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ウスリースク逃避行 ~極東ロシア紀行③

Ussuriysk, Russia

ウラジオストクに到着した日、坂の多い街を半日、距離にして30キロ步き囘つた。坂と軍港を特色とする街の景観を愛でつつも、喧騷とアジア系觀光客の多さにだんだんうんざりし出し、逃避を考へ出した。

その日泊まつた宿は、木賃宿とも言ふべき狹い部屋に異常に人を詰め込む安宿。ゴーリキーの『どん底』の舞臺となつた木賃宿のやうな、ロシア的な泥臭さと乱痴氣騷ぎを期待したがゆゑに、とにかく安さだけを基準で選んだのであつた(1泊約500圓)。結果、若者達が食堂で深夜になつても喋り續け、とにかくうるさい。文學上で亂痴氣騷ぎを鑑賞するのとは違ひ、實際に疲れて眠いのに近くで延々喋り續けられるとうんざりする。しかも、この日は深夜にビールを飮まうとしたものの、夜10時を過ぎてしまひ買ひそびれたため(22時以降は店で酒類を売らないのがロシアのルールらしい)、酒無しで苦しみながら早く片づけたいキャビアとニシンの鹽漬けとクヴァスと赤かぶのサラダと黒パンを押し込むやうに食べたやうな日だつたから(前囘の寫眞參照)、不條理をも同時に嚙み締めた一日だつたのだ。

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宿の外觀はこんな感じで、それほど酷くはない感じもするし、普通ではない感じもする。

それでも、この宿で面白いこともあつた。私が食堂で苦しみながら食べてゐる時、日本のアニメのコスプレ好きといふ女子大生に話しかけられた。この宿は、基本的にロシア人のみが使ふ宿だつたやうで、私は大分目立つてゐたやうだ(その人は、一目で私が日本人だと分かつたらしい)。そもそも、とにかく見つけにくい宿で、一切の表示がない上に、雜居ビルの3階にある。しかも、1階入り口は深夜鍵が閉まるが、イヤホンも無く、宿に電話しても英語が完全に通じないので、開ける方法が分からない。私が深夜帰宅した時、偶然にも直ぐに外出する人がゐて入り口が空いたお蔭で、何とか部屋に戾ることができたのである。そんな不便な宿だった。そしてあまりに不便で人口密度も高いので、晝頃チェックインしてから深夜まで、できるだけ宿にゐないやうに外出してゐたのである。

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そんな宿に、その女子大生のようなコスプレ好きがゐたのは(因みに、その日はその友達も含めて複数の仲間がゐたやうだが)、「Tokyo Kawaii」という奇妙奇天烈な名前の日本食レストランが近くにあることと關係してゐるのかもしれない。それはともかくとして、その女子大生はウスリースクの大學に通う學生といふ。そして、「ウスリースクに行つたことはあるか」と聞かれた。この時、まだ漠然と意識してゐただけのウスリースクは、私の逃避先に確定した。理由はともかく、ウスリースクという名前が出たこと自體が、啓示のやうに作用したのである。私は少し考へ、「ウスリースクは、私が明日行く所だ」と明言した。

ウスリースクは、ウラジオストクから北に100キロ。シベリア鐵道で僅か2時間で行ける町である。これに乘れば、シベリア鐵道本線を、僅か2時間だが味はふことができる(本當だつたらハバロフスクまで鐵道で24時間かけて移動したかつたが、ビザの關係でそれはできない)。それに、ウラジオストクからモスクワへ向かふ際、最初に到達する都市でもある。そして、何よりも、沿海州を代表する都市でありながら、「何もない」といふ素晴らしい特徵を持つてゐる。そして、私はこの特徵に魅了されたのであつた。

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翌朝、寢不足になりながら5時頃起き、昨晩に引き續きうんざりし出したキャビアとニシンの鹽漬けと黑パンを食べ、本氣で飽きたキャビアを共用冷藏庫に置き土產とし、6時45分發のシベリア鐵道に乘車した。もちろん、口直しのピロシキを車內に持ち込んだのは言ふまでもない。車窗からは、ひたすら續く大自然を見つつ、今回旅の友とした書はドストエフスキーの小說だったが、なぜ都市型と言はれる彼の小說を持つて來てしまつたのか。田園を志向するツルゲーネフやトルストイの小說の方が、今回の旅に合つてゐたのではないか。いやいや、極東の大都市で彼の都市小說を讀みつつ、そこから逃避しながらも讀むのがいいのだと自問したりした。そして、そんな自問よりも、晝ご飯に良きロシア料理にありつく方がよっぽど重要ではないかといふ煩悩に翻弄されたりもした。

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ウスリースク驛に到着すると、先ずはレーニン像が迎へてくれた。ナホトカにも、ウラジオストクにもレーニン像はあつたが、ここのが一番恰好は良かつた。そして、觀光客を無視し、ただロシア人の生活のためだけに町が囘つてゐるという感じが何よりも良かった。

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普通の家(しかも木造)。その左の木は櫻。5月上旬に滿開を迎へてゐた。

大通りに繋がる路地が未舗装であったり、時々櫻や名も分からない花が咲いてゐたり、道に迷つてゐたら陽気なおぢさんに助けてもらつたり、子供に「アニョハセヨ」と聲をかけられたり、時々現れる社會主義的建築物に感動したり、お土産用のキャビアを探したが全然見つからなかつたり。この町の名物は、「ウスリースキー・バリザム」という藥用酒だが、その工場へ行ったのに工場は閉まつてゐて買へなかつた。工場に隣接してをり、酒が多数竝ぶ商店でも、それは扱つてゐないと素つ氣なく言はれたりもした。

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ただの剥き出しの鐵パイプが、またいい味を出してゐる。

觀光客に媚びない、純然たるロシア人の生活が垣間見える場所こそ、正に旅情の極みであつた。さて、そんな偉さうなことを言つたり、「逃避行」と銘打つたりしたが、ウラジオストクを脫出したその日に、再びウラジオストクへ戾るのであつた。今晩、オペラの豫約をしてしまつてゐたのだから。往復時間4時間半、滯在時間僅か3時間半のお粗末な逃避行であつた。

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町の中心部らしい。

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