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下位の親戚

私の遠い遠い親戚に、超お金持ちがいる。
昔からの事業が今に至るまで大当たりしている状況で、それはもうしばらくそのままの状態を保ちそう。遠い親戚一家はしばらく安泰なのだろうと勝手に想像している。

そうつい最近こんなこと書いたけど

その親戚の子にあたる方達は、とんでもなく恵まれた、いわば確変状態のスーパー当たりを引き当てている。
そして勉強したい事を勉強し尽くし、東京で法務関係の仕事などしたり、海外に拠点を置くスーパービジネスウーマンとして活躍していたりする。
本人たちの努力と能力ももちろんすごいのだろうけど、投資も莫大だったのだろうなと彼らを見ながら思う。

そんなお金持ちが親戚にはいる訳だが、私にそのお恵みが流れ着くことはない。
早い話しが、知り合いの知り合いの知り合いが有名人みたいなモノで、私の状況はかなりありふれた事だと思う。
これは所詮、とても主観的な、私からみたらお金持ちの人の話で、他の方からみたら大した話ではないのかもしれない。

そんなわけで、お金持ちの親戚の話。

かつてはその遠い親戚の「おばあさん」と言う方が、年に一度ほどは来ていたんですよ。
なにせ当時住んでいたうちはど田舎で、都会の喧騒とか賑やかさとはかけ離れていて牧歌的な田舎を楽しむには最適な場所だったんですよね。
それに、うちの祖母と気があったようで、よく2人とも大声で話をしていたっけ。
ウチは田舎で無駄に広いウチだったから、どうしても声が大きくなりがちなんだけど、その「おばあさん」の家も迷路みたいで、随分大きなお屋敷だったんだよなぁ。

その広いお家に初めて招かれたのは、その「おばあさん」が亡くなった時。
「おばあさん」が体調を崩されてからは、遠い親戚故、互いに会うのはもう冠婚葬祭のみになっていて、その時に初めて私はそのお宅に上がらせてもらった訳なのだが、もうね。すごいんですよ。

調度品の品格が。

分かりやすく豪華じゃないのよ。
よく見たら調度品の一つ一つが豪奢で重みがある。けして派手じゃなく、むしろ地味なんだけど、妙にどっしりとコッテリとした色合いでそこにいるもんだから、怖気付くような迫力がある。
そりゃそうだ。あのお屋敷にあったそのモノ達は、みな長い時間そこに鎮座し続けている。
精巧に情熱を注がれ作られた品は、ここで長い間ただじっと愛されていて、そんな確かな存在感があった。

全てが琥珀色の空気の中、お宅訪問はまだ始まったばかりだった。
たしか葬儀はもう済んでいて、今は東京でスーパービジネスウーマンとしてご活躍されている親戚の子に当たる方も、当時はまだとても若くてそのお話をたくさん聞かせていただいた。
とにかく全てが夢の話のようで、にわかには信じられない事の連続だった。
いま自分の前に座る彼女達はどう見たってふつうの品の良い女性で、まさか東大とかアメリカの有名大学に通っているとは考えも及ばなかった。
キラキラした話を聞かされた訳じゃない。
その格式高き勉学の話に、ただただ圧倒されたのだ。

そして月日は流れ10年後、その亡くなった「おばあさん」の娘にあたる方が自宅に来ていた。
「おばあさん」も今生きていれば100歳を越えていると思うが、よってその娘さんもそれ相応の年齢。しかもこの10年の間に脳梗塞になり、半身不随となってしまっていた。
でも、かなりの身体の不具合をおし、お抱えの運転手と共にやってきてくれたのだった。

10年の間に他にも色々な事があった。
私の祖父は亡くなり、私は学生から社会人になっていた。リーマンショックの最中、私はなんとか就職出来たことに安堵し、そして祖父の葬儀も済ませる事ができ、安心していた頃だった。

親戚の「おばあさん」の娘は、祖父が亡くなったことについて労いの言葉をかけると、その後は娘の自慢話に終始した。
我々遠い親戚はウンウンと頷きそれを聞いた。
というか聞くしかなかった。
突然半身不随の高齢者が来てどぎまぎヒヤヒヤしつつも、もうどうしようもない。
段差の多い田舎のおウチで、全て手探りで介助しながら、なんとかリビングまでたどり着いた後で、当人以外は体力的にも精神的にもヘトヘトだった。

お抱えの運転手は、そこにはいない。
とても品よく人柄のよい運転手さんなのだが、プライベートには干渉せず、よってうちでお茶を飲むこともなく、仕事ではない介助や介護をすることもない。気がついたらどこかに消え、帰る時間になればどこからともなくそこにいるという具合で、まさに運転手なのである。

そして。彼女はいつもアポ無しで来る。
本当に、家に着く直前とかに連絡くる。
というか携帯のない時代は、本当に突然来ていたらしい。とはいえ大体時期は同じで、仮に誰も居なかったとしてもそれはそれで済んだらしいので、これまたすごい。
(まっ、大概だれか1人はいて、仮にそれが10歳にも満たない私だったとしても、お相手をしなければならないのですが)
それはそういうものだった、というのを、あの日から随分と経ったあとに、家族から初めて聞かされた。

そんな状況だったとはつゆ知らず、私はその自慢話を、ごちゃごちゃとした状況の中、きっと惚けた顔で聞いていたのだろう。
「ジャムちゃんはこんなに勉強したくなかっただろう」
と、ニヤリと笑いながらいった。
私は苦笑いをし、うつむくほかなかった。
だって私は、もっと勉強したい側の人間だったから。

この日本で、真の意味で、勉強したくない人間というのはどのくらいいるのだろう?
それはかなり少ないと思う。
本人が十二分に勉強したと思う人生を歩めるのは、本当に一握りだ。

私が勉強したかったというのは、受かった大学のレベルが低く、もっと上を目指したかったからで、しかし浪人をすれば卒業は遅くなり、社会人になるのも必然とおくれる。そうして経済的に困窮するのは分かりきっていたので、浪人は早々と諦め、せめて仮面浪人のように勉強を重ね、編入試験を受け他大学にいこうと目論んでいた。
そのため、自身の通う大学の入学説明会の時期に、他大学の資料を見て、いつが編入試験なのか、試験内容はなどと、ひたすらに他大学の資料を見ていたほどだった。

ただそれも、幸運な事に大学生活が楽しすぎて、入学して2週間後には諦めてしまったけど。

そんな事情を彼女は知らないのだ。
知ることもなく察することもなく、この下位の親戚を見下し、娘自慢をしていた。
母は彼女の事を、歳をとったと言った。
きっとそうなのだ。
歳をとり身体は不自由になり、自分の子どもとは同居もせずに、あの広いお屋敷の中で、暴力をふるっていたという夫と2人で暮らしているのだ。(無論お手伝いさんはいるけど)

かつて、私は彼女の事が好きだった。
とても大きな声でイキイキと話をする彼女と、その母である「おばあさん」とのやりとりが好きで、幼い頃から興味があった。
だが、彼女はとにかく声が大きく表情も豪快で、8歳ほどになるまで、怖くて挨拶もできなかったほどで、なかなか話すまでには至らなかった。
(いつも物陰やカーテンに隠れ、覗いたり覗かなかったりしている私を、家族と彼女達親子はあたたかく見守り笑ってくれた)

そんな彼女とようやく話せる日が来たというのに、もう話せることはなくなっていた。
その事が、時の流れの無常を感じさせたのだった。

それからさらに10年が経ち、彼女とはもう数年も会っていない。でもその半身不随を克服し、左手で美しい草書の手紙を書き、送ってくださる。

その努力たるや。

本当に容易に想像ができた。
どれほどそれに時間をかけて、練習したのかは私には分からない。その分からないほどの膨大な時間、それに向かい努力したんだろうというのをいとも容易く感じさせるほどの達筆さで、それもまた時間の流れを感じさせた。

なんにせよ人生、色々な事がある。
人には色々な条件がある。
けれども、他人を見て羨んでも仕方ない。
所詮この世の中、自分の持てる武器で戦うしかないのだ。

幸いにも私は、色々なものに恵まれたと自覚している。それらをうまく利用し、したたかに生きようと思っている。
彼女とは全然違うけど、彼女のように。
つよく逞しく、ずっと。

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