それでも無印良品を選び続けるということ
【考える人】なる新潮社のWebメディアに載っていた西荻窪の雑貨屋の店主による無印良品に関する論考エッセイを読んでそれがめちゃくちゃに面白かった、面白かったというか、自分が無印良品を購入に至る理由について、あるいは部屋の中にある机だか椅子だかベッドだかを「無印で買った」と誰かに説明する時に抱く得体の知れない気恥ずかしさについて、普段ぼんやりと、とりわけ言語化することなく考えている旨を見透かされているようだった、ので、それについて書く。
日本というのは、経済の停滞等は叫ばれてはいるやもしれないが少なくとも表向きは、大体の人間の意識に上らない部分ではあるけれども、消費社会としてはかなり成熟しきっている状態を保っているように思われていて、ゆえに洋服とか家具とか文具とかを購入するに際して、一見して相当に多様なデザイン・品質・文化的な背景を持つ商品群から選択することができる、それは自らの「好み」に、あるいは自らがそうありたいと信じてやまない「好み」とされている理念に従って為されていく。しかしそれも行くところまで行き着いてしまうと、ある程度の量がまとまって自らの所有物になると、よほど入念に計画的に物質を取り揃えていかない限りは、次第にその統一感のなさに辟易としてくるし、選択という能動的な行動に疲弊もする。本来は自由意志に基づいて行われるべき選択を、あらゆる場面で強要されてしまうことによってもたらされるその辟易・疲弊は、それがどこかと指し示すことは困難ないささか感覚的なものではあるが、ある一点を超えると爆発的に加速する。所有しているものを処分して、全てをリセットして、何もかもを一旦無に帰してしまいたい。零から始めれば、次からはもっとうまくできるのに。 そんな願いが生まれる。
そこに手を差し伸べてくれるのが「無印良品」というわけだ。印の無い良い品々。水のようでありたい。恐ろしいキャッチフレーズではあるが、ゆえに魅力的でもある。これさえ買っておけば、という安心感が芽生える。「無印」という旗の下、簡単に統一感を獲得することができる。しかもそれは、日本全国ほぼどこにいても購入可能なのだ。「何を買うか」という選択の面に留まらず、「いつでも・どこでも」買えるという意味においても、芽生えた安心感は容易にに増幅する。が、その安心感に安住していると、それはすぐさま怠惰に反転する。選択の放棄。無印良品に囲まれた生活を送るということは、そんな怠惰な態度を表明し続けていることに他ならない。そのうえ無印良品の商品は「良品」という看板を掲げている通り、各カテゴリにおける高級品の類いとは隔たりはあるものの、(恐らくは)それなり良質なものであり、もはや「無印男子」「無印女子」という言葉さえ流通して久しく、彼彼女らがシンプルなライフスタイルを確立した人間というレッテルと化している、どちらかといえば褒めているニュアンスが強い場面が多いことからもその品質に対する(少なくとも一般的・大衆的な消費者からの)評価は窺い知れて、また価格帯の面でも、もっと安く済ませようと思えばいくらでも済ませられるはずであって、斯様な怠惰な態度でありながら、それでもなお手軽に良品を求めている姿勢、このいわば矛盾が、上に述べた気恥ずかしさの源泉となっているのではないか。
などという自覚をしながら、能動的な消費に疲れてしまった私は、破れたタオルケットのシーツの買い直しのため、淡い照明に照らされた、世界各地の民族音楽が流れている、柔かい木張りの店舗に、逃れようもなく吸い寄せられていくのである。
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