味を見出そうとする「彩色の精神」。
常に正しさばかりを追い求め過ぎれば、僕らの精神は色が抜け落ちるのだろう。だから、健全な精神のためにも、一旦、正しさから離れることも必要なのかもしれない。
結果という正しさから離れて、今というプロセスを見る。
それは結果が出るか分からないことを繰り返しやって、小さな改善を積み重ねていくプロセスだ。そのプロセスの中に、自分の成長に喜びを感じる瞬間がある。走る楽しさを感じる瞬間がある。そのプロセスで何らかの意味を見出す彩りは、その瞬間を過ぎても、たぶん消えない。
あるいは、そのうちの一つには“本気で挑戦することによってしか得られない彩り”もあるはずだ。だからきっと、本気で挑戦することに何かの価値があり、その環境に尊さがある。
それに。
アスリートはいずれ引退する。最後は必ずくる。
だから僕らは脱色と彩色の精神を行き来しながら、最後まで自分の納得がいく選択をすればいい。
そう自分に言い聞かせている。
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