座禅を体験し、禅という沼の深さを知った。

前々からやってみたいと思っていた。僕は鈴木大拙の著作なんかで禅や仏教を知り、興味を持っていたのだ。

どの書物も少しずつ書いていることは異なるのだが、一つだけ共通することがある。それは「頭で仏教を理解しても、体験出来なきゃ意味がない」ということだ。禅・仏教はいわゆる悟りの体験が中核にあり、言葉や論理で分かった気になることに対し執拗なまでに警戒を示す。僕も仏教好きを自称するなら、体験しなければならない。今はまだAVマニアの童貞だ。できることならセックスを体験して、セックスを語りたい。

というわけで、座禅できるお寺を探した。すると、近所の禅寺で座禅体験ができるということがわかったので早朝から行ってみた。その日の体験によって、僕は禅というものがいかに深い沼だったのかを思い知らされた。

大通りから少し外れた小さな路地の小さなお寺。参加者はどうやら僕一人。和尚さん(と呼ぶのが正しいのかわからないが、暫定的にそう呼ぶ)は少し早口で、キョロキョロと視線が定まらない感じがする。形式的に名前と年齢、仏教に興味を持ったきっかけなんかを聞いてくるが、本当に知りたかったというよりは初対面の人に対する儀礼的なものだろう。僕の解答に対しても、あまり関心を示さず、一方的に自分の話に切り替えてくる。いわゆる喋るタイプのコミュ障かもしれない。

「座り方や呼吸法など、方法論は意味がない。ゆえに正解はない。」座禅をする前に、そんな感じの話を聞いた。鈴木大拙も似たようなことを言っていた気がする。

そんな方針だからか、「さぁ好きに座って」と言わんばかりに、ぶしつけに座布団を渡された。困惑する僕。座禅には結跏趺坐(けっかふざ)とか半跏趺坐(はんかふざ)といった独自の座り方があるのは知っているし、一応どんな座り方なのかも知っている。家で試してみたこともある。とはいえ予習バッチリだと思われるのも恥ずかしいし、禅の教えに反する「理屈一辺倒」な感じがするので、なんとなく素人っぽく(実際に素人なわけだけれども)座ってみることにする。

一瞬、和尚さんの顔が曇ったような気がした。「なんだ、その姿勢は?」とでもいいたげな顔だったが、何も言わずに和尚さんも座り、そのまま座禅がスタートした。背筋を伸ばせとか、呼吸に集中しろとか、そういう指導はなかった。当然だ。「正解がない」のだから、きっと自分で見つけていくべきものなのだろう。

しばらく経つ。僕は極力自分の呼吸に集中しようとして、集中し損なうことを繰り返した。一つ驚いたのは、和尚さんは、足を組み直したり、喉を鳴らしたり、モゾモゾと動く。動いちゃいけないのだと思っていたが、ここのお寺はありなのかと理解する。動かないことにも、固執しないのだろうか。真似るように僕も、より良い姿勢を探してみたりした。

10分が経過した頃だろうか。和尚さんが立ち上がりやってきた。そして「肩に力が入って、前屈みになっている」とかなんとか言って注意された。あれ、正解はないんじゃないの?なんて疑問を抱く僕。他にもいくつかの、ギリギリ「形式的」とは言えないくらいの抽象的な指導をいただく。

なるほど。僕はここで合点がいく。

この人の頭の中には、禅的体験の模範解答がある。そして、その模範解答へ誘導したくて仕方がないのだ。しかし本来、禅には模範解答があってはならない。生命そのものから湧き出てくるものだからだ。だから、形式的にならない程度の指導で、模範解答に導いている。そのジレンマを感じての、あの曇った顔なのだろう。

結局この人も形式から逃れられていない。形式的になってはいけないという形式に捉われているわけだ。論理や形式から逃れないまま論理的思考から逃れねばならないという執着にがんじがらめになっている、頭でっかちのインテリだ。僕はもう、ここに来ないことを決めた。

禅寺で修行を積んだ人でも、こうなのだ。こりゃあ悟りという体験は、一筋縄ではいかない。きっとこの人に限らず、多くのお坊さんは同じように、何かを悟ったような顔をして、同じようにがんじがらめにされているのだろう。

禅とは、とんでもない沼だ。たくさん、お坊さんが溺れている。こうなってくると仏陀に会いたくなる。仏教とは?仏陀が体験した悟りとは?スティーブ・ジョブズじゃないけれど、持っているすべてのテクノロジーを手放しても、仏陀とのひとときを選びたい。

帰り際、「座禅の途中、座り方を良くしようとモゾモゾとしていたと思うけど、座禅に正解はないですよ。」みたいなことを言われた。なんとも言えない気持ちになった。言葉につまり咄嗟に「難しいですね‥」と答えたら「難しいことはない。生まれた時から持っている生命そのものを解き放つだけ」と返ってきた。それが難しいのだよ。

結果的にこき下ろしたような形になるが、得るものがなかったわけではない。

少し話がそれるが、僕が思うに、座禅によって目指すゴール(といった作為的なものは本来あってはならないのだが便宜的に)は2種類あって、それにより消極的な座禅と積極的な座禅に分類される(と僕は勝手に思っている)。

消極的な座禅とは、怒りとか欲とか恐れとか、煩悩を断ち切るための座禅だ。マインドフルネスの考え方はこっちだと思う。これはなんとなく理解しやすい。

積極的な座禅とは、凝り固まった心身をほぐして、生活の至るところまで生命の脈動を行き渡らせることを狙った座禅のことを指す。スポーツでゾーンに入る瞬間、バンドがグルーヴする瞬間を、一人で座りながら体現するようなものだろう。結果的に消極的な座禅の状態を包括することになるのだと思う。鈴木大拙が語る禅はこれに近い。件の和尚さんが言う、生命を解き放つというのも、これのことだろう。

座禅を通じて、僕はこれが相当苦手だということを再認識した。スポーツも楽器も苦手なのは、頭で考えて、作為的に動いてしまうからだ。体が凝り固まっている。

とは言え、座禅の中で一瞬だけ、グルーヴを感じられた気もする。誰とのグルーヴかというと、きっと世界だ。

この瞬間を何度も重ねていくうちに、芸術的に生きられるだろうか。わからないが、師匠探しはやめる。僕の師匠は鈴木大拙と仏陀と、あとはついでに道元あたりに留めておこう。

長くなってしまったが、結論。禅とは沼だ。わかったフリをした凡夫が溺れる深い沼だ。しかし僕は、いつかここを泳ぎ切りたいのだよ。

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