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日々読み #15

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2/6 晴れ

在宅酸素を使っている人は酸素を供給する酸素カヌラは命綱であり、自宅で生活する上でなくてはならないものだ。

それでも命綱を脱着してしなければならないことがある。それは「入浴」だ。

髪を洗う時、顔を洗う時、命綱であるカヌラをつけ外ししなければならない。
ただでさえ、少しの動作で息が上がる状態ではあるが、清潔保持のために必要なことだ。
少しの間であれば、カヌラのつけ外しはそこまで問題ではない。

だが、入浴では「水」が厄介なのだ。

浴室は立ち上る湯気で湿気を帯びた空気は重くなり、湯気とシャワーの水滴でカヌラの酸素供給口は水滴で濡れる。カヌラを伝って水滴が鼻に入ってしまうこともしばしばあり、
息苦しさとパニックで苦しさが増していく。

空気を本気で吸ったり吐いたりしているその人の姿はまる宇宙空間でガスボンベを命綱に船外活動をする宇宙飛行士のような真剣さがある。

これまでかなりの回数、シミュレーションと実践をしてきたのだろう。

入浴の行動が妙にタスク化されており、かなり動きが手順的かつ洗練さを帯びている。

ふぅーっ、ふぅーっ、ふぅーっ。

胸郭が拡張と収縮を繰り返す。

息を吸い、吐くという一連の「呼吸」がこんなにも、ダイナミックな動きであったのかと思わされる。

僕らが何気なくできるような普通の入浴でもその人にとっては、過酷な低酸素で活動しなければならない過酷なイベントだ。その人の入浴に安らぎという文字はない。

目の前で力いっぱいに呼吸し、生きようとするその人の力に、背中に僕は問われているような気がした。
「お前は力の限り、真剣に生きているのか」と。

その人の呼吸はまさに『必死』だったのだ。
だれかの必死な姿は、心を揺さぶる何かがあるのだ。


2/7晴れ

またPodcastで「働くことの人類学」を聞いている。

タンザニアの人たちにとって信頼度というのは、一度決まったらといっても固まることなく、日々変容し揺らいでいるものだという。

たとえ裏切られた過去があるからといっても信用がそこに落ちるわけではなく、一時的に下がるだけなのだ。また上がるかもしれないし、下がったままかもしれない。
信用は落ちてもその人との関係は切らずにそのままにしておくそうだ。
どんな人にもそういう「にっちもさっちもいかない状況ってあるよね」みたいなマインドでいるらしい。

日本では1人の信頼度は一回の裏切りでそこに落ちてしまったら、なかなか取り戻すのは難しい。というよりももう信用できないやつだと思われ、疎遠になる。日本は一貫性のようなものを重んじ、相手にも求めてしまうのかもしれない。
本来、人間というのは揺らぎの中で生きている存在でもあることは看護という仕事を通して、身をもって感じる。摂生が必要だと医療者に何度言われようとも生活を変えようとしない人が、大きな病気が見つかった途端、健康志向に一変したり、手術をしたくないと頑なに拒否していた人が知人と相談することで決心する勇気を得たり。
そういった人間の本質的な揺らぎを認めて、社会に取り入れているのはタンザニアの方が進んでいる。

知らず知らずのうちに日本という環境から受け取り、血肉になっている凝り固まった価値観というのは、自分の中の核にまで浸透してきているのかもしれない。


2/8 晴れのちくもり

朝、春の匂いがした。
昼は冬の匂い。冬と春の一進一退する波を感じる。
すっかり落ちてしまった木々の枝先を見ると蕾が膨らんでいるのがわかった。
寒い中でも着実に準備を進めていたのだ。
葉っぱが落ちてしまう冬は少しさびしくて、時間が止まってしまったかのように感じてしまうけれど実際は動いている。夏のように木々が生き生きと輝くのを見るのもいいが、こうして蕾の存在に気づく瞬間もいいなあとおもった。

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今日採集した言葉

ー「春を信じて、冬を生きている。」ー


2/9 晴れ

「働くことの人類学」というPodcastで人類学での対象への迫り方ということを話していた。
学問的な分野である以上、客観性が求められる。それでも文化人類学の調査はフィールドワークが大事な調査の一つで大きなウェイトを占める分野だ。
ただフィールドワークは1人の人間がある民族や集団へ入り込み、調査し記述するという調査方法のため、主観がかなり含有されてしまうのでは?人類学の客観的な視点ってそもそも主観はいりそうじゃない?という問いが、人類学者の松村圭一郎氏に対して投げかけられた。

松村さんはこう言う。
客観と主観は対立しているものだと考えているのではないかと。
客観的という表現は数値や比較可能なもの、数字で表すものと考えているのではないか。
でも実際には目の前で怒っている人々の機微な感情の動きや文化的な背景というものは数値ではなかなか表せない。というよりも反映し切るのは難しいし、できないはず。無理に数値化すればそれは実際に起きていることとはかけ離れたものになってしまうのではないか。

主観を通して、複雑なものをどうリアルに迫るか。人は主観を生きている。客観的に生きている人なんていないのだ。人間はプログラミングされた機械のような物ではなく、より動物的なのだ。客観的な枠組みで見て、捉えようとすると、目の前の現実を捉え損なうこともありうる。

人類学におけるフィールドワークでは目の前に起きたこと全てを完全に捉えられるか、わからないけれどそうすることを考えていくものなのだ。

また、フィールドワークの心得についても言及していて面白かった。
自分のもともと持っていた主観を崩しにいくマインド。
彼らがどういう思いを持って、その行動をしているのか。主観が崩せないとあれは一体どういうことだ!と憤ってしまったりする。彼らがどのような気持ちでそれらの行動を起こしたのか。
自分の当たり前をこだわったまま持ち続けていると、目の前で何が起きているのかわからなくなる。
彼らの背後に何があるか。そこを考える機会すら失ってしまうのだ。

その人にとっては当たり前すぎて、気づかない。
客観を押し通そうとすると、本当におもしろいものを見失う。
文化人類学者のフィールドワークは自分たちのあらかじめ用意した枠組みを更新しに行くような気持ちで行なっているという。文化人類学者のいうことは看護にも通ずる部分が多く含有されていて、とてもためになったし、目からウロコのような捉え方だった。
看護って人を捉える学問の要素も強くあって、それでも研究でどう捉えればいいのだろうと思っていたが、文化人類学の捉え方のエッセンスを得たら、少し記述できそうな気もしてきた。
文化人類学の領域もおもしろうそうだ。今度は「文化人類学の思考法」を購読してみよう。


2/10 雪のち雨

今日は最近の天候と一変して冬に逆戻りしたような寒さ。朝から雪が降っている。つもりそうな雪でははない。訪問したお宅で天気のニュースが流れていたけど、報道とお宅から眺める天候はあまりにも違いすぎて、同じ国ではない気がした。
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訪問看護は看護をしていると言葉の枠組みから逸脱した言葉の連なりを見つけることができる。
それらは僕には発することはできない、自由でのびやかな表現。一見、言い間違いのようにさえ感じるが、当事者本人のみが理解できる確かな言葉。
そしてそれを受け取る僕らにも伝えたいことは不思議と伝わってくる。

2/11 晴れ

今日は昨日とは一変して、春のような陽気で気持ちがいい。また一歩春に近づいたそんな陽気だ。

最近毎日、日記や文章やらを書いている。

そんな中気づくことがあった。

文章ってこういうことを書こうと思って書き始めるとまったく書けない時がある。

日記として書こうとすると、書けないのに気づきとして書こうとするとかけたりする。
文章って不思議だ。


2/12 晴れ

近くの書店で烽火書房が出している「たやさない つづけつづけるためのマガジンvol.02」という本を見つけ買って読んだ。

つづけつづけるためというテーマで、いろんな分野の作り手がエッセイを綴っている。

あらゆる作り手の人たちの素敵な文章を読んでいたら、

『自分も何か作りたい。』

そんな気持ちがこの本をきっかけにもぞもぞと出てくる。

自分は訪問看護師だ。
多くの人と触れ合う。その中で写真なのか、関わる人 人の物語なのか、作品なのか。

それらが僕と混じり合って一つの作品になっていくなんてのは、すごく素敵なんじゃないだろうか。

一つの詩、一つの歌、一つの書、それらを集めて、
写真と共に綴る。

そんな妄想が広がってワクワクしてきた。

いい読み物に出会えた。明日も僕の仕事をつづけつづけるための活力がみなぎる。

本はいいな。

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