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クリティカル・シンキング(批判的思考)とはなんぞや?

15年以上前に初めてアメリカに留学し、批判的思考を目の当たりにしたときは「なんだこりゃー!」と面食らったものですが、若い頃に教えられたものは中々なくならないもので、その感覚(なんだそれ?感)は今でもあります。違いは、「なんだこりゃー!(腰抜かすほどの驚き)」から「あー、そういうふうに理解してるのね」(ふむふむ感)へのシフトぐらいでしょうか。

博士課程2年目にしてようやく論文を英語で読んだり、書いたりすることに少しずつなれて来ました。それにしても出てくるcritical (批判的)という視点の数々。何をどうすれば批判的だというのかという説明はあまりなく、当然のものとして語られることがほとんどです。他の留学生のクラスメイトもcriticalという単語は見飽きたというぐらいで、聞いた時は苦笑してしまいました。

私も実際に自分が書いてみて、気がついたのですが「これを書けば批判的になる」というものはありません。日本人としては、答えありきの教育を受けてきたせいか、白黒はっきりつけた形で書きたくなる時があります。それに自分の言い分を論理的に説明しなければならないと思えば思うほど、それ以外の例を排除しがちになっている自分に気がつきました。

しかし読み手の気持ちとしては「書き手はAだと言っているけれど、本当にAなのか?BやCやKの可能性はないのか?」と言ったことが気になってくるのだと思うのです。そこで、「私はこの物事をAもBもCもKもYも考えた結果、Aなのです!」と批判的思考をひけらかす(言い方悪い😅)ことが必要になるのだな、と考え至りました。

批判的思考(視点)というのは、テーブルの上にいろいろなアイデアを出して、私はその中からこれを支持しますというようなやり方で、自分がA以外の可能性を自分が支持している必要もないのです。つまり「選択肢を見せる」作業なのです。

そんな論文を読んでいると、無意識にどこかでやっぱりひとつの答えを求めがちで「だから結局何が言いたいの!」と色んなものをテーブルに置かれると訳が分からなくなることが、今の私の課題で、やっぱり昔から批判的思考をトレーニングしている人たちとは理解のスピードや頭の仕組みが違うなぁ、なんて思ったりもします。

やっぱり空気を読む脳(単一選択肢型)と批判的思考(選択肢提示型)では違うものでしょうか。


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