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【え19】大学青春物語(1)

「新聞奨学生制度」

これを利用して、2年ほど大学に通っていた時期がある。
簡単に説明すると「新聞配達をすれば、学費から何から全部出す」という、貧乏人にとって大変ありがたい制度だ。

今も変わらないが、当時の我が家は貧しかった。格差社会のパイオニア的存在だ。
進学するにしても、浪人するにしても、一定の大金が必要だ。それも変わらない。
幸いな事に現役で大学生となったが、だからといって大金が必要でなくなる事はない。
しかも「大学に行くのなら東京の大学に行け」という父が果たせなかった夢をすんなりと現実にしたのだから、大金に利息が付いたようなものだ。当時の日本育英会の「第一種自宅外奨学金」を頂いていた身であったとて、月々57,000円で東京で生活するとなれば、家賃程度にしかならない。
そんな状況で見つけてきたものが、この制度だった。

朝刊と夕刊にチラシを挟み。
それを配達すれば、学費は全て新聞社が出す。
住まいも用意する。光熱費も出す。食事も付く。
それに8万程度の「お小遣い」も頂ける。
しかも、それらの費用を返済する必要はない。
改めて思えば、夢のような制度だ。

この制度は、全国紙(読・朝・毎・産・経)が揃って行っていた。
その中で選択したのは、某経済専門新聞だった。
ギャラは下がるが他紙と異なり、集金や拡張といった作業が無いこと。
そして、経済新聞なので「チラシの枚数が少ない」のが理由だった。
何から何まで金銭的なサポートをして頂ける制度を、両親が見過ごす訳がない。申込書が届いたその日のうちに両親はサインと押印をして、郵便局へ直行した。
晴れて大学生という身分となり、東京へと向かう飛行機代でさえ、領収書は新聞社名義だった。

東京に着くと、まずは新聞社の本社へ足を運んだ。
この段階では、まだ「配属先」が決まっていない。不思議な状況だった。
ただ、「どこかの専売所(新聞屋さん)には必ず配属される」という保証はあった。追い返される心配はなかった。

担当者から最初に紹介されたのは、池尻大橋。
通学先から遠い場所ではないというのが、先方の理由であったのだろう。
しかし、4月から夜間部に通う身だった私は
「夜学の授業が18時から始まるので、それに間に合うような場所でお願いできるだろうか」
と不躾なリクエストをした。
上京したばかりの初見の田舎者のわがままを、天下の日経はよく応じてくれたと思う。配属された場所は当初の池尻ではなく「人形町」だった。

その日は別の専売所(たしか尾久だったと思う)に泊めてもらい、翌日に専売所の所長さんが迎えに来てくれた。60代の白髪交じりの男性。スーツに身を固めていた。都会の新聞屋さんのオーナーは、皆んなこんな感じだったのだろうか。自分の予想とは異なる風貌に、驚きを隠せなかった。

人形町へ向かうまでの会話は、あまり覚えていない。
「何処から来たの?」「通う大学は?」
至ってありきたりな会話だったからだろう。
そうこうしている間に、当分の間お世話になる街に到着した。

人の多さは気にならなかったが、各々の歩く速さには驚いた。
歩道が狭いにも関わらず、肩も当たらず歩く様にも目を丸くした。
純然たるお上りさんに対して、所長さんが言った2つの言葉は覚えている。

「ここは『上品な下町』だから」
「去年『事件』があったでしょう?(地下鉄の)前の駅と後ろの駅では死人が出ているから」

上品な下町。
確かに都会のど真ん中ではあれど『粋』な空気は感じられた。
尾久には失礼極まりない言葉だと思う。地方から出て来たばかりの者にとっては、北区や足立区も「上品な下町」だった。当時は。
そして、ここは1年前に起きた『あまりにもセンセーショナルな事件』の舞台の一つとなった街だ。
1年早く生まれていた身であれば、巻き込まれはしないまでも、悲惨な光景を目にしていただろう。
尾久・赤羽方面を卑下した言葉と、歴史に刻まれる出来事をアッケラカンと語る所長さんにも「都会人の香り」を感じていた。

お世話になった専売所は、三方をビルに囲まれた2階建ての日本家屋だった。
1階は事務所と食堂。2階が寮。寮は小網町にもう一か所あった。今考えれば相当な都会だ。
与えられた部屋は、専売所の2階にあった。ソフトフローリングが敷かれた6畳程度の部屋。ベッドと収納付。窓付けのエアコンもあった。トイレと洗濯機にシャワー室こそ共同だったものの、生活するには充分だった。文句は言えない。最寄りのJRの駅が「東京駅」なのだから。

最初の頃は、仕事は至って淡々に見えた。
朝刊配達は日本で一番遅く、夕刊配達は日本で一番早い。
午前3時に朝刊の束が届き、250部程度の朝刊にチラシ挟みをする。午前5時に2時間半の配達作業が始まる。夕刊の束は午後2時に届く。午後2時半に出発し、5時前には戻ってくる。
その後はサッサと着替えをして、地下鉄を乗り継いで大学へと向かう。
「第二部」なんていう立派な名称の付いた夜学でカリキュラムをこなし、夜の10時過ぎに部屋に帰って来る。
そこからシャワーを浴びてベッドに入ったとて、睡眠時間は4時間。
朝刊を配り終え夕刊を配るまでの時間のほうが、睡眠に取れる時間は多少長かった。

アルバイト経験が無い上に「宵っぱり」が染み付いていた人間にとって、慣れない仕事と昼夜逆転の生活はしんどかった。
それにプラスして夜には大学の授業があり、休みの日には「都会の誘惑」が待っている。
毎日ジェットコースターに乗せられているかのような日々だった。

配達先の光景も想像を超えていた。見えるもの全てが「大都会」だった。
目線を上に向けると、スパゲティのように首都高が走っている。
左手には宇宙戦艦のような茶色い建物がある。野村證券の本社らしい。
配達のスタート地にあるポストには「ハウス食品東京本社」と記されていた。
完全に名前負けをしていたが、全てが新鮮だった。月並みの言葉だが。

どの配達先にも「本店」「東京支社」という言葉が並ぶ。
そして、所長さんが言っていた『上品な下町』を具現化した場所もあった。
山本海苔店、鰹節の大和屋、八木長、加茂、鶴屋吉信、刃物の木屋。
「ミカドコーヒー」なんてTVの軽井沢特集でしか見たことがない。

配達先には、製薬会社も多かった。聞き覚えのある企業名が並ぶ。
大日本製薬、東京田辺製薬、三共…今はどこも吸収合併されたが。

つい先日まで環七を「かんしち」と言っていた人間にとって、日本橋本町・室町と呼ばれるエリアは刺激的だった。
左を向けば日本橋。右を向けば三越本店。少し目を向ければ三井本館。
千疋屋がある。東京西川がある。名前は知っていたが、実物は初めて見る。
そんなお洒落な街を、ジャージ姿に黒くて重たい自転車に新聞を乗せた田舎者が走り回っていたのだ。

同じ専売所で働く先輩方も、錚々たる場所に新聞を配達していた。
にんべん、興和、日本橋三越本店。
日本銀行や東京証券取引所もエリアに含まれていた。
もはや配達ではない。「納入」だ。

配達先こそ豪華絢爛だが、仕事自体は厳しかった。
雨の日も風の日も、当然ながら仕事はある。雨が降りしきる中、運ぶ物は新聞紙。絶対に濡らしてはいけない。今でこそ雨の日の新聞は一部ずつビニールでラッピングされているが、当時はそんな立派な物は無かった。
自転車の前かごに厚めの大きなビニールを被せ、その中に新聞を入れて運んでいた。今のようなゲリラ豪雨は無かったが。
大雪の経験はある。奇しくも20歳を迎えた成人の日だった。その日は一度もペダルに足を乗っけてなかった。中国雑技団の団員でも、あの状況で自転車を漕ぐことは出来なかったと思う。

予想通り広告チラシは少なかったが『業界紙』の種類は多かった。
日経産業新聞や日経流通新聞はもちろん、日刊工業新聞、金融経済新聞…「繊研新聞」なんて誰が読むんだ。

そして日経新聞のメインイベントは、6月頃にやって来る「株主総会特別版」。株主総会の集中日。経済新聞であるが故の特別版の発行だ。
その日は、いつも配る新聞の中に同じ大きさの新聞を4セット挟み込む。
配るキャパは4倍。自転車に乗っける部数は4分の1。なので配達時間も4倍。
短期間とはいえども、もっと早く知っておくべきだった。

夏の暑い季節。朝から雨が降りしきる日は、長靴に厚めの雨ガッパ。
冬の寒い時期。寒いビル風対策は、軍手もジャージも靴下も2枚重ね。上はドカジャン。ウインドブレーカーは気休めにしかならなかった。

当時「激務」と思っていたものは、今なら十分耐えれる。仕事量と職場環境は完全にペイする。
5時間我が身を捧げるだけで、大都会を満喫できる。
しかし、20歳になったばかりの小僧には「この仕事は割が合わない」と感じる事が多くなってきた。

隣の芝生は青い。
配達先で見かける工事現場の警備員さんの姿は、山のように新聞を積んで走って行く自分には光り輝いて見えた。
悩みに悩み抜いた結果として、青い芝生へ飛び込む事を決意した。

人形町という抜群な居住エリアも。
JRの最寄り駅が東京駅であることも。
上野・浅草・秋葉原・銀座・築地・六本木・表参道・渋谷・恵比寿…
どんな魅力的な街にだって、地下鉄一本で行くことが出来ても。
「この仕事は自分にとって劣悪な環境だ」という心境に釘を差すことは出来なかった。

大学3年になろうかという春。
青い芝生に寝転ぶ目的で、都心から遠い遠い場所へと引越す事となった。
思い返せば、安易な行動だった。金銭的にも環境的にも。
前半の2年間と、後半の2年間。「=」という記号では無理がある。
限りなく「>」な「≒」かもしれない。

あれから20年以上が経過する。
世の中には「反省するが後悔はしない」という綺麗な言葉がある。
「後悔はしない」という言葉は、自分を納得させる痩せ我慢だ。
「反省する」という言葉こそ、身体から滲み出る本当の気持ちだろう。
目的意識があって転職をしてきたのが、社会人の自分であるのならば。
青い芝生に体を預けたいが為に取った20歳の行動は、誘惑に惑わされた子供だった。

3,4年前に、当時の配達先に足を運んだことがある。
江戸橋あたりに変化はなかった。ビルのテナントが変わった程度だった。
汗水流して仕事をしていた室町界隈は、面影がなかった。
2つの高層ビルが建ち、三井会館の上にはマンダリンホテルが伸びている。
ここに何があったのかも忘れてしまうぐらい、街並みは劇的に変わっていた。
その気持ちは、20年以上前に感じた物に限りなく似ていた。

月並みのことを言うようだが。
もう2年踏ん張った上に、大学を出た後もこの街で働いていたとしたら。
当然ながら人生は確実に変わっていただろう。
変わりゆく街並みを、違う形で見ていたことだろう。

自分の担当エリアだった場所に、福徳神社がある。
「どうだい坊主。もう少し辛抱すれば良かったな」
祠の主は、そう思っているに違いない。

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【参考文献】
 ・Wikipedia「新聞奨学生
 ・Wikipedia「日本橋人形町
 ・Wikipedia「日本橋本町
 ・Wikipedia「日本橋室町