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日々読み #18


2/27 晴れ

今日は完全に春みたいな一日だった。
街の木々たちはピンクに色付き、少しずつ花が膨らみ
はじめている。

河津桜のピンクと菜の花の黄色とのコントラストがすごく綺麗だ。
朝の陽射しも冬の頃と比べると着実に強くなってきていて、光と影のコントラストも際立ち始めている。

気温も日陰に入ればひんやりするけれど、太陽の光でじんわりと暖かい。風は優しくそよいで、ずっと外にいたいとさえ思うほどだった。 

病院で働いていた時は仕事中はほぼ外の空気は感じられない環境だった。病院は患者さんたちに負担をかけないように機械的に整えられた空調の中で仕事をしていた。さすがに窓はあったけれど、基本開放厳禁だった。仕事が忙しすぎて見る時間がなかったし、その当時は仕事に関係ない情報はなるべく入れたくないとさえ思っていた。

訪問看護に移ってからは働く時間の4〜5割が屋外での活動だ。
ふと記録を終えて、訪問車から外をみるとこんなにも世界は美しかったのかと毎度思わされる。
こんなに綺麗で美しい世界を僕は大学卒業後から4年間全くといって見てなかった。見ようともしてなかったのかもしれない。

僕は27歳。平均寿命から考えればあと57年。
今日みたいな一日を体感できる機会はどれぐらいあるだろうか。

まだ若いからいつでも見れると思っているかもしれないが、ほんとうは思っているより少ないんじゃないだろうか。
目の前に起きていることが、目に見えず過ぎていく毎日は、思っているより少ないんじゃないだろうか。

外の景色を見ながらそんなことを考えていた。
もっと本気で見よう。感じよう。愛そう。すべてを。


2/28 晴れ

最近の暖かい陽気は気持ち良いのだが、風が強くて困る。ふきあれる風の中、前髪は乱れ、花粉舞い上がり、車のドアを開ければ可動域以上に開け放たれる。
春一番は大暴れだ。
少し迷惑すぎるぐらいの突風が季節の移ろいを教えてくれた。

3/1 晴れ

基本、人は集団の中で生きている。
人と離れたいと思っても人は社会の中で生きていることから逃げることは難しい。
自分がしたいように遊んだり、働いたり、休んだりしたいと思うが、お金を稼ぐには社会の中で、集団の中で生きていかなきゃならない。
働いているとそんなの別に良くないかと思ってしまうことも起きるし、自分にとってはどうでもいいなと思えてしまうことを気にしなきゃならない時もある。
そういう時につくづく働くって大変だなあと思う。でもそれをまるっと飲み込んで、社会に溶け込んでいくということが大人なのかもしれない。

大人は、みんなが求める「大人」や「社会人」を本気で演じる必要があるのだ。
この社会で働くということはそういう「大人」や「社会人」にいかにうまくチューニングできているかみたいなものが実力よりも重んじられているのかもしれない。

でも今抱えているもやもやしたものに目を瞑って、そのチューニングにしか合わせられなくなるのも良くない気がする。
だから僕は合わせるか、合わせないかではなくて、「演じる」というより主体的で能動的なやり方で、生きていたい。

そんなことを思った3月の始まり。


3/2 晴れ

昨日は大人を演じてやろうじゃないかと息巻いていたが、よくよく考えたらちゃんとやることってそんなに悪いことか?と自分に問うようになった。

ちゃんとやることって案外大変じゃなくて、簡単の積み重ねなのかもしれない。

いつもより少し早めに起きて、いつもより少し丁寧に、いつもより少し気持ちを込めたり、いつもより人を気遣ったり。

少し面倒だけど、そんなことを一つひとつ積み重ねていくと「ちゃんとやる」になる。

昨日話していた「演じる」は人に言われたままやるのはなんだか癪だなあと思っていたから出た言葉だろう。

こうして「ちゃんとやる」を因数分解して考えてみたら、ちゃんとやってみたくなった。
その方が気持ちよく過ごせると思うから。

妻との時間ではだいぶ「ちゃんとやる」はできるようになってきたのだから、これからはいろんなところで「ちゃんとやる」を意識していこうと思う。


3/3 晴れ

今日は一日中「ちゃんとやる」ことができた気がする。
目の前のことに集中して、あれやったかな、これやったかな。そんなことを時間をかけてぐるぐる考えていたら、「あ、こういう状況だから、こういうことをしたら他のメンバーが少し楽になるんじゃないかな。」
と、どんどん気づきが出てきた。

仕事は訪問だけじゃない。
掃除とか、書類の作成とか、整理とか、探せばいくらでも「ああ、めんどくさいなあ」というものが転がっている。
それをそのままにして、自分の持ち場だけ綺麗にしておくこともできるだろう。でもね、そんなことをしてちゃあ、あいつは自分さえ良ければいいんだと思われて、たとえ自分がピンチのときでも周りの人は助けてはくれない。

これは公開する日記だけど、今日の内容は誰かに向けたものじゃない。自分への戒めみたいなものだ。
これは肝に銘じていこう。


3/4 晴れ

今週も図書館に行って、また新たに写真集を借りてきた。
本当は現代の写真家のものからお気に入りを探したり、買ったりしたいのだけれど、あいにく都内に出る予定がないので、近場の図書館で20年も前に出版された巨匠たちの作品をあれこれ見てきた。

図書館で初めて、写真集の背表紙を見た時はまったく写真家の名前を知らなかったからあまりぴんと来なかった。かろうじて、森山大道と石本泰博を知っているくらいだった。
なんだか最初はどんな写真家がい藤井るかも知らなかった。だからなのか背表紙と睨めっこしても情報が入って来なかった。

今週改めて見てみたら「この人の写真見たことあるなあ、この写真家さんはこの人と交流があった人だったよなあ」とか思い出しながら背表紙を眺めることができるようになって、作品の情報が受け取れるようになってきた。

人は全く知らないものは理解するどころか情報が入りにくいという特性があるのかもしれない。
少しずつ何かとっかかりが生まれて、それが、起点となって情報が読み込めるようになるのだろう。


3/5 晴れ

友人が自分にしか撮れない写真ってなんだろうと言ってた。
いい問いだなあ、と思ったけどその友達はその次にカメラのボディやレンズの話を始めた。
カールツァイスのとか、フィルターをつけるつけないなど。
僕は写真を初めて数ヶ月だけれど、それでもなんだかそういう自分の写真の追い求め方は違う気がした。
人は年齢が、誕生日が、表情が違うように、それぞれ違う。たとえ同じ誕生日、背格好、年齢でも同じ人に育つことはありえない。まず親が違うし、同じ親でも環境や感じ方は人それぞれで、同じになりようがない。同じ人自分が経験したことを撮ればそれは自分にしか撮れない写真だ。
それでも自分の目にしか捉えられないものだったり、写真に写すものというのは何か、考えていかなければならない。それは自分の人生とは何かとか、生きがいとは何かみたいなものを探すようなものに近いのかもしれない。とりあえずレンズやカメラの問題は違うところの話だなあと思った。
じゃあ、自分は何を写したいんだい?

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