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ナホトカの日本人墓地を訪ねて ~極東ロシア紀行①

令和元年5月8日執筆(facebookより轉載)。去年5月に、「極東ロシア紀行」を①~③まで書いたが、その續編④を今年の5月中に書きたくなつたので、こちらにも①~③を轉載する。

旅は、令和元年5月1日~5日に行つた。

Nahodka, Russia

10聯休を利用し、ちょつとシベリア鐵道に乘つてきた。最初に向かつたのは、旅人がゐないナホトカ。ここでの最大の目的は、シベリア抑留者の「日本人墓地」を訪れることであつた。

とは言え、丸々10日間行つた譯ではない。「神社關係者である以上、特別な理由がない限り改元を國外で迎へるのは非國民である」との内なる聲が聞こえたので、前半は能登の山中で過ごし、平成最後の晩餐は北陸の妻の實家で食べ、新幹線で改元10分前に歸宅。翌日5月1日、氏神樣に挨拶し、「劍璽等承繼の儀」「卽位後朝見の儀」を成田行きの電車內で攜帶で見つつ、間もなくロシアに向けて出國した。

前囘のアフリカ旅行(3月16日~24日に行つた新婚旅行)から歸ると、途轍もない量の仕事が溜まつてゐた。それらの處理に忙殺され、気が付くと聯休のチケット代が暴騰してゐた。これは出遲れたと思つたが、折角だから距離的に近く、行つたことがなく、できるだけ異國情諸を感じられる場所を探した。すると、ビザの緩和もあり、極東ロシアが浮上した。思えば7年前、極寒のバイカル湖を見るために、モンゴルのウランバートルからイルクーツク行きの往復切符を購入し、ウランバートルのロシア大使館へビザの申請に行った。しかし、諸事情により却下された。その時から、シベリア鐵道への憧憬の念は抑へ難くある。これほど旅情をそそる鐵道も、世界中で他にないのかもしれない。

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魚屋の存在に壓倒されたウラジオストク國際空港。

最寄りの空港であるウラジオストク空港は、「日本から2時間半でヨーロッパ」といふのを賣りにしてゐるが、結局は韓國經由で9時間20分かかり、深夜1時20分に到着。翌朝、そのままウラジオストクへ行っても藝がないので、觀光地らしからぬ港町ナホトカへ向かつた。私が「ナホトカ」の名を最初に聞いたのは、1997年の「ナホトカ號重油流出事故」でだった。日本海側の海岸線に迷惑をかけまくつたこの事件の當時、能登に住む祖母はボランティアとして海へ柄杓で重油を掬ひに行つたらしいから、私とナホトカの間に、猛烈に薄い關係が出來上がつた。また、この町は私が住む橫濱と嘗てナホトカ航路で結ばれてゐた。

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町の中心部に到着すると、舞鶴・敦賀・小樽と姉妹都市であることが表示されてゐた。

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更に町を北上すると、「友好の碑」なるものがあった。それは舞鶴市によつて作られたもので、以下の通り書かれていた。

姉妹都市 舞鶴―ナホトカ

  日本海が永久に
    平和と友情の
    海であるように

 舞鶴とナホトカとの
友好的結びつきを記念し
 十月社会主義大革命
  六十周年にあたり
  この碑を建立する

1961年盟約 1978年建立

以上は時代を感じさせる文面である。

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更に北上すると、「友好の庭」なるものがあった。ここには、碑と共に小さな庭もあった。碑の文面は以下の通り

姉妹都市 敦賀市―ナホトカ市

敦賀とナホトカの姉妹都市盟約
締結1周年を記念し 両市の
平和と友好の強化を期
して友好の庭を贈る

 1983年10月
        敦賀市

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 更に北上すると戰勝記念碑やレーニン像があつた。もちろん、廣大なナホトカ港は眼下にずつと廣がつてをり、この町最大の見所とも言へる存在である(最上部の寫眞)。ここで、目的地である日本人墓地を探すべく南下に轉じた。と言つても、具體的にその地がどこにあるのかといふ情報は乏しかつた。そのため、バスを目的地最寄のバス停より一つ手前で降りてしまい、次にはそのバス停まで步いたのにそこが最寄りと分からずに、更に一つ先までバスに乘つてしまつたりと行つたり來たりを繰り返し、何とか發見することができた。

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驚いたのは、墓石の手前には鳥居が建つてゐたことである。更に、「日本人墓地」と記した墓石の台には以下の言葉が彫られてゐたことである。

 ここに1946年から2004年まで
 日本人捕虜の墓地がありました

といふことは、これは墓地でありながら墓地でないという不可解な事實に直面する。しかし、さうは言つても墓地と書かれている以上、墓地として考える他ない。しつかりと拜んだ。

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