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夢に気づかされる

2020年3月19日木曜日。

本日もテレワークのため、近所の喫茶店でクライアントに提出する報告書の作成。

帰り道に寄ったたい焼き屋(お汁粉にしたかったのであんこだけ買う)や、スーパーでの「現金で」とか「商品券使えますか」くらいしか言葉を発していないことに少し戦慄を覚えつつ帰宅。

夜、お風呂で池谷裕二さんの「脳はなにげに不公平」を読んでいたら、人間が寝ている間に見る夢について書かれている章に出会った。

フロイトを挙げるまでもなく夢に関する研究は昔から数多く、最近の通説では、ある人の過去の出来事や経験から、未来に見る夢の内容を推定することが70パーセントの正確性で可能になっているそうだ。

潜在意識の表れ、であったり、自分を思って(または想って)くれている人が登場する、であったり、昔から聞くような夢に関する言い伝えというか通説も、近年は変化しているのか。

わたし自身の経験でいうと、夢は自分が気づいていなかったことや気づかぬふりをしていたことに気づかされる機会であることが多い。

例えばある時には、とある親しいひとが夜な夜な夢に現れたことがあり、ああ認めたくなかったけどあの人が遠くに行ってしまって自分は寂しかったのか、と気づかされた。

またある時には、夢の中でなぜか同僚と一緒に外出することになったのだが、わたしは同僚の顔色を伺って、行きたかったテニスの試合に行くことを主張できなかった。にもかかわらず同僚があっさりとその試合を見に行って、しかも楽しんでくれる、という夢を見て、なんだ遠慮せずに主張を通せばよかったのか、と安堵したりした。

で、一番最近見た、昨夜の夢を振り返ってみた。なぜか(夢だから根拠や脈絡は当然ない)会社の上司がわたしにドラムの先生を紹介してくれ、わたしはその先生の教室を探し回るが時間内に見つけられず結局レッスンを受けられない、という夢だった。教室を車で探しあぐねた挙句、もうレッスンを約束した時間の終わりが迫ってしまい「しょうがないか」と思う時点で目覚め、朝からなんとも残念な気分にさせられた。

この夢が示していることは何か?それは、今チャンスを与えられているのに、活かせていない、という潜在的な危機感ではないか。

コロナウイルスの騒ぎのせいで、ここ一ヶ月近く我々一般の会社員の多くは、同僚や知人と顔を合わせないテレワークを余儀なくされている(テレワークの導入に不満や特段の意見はない、念のため)。

人の目がないとすぐに楽な方に逃げる、自分に甘い自分…ちゃんと、妥協せずに精一杯生活している?自分に問うてみると、朝いつもより遅くまで寝ていたり、作業していてもすぐに休憩と称してネットサーフィンしてしまったり…ああ、会社がないと自分はかくも生産性を下げてしてしまうとは。


ところで、夢に出てきた上司とは一昨日に電話で話した。こんな異常事態だからこそ、生と死とか、哲学に触れたり思いを馳せたりする機会かも、と彼は言った。

確かに、とわたしは思った。普段は、仕事があるから、会社があるから、を言い訳に深く向き合うことから逃げていることと向き合うチャンスを、わたしは与えられたのでは?

死生観や人類の将来とか壮大なテーマも勿論良いし、わたしの場合は、奇しくも自分の時間の使い方とか、腰が重いところとか、直したいところが露わになっているのだ。これは改善の努力をするチャンスかもしれない。せっかく他人と接する代わりに自分と向き合う時間をたっぷり与えられたのだから。

そう考えると、この不安で落ち着かないテレワークの日々も、前向きに捉えられなくもない。無理矢理でもこじつけでも、自分を奮い立たせられる、かもしれない。

今晩は、タバコを一本だけ吸ってさっさと寝よう。明日は早起きしてきちんと自分が満足のいく生活をするのだ、もう残念な気持ちになる夢を見ないように。



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