セオドア・グレイシック(著)、源河亨・木下頌子(訳)『音楽の哲学入門』【基礎教養部】

セオドア・グレイシック(著)、源河亨・木下頌子(訳)『音楽の哲学入門』を部分的に読んだ。この記事では、まず、本書に対する感想を述べ、次に「音楽の哲学」において魅力的と思われる問いを列挙する。最後に、それらを検討するための前提となる命題を列挙する。
補助として、ブルックスの「情報」とシャノンの「情報量」の概念を比喩的に用いて問いに取り組めないか考える。
なお、この本は、私が所属している秘密結社組織ジェイラボの Naokimen さんからおすすめされたものである。本書の概要を知りたいという方は、Naokimen さんによる書評と解説記事をリンク先から読んでいただきたい。

全体の感想

を述べておくと、論理展開を追うのに非常に苦労した。というのも、著者が主張することのために前提とされる音楽的な概念・主張と、吟味が必要なものとして検討対象となる概念がどのような基準で選定されるのかいまいち理解できなかったからである。例えば、第一章では、音楽が芸術か否か論じられる。音楽を構成するピッチやリズムなどの概念があることは認めるとしても (私は音楽的なバックグラウンドがないに等しいのでこういう専門用語は受け入れることにした)、音楽がどのようなものであるか議論するのに、「芸術」というより大きな概念を持ち出す理由が最後まで分からなかった。2章以降にも特段、「音楽は芸術である」が含意することが論理展開上必要となる箇所も思い当たらなかったので、分類のための分類のように自分には思われた。
(「芸術」という日本語の言葉が、前言語的な鑑賞を称揚する立場を想起させるので、第一章の主張 (音楽と音楽的なものは、鑑賞のための文化的な前提知識が必要なことで、区別できるとする) と衝突していると思われた。原著では「まっさらな状態での鑑賞」のようなニュアンスがないか、あるいは芸術教育などによって一定程度「芸術」という言葉が意味するところが共通了解として通じる読者に向けられた内容かもしれない、という留保は必要かもしれない。)
このような調子で、音楽の哲学というジャンルが一体何をしたい分野で、分野としての共通了解がなんであり、何を前提としてどのような主張がなされており、そのうちどのようなことで論争が起きているか、という全体像が論理的に整理されたかたちで掴めていない。膨大な引用も、挙げられた作品の百分の一も鑑賞できておらず、引用として適切なものであるかの判断も保留せざるをえない。全くの消化不良である。
(引用される膨大な作品をだいたい知っている読者に向けて、それらを包括的に芸術のサブジャンルである音楽の中に同居させるための言説を提供する、といった目論見のようにも思われるので、単に自分が読者ではなかったということかもしれない。すくなくとも自分は、音楽の哲学の意義を理解することができず、個別の作品を本文を追うのに役立てることもできなかった。)
この記事は以上の混乱を自分なりに整理する意味が大きい。

音楽の哲学において、魅力的に思われる命題

をいくつか挙げる。

  1. 一度目に聞いたときと二度目に聞いたときと鑑賞体験が変わるのはなぜだろう?

  2. 音楽鑑賞において前提知識はどのような作用をしているのだろう?必ずしも音楽そのものでもないように思われる。

  3. 鑑賞体験が変化すると同時に、何度聞いても想起される感覚のようなものもある。変わらないものとはなんであり、それあるのはなぜだろう?

  4. 音楽に普遍的に成り立つ性質について考えることは、よい音楽を作るためにどれぐらい役に立つのだろう?

  5. 一般的によい音楽であるということと、自分にとってよい音楽であるということはどのような違いがあるのだろう?同じ音楽でも人によって感じ方が違うのはなぜだろう?

  6. 音楽のジャンルは何を分類しているのだろう?音楽と音楽以外のものの間にある区別は、音楽の各ジャンルの区別とどれぐらい違うのだろう?

書籍でもこれらの問いの一部は取り扱われている。例えば、問1~3は、鑑賞における (前提) 知識の関係はどのようなものか、という大きな問いにまとめられる。本書の、「音楽と音楽的なものは、鑑賞のための文化的な前提知識が必要なことで、区別できるとする」に関する議論は部分的に転用できそうだ。また、「音楽の新奇性を評価するためには、他作品との違いが重要になる」(p86)という主張は、音楽のジャンルが区別できるということが前提になっているように思う。(問6)
問4, 5 については関連がありそうな箇所を本文から直接読み取ることはできなかった。
どうやら、自分は音楽というもののが発生させる、主観的な変化を重視するようだ。(本書では4章がそれを扱うが、非常に抽象的でなにがなんだか分からなかった。少なくとも、自分が目論んでいるように、鑑賞体験の変化を鑑賞者が持つ情報量の変化から説明しようとしているわけではなく、よりアプリオリな主観的感覚について考察しているように思われる。)

多くの音楽について成り立つ (と自分には思われる) 命題

を列挙してみる。

  1. 音楽は時間に沿って展開される

  2. 音楽は繰り返し構造がある

  3. 音楽は並列構造がある

ただ、この3つを挙げた時点で例外がいくつか思いつく。まず、本書でも取り上げられている、ジョン・ケージの『4分33秒』は、2と3を備えていないように思われる。1についても、「展開」を何らかの音楽が鳴り始めてから鳴りおわる終わるまでという普通の意味で捉えるならば成り立っていない。
繰り返しがない音楽も考えられる。例えば、ループが一回しかないものは繰り返しがないと言えるのだろうか。ただ1回の繰り返しもループとしても良さそうに感じられるのは、音階がある種の循環として定義されていることによる錯覚かもしれないし、そもそも物理的に全く同じ波形が全く同じ形で鳴るというのはあり得るのだろうか。鑑賞者が人間である以上、鑑賞者の身体的な状態も毎回全く同じ状態ではないように思われる。この2つを考慮しようとするのは無謀に感じられるので、1曲を聞き終わるぐらいまでの変化は音楽の構成要素の違い、音が一音違う程度には影響しない、とするのが穏当に思われる。音階の「循環」は、どうやって取り扱えばよいのかわからないぐらいので、放置する。
並列構造がない音楽はどのようなものだろうか。音の波形がフーリエ変換可能ならどんな音楽でも、並列と繰り返しで出来ていると主張できる気もするが、人間が音楽のまとまりを認知するのとはかけ離れているように思われる。ここでは、楽器Aがあって、楽器Bがあって、同時に鳴っている、という意味にする。

まとめると、ふつう「音楽」というと 1,2,3 を備えていて、2, 3 はいずれか一方がかけていても音楽の範疇ではあるが、どちらもかけていると病的だと感じる。ただ、これらを満たすものでも音楽と言えるか怪しいものをあえて上げることができる。例えば、到底全体を鑑賞しきれない音楽 (例えば1000年鳴り続けるもの) を音楽と言うか、並列度合いが著しく多いもの (例えば1億人の合唱) などが思いつく。前者については、ループがループとして認識できる程度に短いという但し書きをつければ、よくあるものだ。(BGM などに使われる一定のテーマを繰り返す音楽) 後者の例については、音楽が人間が歌い演奏するものである限りは実現されなかったが、コンピュータなどでは実現可能なように思われる。

音楽鑑賞における「情報」と「情報量」

気合が出れば書く。


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