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好きなことをやる男たち【雑記】

ダニエルぱくもとさん、稲葉くんが大阪に遊びに来てくれて、昨日、飯に誘ってくれた。

ダニエルに「なにしに大阪に来たの?」と尋ねると「ホモ・ネーモさんに会いに来るのがメインですよー」と言ってくれた。ほんまかいな・・・と思いつつも、なかなかいい気分である。話をしていると、YouTubeでの好戦的なキャラクターとはうって変わって腰が低いことに気が付く。しかも車で家まで送ってくれたり、なにも言わずに気を利かせてペットボトルのお茶を買ってきてくれたり、「まとも書房に協力したいんです!」と積極的に協力を表明してくれたり、むしろめちゃめちゃ好青年であった(本人曰く、YouTubeの振る舞いは芸であり、プロレスらしい)。

ぱくもとさんも、YouTubeの対談のときに話したときは押され気味だったのだけれど、あってみるとすごく話しやすかった。こちらの意図をスッと理解し、議論がこんがらがれば整理し、適宜、必要な情報を引き出してくれた(しかも映像で見るより高身長でイケメンだった)。お互いに意見が異なる部分はあれど、いい対話ができたなぁという実感である。

稲葉くんは、まだ大学生の悩める青年である。寡黙で、自分を表現するのが得意ではない印象だが、なにかを内に秘めている気がする。それをほぼ引き出せないまま終わってしまったというのが正直な感想で、また話をしてみたいところである(YouTubeで対談したいと申し出てくれたので近いうちに実現させたい)。

まずは、三人に感謝をしたい。ありがとう。

彼らはまとも書房を応援してくれているわけだが、だからといってアンチワーク哲学に完全に同意しているわけではない。とくに、強制という意味での労働がなくなり、みんなが好きなことをやればなんやかんや社会は成り立つ(なぜなら人には貢献欲や成長欲があるから)といった僕の主張には、懐疑的であった。

その疑念は当然のことであるように思うし、僕は彼らが間違っていると断言するつもりもない。これからも議論をしていく必要があるだろうし、完全に議論に決着がつくこともない。それはこれからの社会の中で絶えず蒸し返されるテーゼであり続けることだろう。

しかし、僕が彼らとの旅の中で痛感したのは、疑念を呈す彼ら自身の振る舞いが、彼ら自身の貢献欲を物語っているという事態である。

先述の通りダニエルは親切にしてくれたし、ぱくもとさんも書店で僕のことを猛プッシュしれくれた。稲葉くんもYouTubeに協力すると申し出てくれている。彼らの内心がどのようなものなのかは僕には知る由もないわけだが、彼らが僕にたいして自発的に貢献してくれたという印象を抱かずにいることはむずかしい。それに僕たちはずっと理想的な社会についての議論をしていた。それは、自分ひとりだけではなく(もちろん自分自身が幸福であることも重要事項であるとはいえ)、なにより社会全体がより良くなって欲しいと考えている証拠であろう。僕には、彼らの「好きなこと」は、誰かのためや社会のためになんらかの貢献をすることであるように思えてならないのだ。

多くの人が「好きなこと」と聞いてイメージするのは、ぼーっとテレビを観たり、ホテルのディナーを楽しんだり、飛田新地で豪遊したりすることだろう。ここでは、人間の欲望は消費やレジャーにしか向かわないと前提されていると言える。

僕が考える「好きなこと」は、消費やレジャーだけではない。誰かにお願いされてそれに応えることすらも、欲望の対象なのである。たとえば誰かに頼まれて日曜大工のスキルを披露する場面を想像してみるといい。そのときあなたは「しゃーないなぁ」と乗り気じゃないふりを装いながらも、ニヤニヤしているのではないだろうか。そして、「あ、やっぱり業者に頼むから大丈夫!」と遠慮されたら、きっとあなたは落胆するだろう。

そして、どうせやるなら、とことんやりたくなってしまうのである。くみさんから聞いた話では、以前、知り合いの職人に無料でピザ窯をつくってもらったとき「いや、このレンガの積み方をもっとキレイにしたい・・・」と謎のこだわりを発揮されて、当初の予定以上のクオリティのピザ窯が完成していたことに驚いたらしい。

もし、その職人がピザ窯を完成させたあとレンガの積み方に納得がいかなかったなら、彼は次のピザ窯つくりのチャンスを欲するだろう。そして、それまでにキレイなレンガの積み方を調べ、スキルを磨き、次こそは完璧なピザ窯を完成させようと意気込むだろう。

他者の要望に応えて貢献することや、ミッションの完遂、あるいはそのために必要な自己成長は、すべて人間の欲望の対象であり「好きなこと」ある。そうした欲望を、同じ時間を過ごした三人は抱いていたように僕は感じるのだ。

もちろん、彼らが特別な人格者であるという可能性もある。実際、彼ら特有のユニークさや、モチベーション、能力があることには疑いの余地はない。しかし、だからといってほかの人々がまったく利己的であると考えることは、どうしても僕にはできない。

余談だが、シリアスレジャーという概念があるらしい。

この記事によれば・・・

もともと、カナダの余暇研究者ロバート・ステビンスが1982年の論文“Serious Leisure: A Conceptual Statement”において提唱した。アマチュアや趣味人(ホビイスト)、ボランティアといった人々の活動を表すための概念である。これらの活動は余暇に行われるが、労働のためのエネルギーを回復・再創造(re-creation = レクリエーション)するための休息や気晴らしではない。むしろ、自分のやりたいことを実現するために行われる活動である。そのような特徴を、ステビンスは「シリアス」(真剣な)という形容詞で表現し、休息や気晴らしとして行われる「カジュアル」な余暇活動と対比させた。

ステビンスは『Serious Leisure: A Perspective for Our Time』(2015年、Routledge)において、シリアスレジャーを次のように定義している。「アマチュア、趣味人、ボランティアの中核的な活動を体系的に追求すること。彼・彼女らにとって、その活動はたいへん重要で、面白く、充実したものだと感じられる。そのため、典型的な場合では、専門的なスキル、知識、経験の組み合わせを習得し、発揮することを中心としたレジャーキャリアを歩み始める」。ここから、シリアスレジャーとしての趣味は「余暇活動としての継続性」と「専門的な楽しみ方の実践」という2つの特徴によって、カジュアルレジャーから区別されることが分かる。ここに趣味らしさの源泉がある。

つまり、おおむね専門的なスキルの積み重ねが必要ない、ぼーっとネットフリックスを観るような活動をカジュアルレジャーとすれば、積極性とスキルの積み重ねを伴う活動をシリアスレジャーと呼ぶらしい。

カジュアルレジャーとシリアスレジャー、どちらの方が満足度が高く、人がやりたいと感じるのかと考えれば、シリアスレジャーであることに異論はないだろう(あるいは、ネットフリックスをみるようなカジュアルレジャーすら、監督名を掘り、ストーリーを考察し、レビューをネットにアップするようなシリアスレジャー化をしてしまった方がおもしろいことも明らかである)。

シリアスレジャーは、あくまでレジャーという言葉がついているように、それが誰かにピザ窯をつくったり、ピザを振る舞ったりするような社会貢献活動と化していく可能性を包摂した概念とは把握しづらい。とはいえ、レジャー的なモチベーションが、社会貢献活動と化していくことは十分にあり得るし、むしろ人間は社会貢献を欲望する側面があると考えれば、そうならない方が不思議である。

シリアスレジャーが社会貢献活動化していくと、先日紹介したワーキッシュアクトの概念に接近していく。ワーキッシュアクトとは、利潤目的としてではない(あるいはその要素が極めて小さい)、自発的な社会貢献活動であり、遊びの要素を含んでいる活動である。

シリアスレジャーやワーキッシュアクトは、あくまで利潤目的の経済活動が主体の社会における補助的な存在としてイメージされるケースが多い。だが僕はシリアスレジャー的あるいはワーキッシュアクト的なモチベーションによる活動で社会を覆い尽くすことを「労働撲滅」あるいは「労働なき世界」と呼び、その実現を目指している。

ただし、このことは「雇用契約や賃労働の撲滅」を意味するわけではない。僕は「正社員雇用」といったシステムそのものは(最終的には廃絶されていく可能性が高いと考えているものの)、差し迫った問題であるとは考えない。アンチワーク哲学において労働とは「他者より強制される不愉快な営み」である。つまり強制されない(と本人が感じている)状況で、自発的に正社員として雇用契約を結ぶという事態に問題があるわけではないと考える。

では、なにに問題があるのかと言えば、「そうしなければ生きていけない」という状況に強制され、しぶしぶ雇用契約を結ぶことである。もちろん、実際はそうしなくても生きていける。生活保護もあるし、コンビニの廃棄と炊き出しで生きていくことはできる。不愉快な職場から転職したっていい。ただし、「そうしなければ生きていけない」と感じていることが重要なのである。転職先が見つかるとは限らないし、給料がさがるかもしれない。それに何度も転職をすれば履歴書に傷がつく。簡単には逃げ出せないのがふつうである(逆に、やっていくるうちに楽しくなってくることもあり、強制感が薄れていくこともある。とはいえ、その境地に至るまでのハードルは高いし、社会全体としてそうすべきである理由もブルシット・ジョブの登場により正当化しづらい)。

そのような状況は、ベーシックインカムで大部分が緩和されると見込まれる(完全には緩和されるわけではないだろうが、大部分が、である)。そうなったときに、依然として賃労働を続ける人がいるかもしれないが、彼の賃労働はシリアスレジャー的、あるいはワーキッシュアクト的な活動に接近しているはずである。もしそうでないのなら、彼はその活動をやめる可能性が高いからだ(マネーゲームに邁進する人は一定数は残るだろうが、彼に付き合ってくれる人たちは減っていくと僕は見込んでいる)。

もちろん、日がな一日カジュアルレジャーに邁進する人も一定数はいるだろう。だが、多少そうした人がいたところで問題ではない。食い扶持を稼ぐために行うつまらないブルシット・ジョブをやめて、彼が趣味に邁進するなら、それが「改善」であることに疑いの余地はないはずだ。ブルシット・ジョブのために振り回されていたエッセンシャルワークが減っていけば、社会全体で必要とされるエッセンシャルワークはそこまで多くないことにこの社会は気づくだろう。それは十分にカジュアルレジャーやワーキッシュアクト、そうしたモチベーションに近い賃労働で十分にカバーできるに違いない。

強制された活動や金で釣られた活動よりも、自発的な活動の方が高い成果をあげるという指摘は、いま書店に並んでいるビジネス書を適当に拾い読みすればどこにでも書いてある。そんなことは誰もが知っているのである。みんなが自分自身のことはそう思っているのである。「労働したくないっていうか、強制されたくないだけなんだよね・・・」みたいなXのポストを見かけたことのない人はいまい。

でも不思議なことに自分以外の他者の話となれば「いや、あいつらはネットフリックスを観てゴロゴロするに決まっている!」「強制しなければ誰もやるべきことをやらなくなる!」と、怠惰な他者Aを想定し始めるのである。

あとは信頼の問題である。信頼すればするほど、相手が信頼に足る行動をとるといった類の話は、これも心理学入門のベストセラーでも適当に拾い読みすれば、どこにでも書いてある。

だから僕は、人間は信頼に足る存在である根拠を並べ立てているのである。人間が誰かに貢献することを欲望する存在であると主張しているのである。そのために概念の転換をおこなっている(言い換えれば哲学している)のである。それは自己実現的な予言として、社会を変えていくのだと信じて。

進化の観点から見ても明らかだろう。人間のようにひ弱な個体が、赤ちゃんから一人前になるまで膨大な時間とリソースを必要とする種が、貢献することを心底嫌がっている存在だったのなら、ここまで生き延びたわけがない。みんなで協力することを本能で楽しんでいなければ、辻褄が合わないのだ。

完全に話がそれてしまった。僕はなにが起きてもアンチワーク哲学を補強する材料として解釈してしまう病気にかかっているらしい。困った困った。

なにはともあれ、大阪に来てくれた三人には感謝しているし、なにより楽しかった。人に会うって、やっぱおもしろいのである。いろいろやりたいことも見つかってきた。まとも書房、楽しくなってきたぜ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!