人生に迷ってきたので、ハトに餌をやるおっちゃんについて考える。

「ハトに餌をやらないでください」

錆び付いて誰も見なくなった公園の看板が伝えるルールを知ってか知らずか、おっちゃんは餌をやる。

なぜだろう。餌をやったところで、おっちゃんには何のメリットもないように見える。むしろデメリットの方が大きい。ルール違反を咎められる恐れもあるし、餌代も失う。餌代を数本分のタバコに変えることもできたはずなのに。確かに大したデメリットではないかもしれないが、得られるメリットがないのであれば、わずかなデメリットも避けるべきだろう。

でも、僕は知っている。おっちゃんがハトにエサをやる理由を。それは、人間が根源的に欲する快楽。つまり誰かに貢献する感覚を味わいたいからだ。

アドラー心理学では「共同体感覚」と呼ぶものに該当するだろう。僕たち人間は社会的な生き物だから、誰かの役に立っていなければ、耐えられない。自分が損をしてでも、役に立ちたくて仕方がないのだ。たとえその相手がハトであっても。信じられない人もいるだろうから、具体例をあげて説明したい。

例えば、何かしらの大きな荷物をみんなで運ぶとき。すでに十分な人数が揃っている場合でも、サボっていると思われたくないがために、手を添えに行った経験はないだろうか。僕は何度かある。そのときの気持ちを思い出してもらいたい。体力的な負担は一切ないにもかかわらず、とても気まずく、居心地が悪いものではなかっただろうか。一方で、適正人数で運ぶとき、つまり自分も全力を注がねばならないとき、疲れながらも一種の快感を味わった覚えはないだろうか。

損得勘定に従い論理的に思考すれば、労力をさかずに「協力的な人物」という評判を得られる結果が最も好ましいはずだ。それなのに、労力を損してでも全力で運んだ方が楽しいと感じる。それくらい、貢献している感覚は、僕たちにとって好ましいものなのだ。

しかしこのことは、会社や仕事の場では忘れ去られることが多い。「楽して稼げるならそれが一番」という価値観は根強く、人々は誰に貢献しているのかを考えることなく、なんの役に立つのかわからない労働に追われ、得られた給料に文句を言い続ける。そして、会社で貢献している感覚を味わえないおっちゃんは、欲求のはけ口としてハトに餌をやることになるのだ。

仕事とは、役に立つ感覚を得られる上に給料も貰える素晴らしい活動なのに、なぜかそう考えられていない。僕は人材関連の仕事をしているから、この問題には関心がある。労働に対する価値観を変えていきたいと本気で思っている。しかし、そのために僕が役に立てることはなんなのだろうと、途方に暮れているのだ。ハトに餌をやるおっちゃんは、こういう気持ちなのだろうか。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!