子どもを「旅行」に連れて行ってはないけない

「旅行」に行きたいのは大人であり、それは大人のエゴである。「子どものため」という言葉で取り繕おうが、子どもは「旅行」に行きたいわけではない。この事実をまず認識しよう。

2歳の息子にとって、「旅行」とは我慢の連続だ。彼は目的を持たないし、計画もない。今やりたいことに集中したがる。

それなのに「旅行」となると、大人が次の予定を決めてしまう。プーさんのハニーハントに乗らなければならないばっかりに、木の周りをぐるぐる走り回りたい気分であっても、次に進まなければならなくなる。

当たり前ながら、予定は自己目的化する。子どもに楽しんでもらうために遊びにきているにもかかわらず、子どもから一番やりたいことを取り上げてしまうくらいに。

子どもは駄々をこねる。大人はイライラする。

子どもは折れて、仕方なくお土産屋に入る。するとそこら中に面白そうなものがある。手に取ったり投げたりしたいという気分に駆られる。

マルクスが言うように、この社会は巨大な商品の集まりなので、そんなことは大人が許さない。手に入らない、好きに触れない、駄々をこねた挙句、また我慢。大人はさらにイライラ。

大人は、子どもの楽しみ方を指定する。大人はいつだって楽しみ方を指定されることに慣れていて、指定されることこそが正しい楽しみ方だとついつい思い込む。いつだってワイドショーとインスタグラムが正しい楽しみ方が教えてくれる。それ以外の楽しみ方は、もう忘れてしまったのだ。

僕は指定される楽しみ方を捨ててみたい。計画も捨てたい。そうすればようやく僕たちの目の前に景色が現れてくるように思うからだ。そして、世界が可能性に満ちたものへと変わる。「旅行」は「旅」になる。

ゆるやかな目的を1つか2つか、それだけを持って歩けばいい。目的はいつでも変えればいい。商品のない場所で、好きなものをいじくり回し、好きなだけ持って帰ればいい。車道と歩道の区別がない場所で、好きなところで寝転がればいい。

休みの日も管理されるなんてゴメンだし、子どもを管理するのはもっとゴメンだね。

社会のマナーなんて、わざわざ教え込まなくても必要なら勝手に覚えるさ。それに、マナー違反をしているのは、たいていマナーを口うるさく注意している奴なんだしさ(飲食店でキレ散らかしているオッサンを思い出そう)。

あぁ、旅がしたい。気楽な旅が。

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