公園マナーは暴走する

2歳の息子が滑り台で遊ぶのを見守っていると、必ずと言っていいほど見かける現象がある。

例えば、他の子どもが滑り台のスタート地点でいつまでも立ち止まっていて、後ろで僕の息子が待たされる状況だ。すると、たちまちその子の親が現れて「コラ! おともだちが待ってるから、早く滑りなさい!」と子どもを注意する。そんな現象だ。

この行為は、自分の子どもを教育するために行うのでもないし、周りの子どもに迷惑をかけないために行うのでもない(少なくとも、それは主たる目的ではない)。

「私はしっかりと子どもを叱りつけ、周囲に迷惑をかけないように配慮しているのだ」という事実を、周囲の親たちに知らしめるために行うのだ。

これは一体どういう現象なのだろうか?

普通に考えれば、子ども同士の問題なんて子ども同士で解決すればいいし、そういうプロセスを通じてコミュニケーションというものを学んでいくはずだ。ならば、過剰な介入は教育という観点からも逆効果にしかならない‥ということは、多くの大人にとっても共通認識であるように思う。

それなのに、なぜ親たちは過剰な介入を強いられているのだろうか?

それを強いているのは、自分が子どもを叱らなければ気分を害すると思われる想像上の大人だ。

その大人は2種類に分類できる。

1種類目は「我が子を待たせるとはけしからん!」とストレートな癇癪を起こす親だ。この親は、ほとんどの場合は存在しないと思われる。滑り台の上で待たされることなんて、別に大した問題ではないからだ。

2種類目は「自分の子どもを注意しないとは、けしからん!」と道徳観を押し付けてくる親だ。こちらは、一定数存在すると思われる。

恐れられているのは、2種類目の方だ。

死者に対するマナーは必然的に暴走してエキセントリックな因習に帰結するとアンリ・ベルクソンは言っていた。死者が何で気分を害するかなんてわからないのだから「一応、丁寧にやっとこか。丁寧すぎるということはないわけやし‥」と、年々過剰なマナーが継ぎ足されていくというわけだ。

仮想の他者に対するマナーも、同様に暴走を運命づけられているように思われる。心の内を全てオープンにすることはできないし、「いいよ、そんなの気にしないで」という言葉が本心ではないことも良くある話だ。ならば「一応、丁寧にやっとこか」となるのは自然だろう。

(「香典はお断りします」や「服装自由」といった言葉に人があれだけ思案をめぐらせるのは、本心と言葉の乖離がそこに存在するからに他ならない。)

どこかでストップをかけなければ、子どもの自立心の成長を阻害するこのマナーは、腫瘍のように肥大化していく。僕はストッパーになろうとして、例のシチュエーションに陥ったとしても、あえて叱ることを堪えている。

叱るという安直な解決策は、自分の保身のための行為に過ぎない。仮に叱らないことによって僕の名誉が傷つけられたとしても、息子が迷惑をかけたり、かけられたりするという豊かなコミュニケーションの経験を守ることを優先するべきだと、僕は考える。

これは、安直な放任主義とは違う。介入すべきかどうかを慎重に検討した結果の放任だ。全てを放任すべきでもないし、全てに介入すべきでもない以上、親はどこかに境界線を引く必要がある。そして、その境界線は常に揺れ動いているし、他の親とは全く違う場所に線を引くこともある。

大切なのは他の親の境界線を認めることなのかもしれない。それを厳しく審査しようとする目線が、過剰なマナーを生むのだから。

子育てに限った話ではないけれど、道徳観とか、マナーとか、そういうものが息苦しい社会を作っている。

迷惑をかけない大人よりも、迷惑を許せる大人になりたい。どうせ、生きてるだけで迷惑だ。

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