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不安って尿意に似てるよね(語弊)

不安ってなくそうとしても、マジでなくならない。
子どもの頃は大人になってたら世の中のことが大体分かってきて、不安のない日々が過ごせるんじゃないだろうかと思っていたけど、全然そんなことなかった。
むしろ子どもの頃より不安は尽きないし、年齢を重ねれば重ねるほど答えがすぐに出ない問題にぶち当たることが多くなる。
しかもクリアしたとて、また別の、なんなら前よりもより複雑な問題にぶち当たる。

この世は無限地獄なんか!?

いや、そうじゃない。というか、ホントは「人生は地獄」だなんて思いたくない。
でも人生ってそういうもんなんだな、と、最近そう思うようになった。
不安になるたびに、「この不安を早く失くしたい」と思う。その不安を消す方法は分かってる。何らかの形で問題が解決されれば、消えるのだ。

つまり、解決できないまでは、常に不安を抱えて生きることになる。
早く手放したい。でも今日すぐに答えが出そうにない。自分ひとりでは進められない。大人になると、こういう問題が結構起こる。

でも人生は地獄って思いたくないから。
地獄にしたくないから。

だからと言って、早く不安をなくしたいがあまり自分の中で不安を「なかったことにする」ことは、経験上一番つらかった。
親の願望を押し付けられてグレてしまう子どものように、不安をなくそうとすると、返って大きくなる。まるで「僕の存在を認めておくれよ」と言ってくるかのように。
不安だって、居場所が欲しいんだなと思った。その不安を抱えているのも、自分だから。どうやったって、自分から自分を切り離すことは、できないのだ。切り離せたとて、自分は、さぞかし痛いだろう。

そうなると、「不安と付き合う」とか「不安と仲良くなる」とかそっち方向の発想に至る。
解決できない不安な日々は、なんら特別な日々ではない。

「不安こそ、日常」
「不安が起きるのは、生理現象」

そう、不安は尿意に近い。尿意が嫌だという人はいないだろう。尿意がないと、ある時漏らして恥ずかしい想いをしてしまうから。
尿意が排泄のアラートのように、不安も成長とか、軌道修正とかのアラートなんだ。
そう考えれば、不安は味方になれる。

尿意よりはすぐに解決できないことの方が多いけど。
いやもしかしたら、ただの考えすぎなだけで、すぐに解決できるのかもしれないけれど。
ただ尿意をギリギリまで我慢した後の排泄って、なんかすっごく気持ちいいんよね。
尾籠な話でごめんなさい…。


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