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来たれ、どんぶり勘定革命

あまり大きな声では言えないが、最近、柄谷行人の『世界史の構造』を読んだ(オードリー・タンに触発されて読んだというのも、ナイショの話だ)。マルクスが生産様式で歴史を語ったことの問題点を指摘しつつ、その代わりに交換様式を導きの糸として歴史を語り、その上で申し訳程度に資本主義を乗り越えるための展望が描かれている本だった。

資本=ネーション=ステートという構図で歴史を語る手法は鮮やかで「天晴れ」の一言に尽きる。一方で、未来への展望の方は拍子抜けで、本としては尻すぼみの印象を避けることは難しい。

確かに労働組合は所詮、資本のルールのもとでの戦いであり、資本主義を強化する結果にしかならないという指摘は、スラヴォイ・ジジェクやマーク・ボイルのような陰気な左翼も同様のことを言っていたし、共感できる。

労働者のアソシエーションも、結局は市場の競争の中で敗れて、戦時独裁にたどり着く‥という主張も悪くないと思う(ティール組織が資本主義社会でも勝ち残ることが可能であることを持ち出して反論することもできるが、まぁ一旦我慢する)。

だからと言ってその代替案として、エシカル消費でボイコットすることや、(カントを援用しながら)国連を重視するという消去法的なアプローチを提示するのは、誰も反論しづらい隙間産業風の言論を探し出す、消極的な方法だと感じずにはいられない。そして、あれよあれよといううちに、交換様式Dが支配的になる‥というような投げやりな結論に辿り着くのは、ガッカリと言う他ない。僕としてはもっと知的興奮を掻き立てるような結論を読んでみたかったのだ(そんなことばっかりやってるうちに人はポストモダンに夢中になるのだろうけれど)。

このガッカリ感の原因となるものはなんなのか? 僕なりに振り返ると、柄谷が交換様式AやDを理想化していることに思い至った。

交換様式Aの高次の回復が、交換様式Dらしい。要するにA≦Dだ。では、それはなんなのかと言えば、マルセル・モースの『贈与論』でやたらと取り上げられていたような互酬性による交換だ。

つまり、一見すると見返りを求めないような贈与が、実は相手へのプレッシャーとなり、そのプレッシャーが返礼を実現させ、結果的に社会がうまく成立する‥みたいな社会が想定されている。これはピエール・プルデューがアルジェリア社会の互酬性を観察したときの世界観とも似ている。要は、その行動原理は金ではないものの、誰しもそうではないなんらかの合理的な計算に基づいているという世界観だ。

僕は、資本主義や封建制以外の社会では例外なく、皆が贈与によってプレッシャーを与え合い、虎視眈々と合理的計算をしているかのような見方をする必要があるのか?という疑問を抱かざるを得なかった。教条主義的にシニカルな態度に固執する経済学者を批判していたとしても、結局は同じ穴の狢じゃないかと感じる訳だ。

僕はもっと合理性や見返りを求める心を排除した社会が可能であると思っている。事実、柄谷自身も、家庭内のあり方は交換様式Aですらないと指摘している。見返りを求めない、純粋な善意や贈与。デヴィッド・グレーバーのいうコミュニズムは一見すると交換様式Aのように思われるが、そうではなく、A~Dのどこにも当てはまらないやり取りの形式だ。

もちろんそこには、数%の見返りを期待する心を見出すことは可能だ。それに、結果的にお返しをしてもらうケースもあるし、全くお返しをしない人を咎めてしまうこともある。だが、そういうあれこれを概ね有耶無耶にしてしまう利害のどんぶり勘定は、家庭内だけでなく、友達、同僚、親戚、ときにはたまたま飲み屋で居合わせた客や、金銭のやり取りをおこなっているビジネスパートナー同士でも成立することを、僕たちは知っている。

何が言いたいのかといえば、僕は「利害を計算しない」という大らかさが、理想的な社会に必要な要素だと感じているわけだ。

残念ながら人は、利害を計算することをいいことだとみなすことが多い。グレーバーも『負債論』に書いていた通り、人が理想的な社会を夢想するとき、誰もが平等に義務を果たすような互酬性の幾何学を思い描かないことは難しい。例えば子育ては利害を完全に抜いた行為だが、それすら強引に互酬性で解釈することは可能ではあるし、そうする人もいる(例えば「未来の介護人を育ててる」とか、「可愛さと引き換えに世話をしている」とか)。

しかし、そういう義務の感情こそが、社会的不平等や不寛容を生み出す原因となっていることは明らかだ。ニーチェも言うように、忘れないということは、不健康なことなのだ。

もちろん、そういう大らかさとお金とは、根本的に相容れないものであることは疑いようがない。なぜなら、お金とは義務を正確に計算したいという欲求から生まれたものだからだ。僕たちは酒の勢いで友達と雑な割り勘をすることで、正確さから逃れることはできるが、あくまで金という正確さを前提としたシステムを前提としている以上、それは一時的な逃走に過ぎない。

もちろん、全人類が金を維持したまま、どんぶり勘定をする未来も思い描けないことはない。ベーシック・インカムが実現した社会は、まさしくそれに近い。なぜなら、わざわざ合理的に計算しなくても、未来永劫自分の生活が保障されているからだ(この感覚を持つ人類は、現代にはほとんどいない。今や億万長者であろうひろゆきですら、せっせと節約して貯金をしているのだから)。

そして、もはやそうなった時点で、お金が不要な存在と化していることは見逃せない。僕はベーシック・インカム至上主義者だが、ベーシック・インカムを経由することで、人類社会をどんぶり勘定社会へと移行させ、最終的にお金の存在を破棄する未来を夢見ている。

もちろん、人は嫉妬するし、怠惰な側面を持っている。故に誰もがフリーライダーを目指す可能性は完全に排除することはできない。だが、人が純粋に、かつ永遠にフリーライダーでい続けることは、意外とむずかしい。体操の授業で、巨大なハンペンのようなマットをみんなで運んだ経験は誰しもあると思うが、みんなが運んでいる間に、腕組みをしてそれをぼんやり眺めるという行為が、いかにむずかしいかを想像してみてほしい。他の何に変えてでも、自分も運ぶのを手伝わせてほしい、なんなら手を添えるだけでも構わないと感じないだろうか?

稀に平気で腕組みをできる人もいる。だが、そういう人が1人や2人いたくらいでは、社会機能にはなんら影響はないと思う。僕が引っ越しする日に、友達数人に応援をお願いしたのだが、1人だけ遅刻してやってきて打ち上げだけ参加して帰って行ったやつがいた。別に、打ち上げだけ参加すればいいのだ。全員がそうなら成り立たないが、後日、逆に僕が彼の引っ越しを手伝ったときは、彼はあくせくと働いていた。働きアリがいなくなったら、働きアリはどこからか現れるのだと思う。

もしかしたら、僕たちがひもじい大学生だったなら、働かないアリに腹を立てていたかもしれない。だが僕たちは曲がりなりにもそこそこの大学を出てホワイトカラーのサラリーマンになって5年とか6年が経ち、みんなそこそこの収入を得ていた。要するに不完全ながらも疑似的なベーシック・インカム状態になっていた故に、そういう大らかな心境になれたのかもしれない(僕はホワイトカラーの正社員は、ベーシック・インカム受給者に近いと思っている。ただし、ベーシック・インカムとは違い、組織へ従順であれという精神的なプレッシャーがあることや首切りや倒産リスクが少なからずあることから、完全に同一視はできない)。

こういうエピソードは誰しも1つや2つ持っていると思う。バーベキュー大会で、何も手伝わない奴がいないか、何も手伝わない奴も咎められることなく肉を喰らっているようなエピソードだ。これこそが、僕が理想とする社会が実現可能であることを証明していると、僕は感じている。

もちろん、僕は僕自身がユートピア主義者のように見えることは承知している。だが僕は、それをユートピアだと思う思考様式が、それを非現実的なユートピアにしているのだと考えている。車社会が善意と思いやりで成り立っているように(後ろの車が車線変更できずに事故ったとしても、自分は何も困らない訳であって、ならばそれを無視する方が早く目的地に到着するため合理的であるにもかかわらず、人はウィンカーを出した車に道を譲る。その事実に僕たちはもっと驚くべきだと思う。シニカルに「BIなんて無理、働かなくなるだけっしょ」みたいなことを言う人は特に)、社会全体にそのメカニズムを応用することは可能だと思う。

以上の理由から、僕は相変わらずベーシック・インカムに固執する。世界同時革命しか、真の革命になり得ない(なぜなら他国の干渉を招くから)という古典的なマルクス主義やプルードン主義の発想も悪くないものの、僕は完全にそれに与することはない。なぜなら、一国がベーシック・インカムによってほのぼのとした社会を実現すれば、他国も真似せずにはいられないと想像しているからだ。つまり、一国が革命を起こせば、時間差革命が起きると思っている。仮面を被った植民地主義も、そのうちに消えていくだろう(という未来予測は多少、楽観的すぎるかもしれないが)。

『世界史の構造』は面白い本だったし、僕の世界の理解の仕方を少しだけアップデートしてくれた。それでも、考え方は変わらなかった。僕はこれからも同じようなことを手を替え品を替え言い続けると思う。

来たれ、どんぶり勘定革命。息子や娘、せめて孫の世代には、そういう世界になっていてほしい。というか、そういう社会を見ることなく僕は死にたくない。

とか言っていると死ぬような気がしてきた。夜神月のようにね(ようやく、トップ画を回収して一件落着)。

いや、死んでなるものか。僕は新世界の神となるのだから。

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