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日々読み #28

5/8 雨
コロナが5類になった。
インフルエンザと同じような対応になる。この日を境に平時に少しずつ戻っていくようだ。まだまだ市中ではマスクをしている人が多いけれど、近所の散歩ではマスクを外している人も増えてきた。

あの日感じていた閉塞感がずっと続くものではないということはどこかでわかっていたけど渦中にいる間はやっぱり大変だった。
こうして5類になった知らせを受けて、少しほっとした。人はこうしていろんな困難を乗り越えて新たな生活を形作っていくんだと思った。


5/9 晴れ

病院にいる時よりも時間が生まれた。そして1日を通してわからなかったことを確認する余裕ができた。だから昨日は少し勉強した。少し勉強するだけでかなり自分にとって栄養になった感覚があって嬉しかった。

最近は本を読むことが楽しくて、少し勉強をサボっていたけれどまた始めたくなってきた。
問題をゆっくり考えるゆとりがあるからこそ、今、勉強する価値があるはず。
日々少しでも積み重ねることを習慣づけたら数年後の自分がより楽しくいられると思う。
20代はインプット、30代はアウトプットが命になるとどこかで聞いた。少し胡散臭いけれど、そういういい嘘には良いように騙されてみようかな。


5/10 晴れ

精神疾患を患っている方とのコミュニケーションが難しく、やりとりに困っていた。少し前にはなるけど図書館で鷲田清一の『「聴く」ことの力』という本があり、なんとなく気になって借りたままとなっていた。鷲田清一の文章は高校の時の教科書に載っていて知っていた。教科書に掲載されている文章の中でかなり好きなものの一つではあったが、読むのにある程度集中力が必要なこともあって、積本になっていた。

本を開くと文章の密度が濃いのが一目でわかる。少しうんざりしながら読んだ。読み始めは読みにくさが先行してくるが、我慢して読み進めていくと特有のフローと読めば読むほど洗練された文章たちが心地よく、どんどん進んでいく。

日々、ケアにおける対話を通して感じていた「苦悩」や「葛藤」みたいなものが言葉によって解されて腹落ちする。もやもやとしたものが因数分解されていく感覚が気持ちいい。
なぜあの対話の中で自分の苦しさが自分の中でうまれたのか、なぜ苦しさを押し殺して交わろうとすればするほど反発し合う形になっていたのかが理解できた。

本書で取り上げられていた対話の方法をそのままやってみると、あっけないほどにうまくコミュニケーションができた。
そして、その方法は自分を押し殺したりせずに、そのままの自分でありながらその人と交わることができるものでもあった。
ケアにおいて知識は時として相手と隔てる防具になったり、傷つけるものになるけれど、言葉や概念は被膜のように優しく包みこんで、自分も相手も傷つかないように保護してくれる気がする。
どうしても対話は生身の自分をさらけ出す行為なのだと思う。だからこそ被膜がなかったら、お互い傷ついてしまう。ケアにおいて言葉や概念は必要不可欠なものなのだと思う。


5/11 晴れのち雨

昔から男女問わず本を読む人の姿を見るのが好きだ。
なぜなのかはわからなかったけれど、好きな動作のひとつだった。小さい頃から文字が、わからない時でも大人を真似してよく本を開いていた。形だけでも大人みたいに本を読みたかったのだ。

最近こんなことを耳にした。
『人類は言語という力を文字で長期保存し、その叡智を世代を跨いで伝え、進化のスピードを圧倒的に早めた究極の生命体』だと。
僕らは言語を通じて横(同世代)の繋がりだけでなく、縦(過去、未来)の繋がりを有して存在することができる。そのことが他の動物と人類の圧倒的な違いで、それを実現したのが本や書物という発明だった。
本は文明の根源なのだろうと思う。それにアクセスしようとしている人の姿は人間らしい行動の一つでそれが僕には魅力的に見えたのかもしれない。


5/12 晴れ

看護でも「誰のなんのための時間なんだろう」みたいな疑問が生まれる。
今日はそれでもやもやした。
正しい用法容量でお薬を飲んでもらうというのは看護師の大切な仕事のひとつだ。その人が在宅で暮らしていくには薬剤を正しく内服できるように整える必要がある。薬剤の処方間違いに気づいたのは介入終了10分前だった。今からクリニックに電話して確認さえできれば対応可能だった。ただその日はクリニックは混んでいたようで、事務の方にはつながったが対応できる医療職はいなかったようで保留で待たされた。10分を過ぎても保留音が止むことはない。予定の介入時間が過ぎて数分たったころから、利用者から介入が終わったからテーブルを指で叩き出した。予定時刻を過ぎたため、とっとと早く帰ってほしいということだろう。
必要性を説明するも「適当に飲んでおくからいいよ。別に飲んでも飲まなくても変わらないし。」と理解は得られないようだった。指でテーブルを叩いて、苛立ちを示してくる。
正直僕も帰りたい。苛立ちは募る。
それでもいろんな話題を振りながら保留を耐える。なんでわざわざこんなめんどくさいことをしてるんだろうとメタな自分では思ったけれど、なぜか途中で諦めて帰る決断はできなかった。15分を過ぎたあたりで保留は止み、クリニックの看護師が出る。僕は手短に処方確認をして、処方間違いだったことを確認してから正しく入れ直す。
全てが終わってから車の中でぐるぐる考えて、もやもやしてくる。


5/13晴れ

今日は朝4時に起きて、写真を撮りに出かけた。
妻は寝ていたいようだったから僕だけで散歩した。
朝は光が弱くて三脚がないと、ブレてうまく撮れなかった。
せっかく早起きしたのに、もったいない気がしたけど1人で散歩するのは久しぶりだった。いつも妻が一緒だから少しだけ心細かった。空には雨雲がどんよりとし、あたりは霧に包まれていて空気に含まれた水分量がいつもより高い。
深呼吸をすると冷えた空気が肺に入って息をしているだけで気持ちよかった。
午前には行きつけのコーヒー店でオムライスとコーヒーを楽しんだ。マスターズブレンドといういつものコーヒーより贅沢なコーヒーがあったから注文してみた。いつも飲んでいるコーヒーより品があって、余計な雑味みたいなものがなくて驚いた。暖かい状態でも美味しかったけれど、かなり冷めてから飲んでみるとまたドライフルーツのような甘味と香りが出てきてすごく面白かった。それにしてもやっぱりお店で飲むコーヒーは自分が淹れるコーヒーよりも豆本来の魅力を存分に引き出している気がした。
ポイントは温度管理かもしれない。
店内にいる時に湯温計をポチった。
それから買い出しをして、午後には帰宅した。妻とあたり一面を粉だらけにしながらスコーンを作った。1kg近い小麦粉で作ったらゲンコツサイズのものが36個できた。流石に作り過ぎた気はしたけれど冷凍できるから後悔はない。
焼き終えたら部屋中が甘い匂いに包まれて幸せな気分になった。明日からのQOLが高まった。


5/14雨

今日は昨日焼いたスコーンを温めて、コーヒーと一緒に食べた。味はソルトアンドペッパー、ブルーベリークリームチーズ、チョコの3種でどれも美味しく焼けた。スコーンにフルーツを入れる時はフレッシュなままもいいけれど、ドライ系もありかも。スコーンはそこまで厳密な手順がないから粘土遊びみたいに作れて楽しい。
お菓子はコンビニやお店のものを買って食べているから、お店で買うものとして捉えがちだけれど、本来は自分で作って食べるというのが普通だったんだよなあと思った。作ることが分業化されたり、ある種の技術を持った人たちの特権みたいに感じてしまうけれど、本来はそんなことはない。当たり前のことだけれど、消費社会に生きていると忘れそうになる。
作ったことのないものを作ってそういうことを思い出すことは今の自分にとって大事なことなのかもしれない。

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