トマ・ピケティ『資本とイデオロギー』を読んで
索引と注を除いても931ページ。税込価格で6930円。ピケティが想定する読者層である「市民」の大半は、この本を読むくらいならアニメONE PIECEを全話(約1000話)観る方を選ぶだろう。
しかし、その選択は賢明とは言えないかもしれない。ピケティの文体は読みやすく、グラフでの図解も多いため、想像以上にさくさく読み進められる。それに、知的好奇心を刺激するような描写も多く、アニメONE PIECEのいつ終わるとも知らない引き伸ばし描写に我慢し続けるくらいなら、『資本とイデオロギー』を読んでいる方が、冒険心をくすぐられるに違いない。
とは言っても、読むべき人と、読む必要がない人はいる。それを見極めるためには、この本がなんなのかを理解する必要がある。
■『資本とイデオロギー』とは何なのか?
この本を読むとき、「はじめに」を丁寧に読んだ方がいい。「はじめに」を読むことは、本の目的を知ることである。
ピケティはなぜ、わざわざ1000ページもの大著を記そうと思ったのか? どんな風に社会を見つめていて、どこに問題を感じていて、どんなアプローチで問題と向き合い、最終的にどんな主張を行っているのか? このような前提が、「はじめに」で読者と共有される。
この本でピケティが取り扱うのは「格差」というテーマである。
格差が存在していることは誰しもが知っている。だが、それに対する姿勢は人によって異なる。「よくないよねぇ」と考える人もいれば「まぁ努力の結果だし、ある程度の格差は仕方ないよねぇ」と考える人もいる。ピケティの立場は明らかに前者だ。そして、後者に対して「それは本当か?」と異論を投げかけているのが、この本なのだ。
「格差は仕方ない」と考える人は、おおむね次のように考えている。
これを読んだとき、僕は福沢諭吉の『学問のすすめ』を思い出した。
要するに「昔は身分や性別、人種によって不平等に格差が作られていたが、今は能力や努力によって格差が生まれている」という発想である。この発想から導かれる結論は「生まれによって格差が決定されない最高の時代なのだから、お前たちは恵まれている」「恵まれているのに努力して金を稼がなかったのなら、それはお前が悪い」というものだ。
おそらく何割かの人は「いや、それの何が悪いの? その通りでしょ?」という感覚を抱くだろう。それはある意味で仕方がない。僕たちの社会は、福沢諭吉のような人物が補強してきた格差正当化のフィクションを信じ切るように教育されてきたのだから。
「フィクション」という言葉は、一定の人々の心をざわつかせるかもしれない。「いやフィクションっていうか、努力や能力によって格差が生まれるのは自然なことでしょ?」というわけだ。ピケティはそれを明確に否定する。奴隷と自由人の格差が自然で必然なものでなかったのと同じように、現代の格差も自然で必然なものではないというわけだ。
そもそもあらゆる社会は、これまでその格差を「自然で必然なもの」だと正当化するために、イデオロギーを発達させる傾向にあると、ピケティは指摘する。
格差が存在することは誰の目から見ても明らかである以上、僕たちはどこかに格差の理由を見出さずにはいられない(そりゃそうだ。「特に理由はないが、俺は金持ちで、お前は貧乏だ」とビル・ゲイツやイーロン・マスクが口にするなら、この社会は崩壊してしまうだろう)。
しかし、実際のところ、その能力主義的なフィクションは、もうすでに崩壊しかかっていると、ピケティは言う。
やや楽観的な印象はある。僕が見聞きする限りでは、能力主義と起業家精神の言説は、勝者だけではなく、自分を勝者側だと思い込みたい中間層や敗者すら蝕んでいるような印象がある。それでも、かつてほど説得力を持たなくなっているのは事実だろう。
ピケティがやろうとしていることは、現代の能力主義と起業家精神の言説を相対化することだ。要するに、それが絶対的で、自然で、止むを得ない格差なのではなく、かつて存在した「三層社会(これはピケティ独自の用語だが、一旦は封建制くらいに考えてくれればいいと思う)」や「奴隷制」「植民地主義」の時代と同様に、政治とイデオロギーによって構築されたレジーム(これは政治・経済制度とそれを正当化する価値観の集合体と考えてほしい)であると、膨大な歴史的な統計データをもとに証明しようとしている。
読み終わった人なら間違いなく同意してくれると思うが、この本のタイトルは『イデオロギー闘争と格差の歴史』の方が適していると思われる。ピケティが描写しているのはイデオロギーの戦いと、それによって生じて正当化されていく格差の歴史である。その歩みは、直線的でもなく、必然的でもなく、それぞれのアクターの思惑がぶつかりあい、ときに矛盾し、混乱している。そして、今とは違う社会が形成される可能性は常に存在していたし、現代においても無数の選択肢が存在することを教えてくれる。
特に、三層社会の固定的な格差を解消し、万人に財産権を解放しようとしたフランス革命が、結果的に歴史上類を見ないほどの格差を生み出してしまったこと。奴隷制廃止の曲がりくねったイデオロギー論争。所有権の神聖視とそれによって生じた格差が戦争を生み、その反動で起きた1950年から1980年の累進課税、格差解消、そして経済成長。さらなるその反動で起こった1980年以降のハイパー資本主義と格差拡大。階級闘争からエリート主義への変遷。これらのテーマは、ピケティの前作『21世紀の資本』でも触れられていたものの、今回特筆すべきなのは、それらの展開がどのようなイデオロギーで正当化され、批判されてきたのかが詳細に描かれている点だ。
先述の通り、これらを読み進めるのはONE PIECE全話を視聴するよりは刺激的な体験になること間違いなしである。
ただし、これらの膨大な記述を読み終えて、それでもなお「格差は仕方ない」という考えを放棄しないであろう人ならば、読むのをやめた方がいいと思う。
ピケティは格差の縮小が(その批判者たちの言説とは逆に)経済成長を実現させてきたことを主張しているし、格差が拡大していくことによる政治不安を煽ってもいる。そして、公正という観点から望ましいことを繰り返し述べている。
しかし、「格差が拡大しようが、貧乏人にスマホとトイレとマクドナルドとNetflixが行き渡っているなら、別によくないか? 一部の金持ちはプライベートジェットに乗るが、別にフリーターでも節約すれば軽自動車が買えるし、ピーチで沖縄にもいけるんだから、よくないか?」という変種版トリクルダウン理論に対して有効な反論を行っていなかったように感じた。
沸々と湧き立つこの反論を胸に抱えたまま、931ページを読み進めることはお勧めしない。その感情は解消されることはないので、おとなしくONE PIECEを観ておけばいい。
それがこの本の最大の弱点である。ピケティは本当に説得したい人々を説得していない。
僕はこの本から感銘を受けたことは間違いないものの、ピケティとは決定的に異なる観点を持っていることを痛感せずにはいられなかった。そして、手前味噌ながらも僕が提唱する労働哲学によって、ピケティの議論を補強しなければならないと感じた(世界的な知識人に対して、あまりにも尊大であることは認めるが、ピケティは市民に議論してほしいと書いていたし、いいよね?)。
僕はピケティが提案する(90パーセントといったかつて実現していた最高レベルの)累進資産税や累進所得税には賛成している。しかし「格差解消のため」や「教育投資のため」に賛成するのではない。「富裕層の金儲けの動機を削ぐため」である。
金を儲けたところで90パーセントが課税されるなら、金持ちは無理に金を儲けようとしなくなるかもしれない。金を儲けないことは、僕からすれば良いことである。人は金を儲けようとするときにブルシット・ジョブを生み出すし、ビッグモーターのような不正に手を染める。金を稼ごうとしない人は、悪いことをせず、単に役に立つことをし始めると思っている。
僕が思うピケティの弱点は金儲けの害悪に触れないことであった。「生まれた利益がどう分配されるか?」がピケティの焦点であって「利益を生まないで済む経済システムはどのようなものか?」という議論ではなかった。言い換えれば経済成長至上主義的な発想から抜け出していない。
もちろんこれは経済成長至上主義的に染まりがちである能力主義イデオロギー提唱者の土俵で調子を合わせて、それでもなお反論できることを見せつけようとする確信犯的な態度だと解釈することもできなくはないが、やはりそうは見えなかった。
また、ピケティは収入制限を設けるタイプ(すなわち生活保護の延長にある)ベーシック・インカムを主張していて、万人に対する収入保障であるユニバーサルベーシックインカムについてはチラリとも触れられなかった。この点も僕とは意見を異にする。万人に一律で支給しない場合は、受給者の意欲低下、負目の感情の発生、行政処理の複雑化などデメリットが生じることは、生活保護とケースワーカーの攻防を見れば明らかだろう(統計大好きピケティはどうにもシステム化と透明化を過大評価していて、手続き上のハードルを無視しがちな印象がある)。
この辺りもピケティの弱点、というより経済学者全般の弱点をピケティも克服できていないと言うべきだろうか。人間の感情やモチベーションがどのようなものであり、社会システムによってどのように変化するかという観点はすっぽり抜け落ちている。
あと、ピケティをもう1つ批判したいのは、教育への盲信であった。公共的な教育投資が経済成長を生んだと彼は力説するが、経済成長が教育投資を生んだという順序の因果関係の可能性を考慮していない。また、教育投資が伸びた戦後は(比較的)従順なライン工を育てておけば良い時代であり、現代では教育の結果が経済にプラスの影響をもたらさない可能性がある、という観点もなかった。
ピケティによる「ぼくがかんがえたさいきょうの社会主義」みたいなものは、まだまだ議論の余地があることを痛感させられる。
もちろん、ピケティは自説については控えめな態度を維持していて、集合的熟慮の必要性を繰り返し強調しているので、ピケティの人格を否定する必要は微塵もない。それに、膨大なデータを元にイデオロギー闘争と格差の歴史を記述したピケティの功績が損なわれることもない。
僕としても読んで良かったと思うし、多くの人が読んだ方がいいと思うわ、それでも、やはり僕にとって重要なのは労働とはなにか? 人間の欲望とはなにか? といったテーマであった。
だから、僕はまだまだ労働哲学を論じるつもりである。ありがとうピケティ。次回作にも期待しているよ。
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