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書肆七味での一日店長体験(後編)【出版社を作ろう】

昨日の続きである。

・・・が、前編後編と分けるほど、後編の店舗運営において特筆すべきドラマが起こっていないことを白状しなければならない。

前編では三人の方が僕に会いに来てくれたわけだが、後編は誰も来なかった。十分おきくらいに本を買いに来るお客さんがいるだけのまったりした時間である。ちなみに、僕の棚の本はもうそれ以上売れなかった。

まぁそれも仕方ない。おそらく『14歳からのアンチワーク哲学』を手に取ってくれるのは、学生~三十代前半くらいまでだろう。ほとんどの客層が四十代五十代以上だったので、売れないのも無理はない。せめて、なにか高年齢層に向けたポップでもつくってこればよかった。たとえばいまの若者が考えていることを理解できる本・・・的なアプローチでもいいだろうし、息子や孫がなにに悩んでいるかが理解できる本・・・的なアプローチも悪くない。

『14歳からのアンチワーク哲学』・・・というかアンチワーク哲学は、哲学である。これまでは上手く説明されてこなかった事態に新しい概念を導入することで説明を与え(あるいは説得力のない説明が与えられていた事態を懐疑することで)、世界の見方を更新するという意味での哲学である。それはこれまで誰もやってこなかった作業であり(ボブ・ブラックは基礎工事くらいはやってくれたが)、社会を根本から覆すほどの重要性を秘めていると僕は考えるが、そのことは読者の数パーセントしか同意していないと思う。自分の世界の見方を更新したいだなんて、誰も思っていないのである。特に老人はそうだろう。もう自分の世界の中に安住する方法をとっくに見つけ出しているのだから、いまさら別の世界を提示されたところで移住しないのである。とはいえ、雷に打たれるインパクトを残さないからと言って「わからないから読むな!」と言いたいわけでもない。薄っすらとした理解が広まることも労働撲滅への前進なのである。「ふーん、こんな見方もあるのね」くらいに思ってくれればそれでいいのだ。

(とはいえやっぱり一番読んで欲しいのは若い人・・・とくに、いまの論理世界に安住する方法を見つけられていない人である。あるいは、ふらふらと遊びまわって定住しない子共に読んで欲しいのだ。)

話がそれたが、色んなアピールの方法があるなぁ・・・と考えさせられた。本ってのは置けば売れるってものではないのだ。困った困った。

さて、なんやかんやあって後半には特にドラマもなく店じまいの十九時が迫ってくる。僕はなんとなくさみしい気持ちになってきて、「誰か打ち上げ付き合ってくれ」とXとnoteで広報してみた。

すると一人の男からLINEが来た。大阪の浄家であり、アナキストである安眠計画である。

(ていうかいつも「アナキスト」の方について詳しく話を聞きたいと思うのだけれど、忘れてしまうのだよね・・・)

大阪市内の安居酒屋で集合し、冒頭、差し入れ(?)をいただいた。

寝そべり主義宣言を日本語訳したZINEらしい。内容もきっと僕が興味を持つことに加えて、この封筒や一緒に入っているビラ、パンフレットの類が、これからの広報活動にあたっての参考になるだろうと持ってきてくれたのだ。まさしく広報という面で困難に直面していた僕にぴったりの差し入れである。感謝。

いろんな話をした。今日起こったことの話。出版の話。仏教の話。アンチワーク哲学の話。ニーマガの話。

以前、安眠さんは僕が神話として書いたアンチワーク神話に「それは史実である」という裏付けを行ってくれたことがあって、その話もした(なんせ僕はずっと気になっていたのである)。

この記事では、日本の貨幣の成り立ちについての説明がなされている。「なんでそんなこと知ってんの?」と聞くと「仏教の歴史を調べてたら、当時の日本社会を知らなければならなくなり、結果的に日本史に詳しくなる」と返ってきた。彼は学者でもなんでもない会社員なのに、「知りたい」と思ったことをとことん掘り下げるタチらしい(そういえば以前、「自分の家柄のルーツを知るために地方の図書館から資料を取り寄せた」みたいな話もしていたっけ)。

彼はほかの話をしているときも「自分は怠惰な人間だから、アンチワーク哲学が普及しても人に貢献するとは思えない」的なことを口にしたが、彼の知的冒険に向き合う姿をみれば、口が裂けても怠惰とは言えないように感じた。たしかにそれは自分のやりたいことにすぎず、貢献ではないかもしれない。でも、貢献というのもやりたいことにすぎないわけだ。

僕は貢献欲という言葉で他者への貢献を美化しているわけではない。むしろ神棚に祭り上げられている「貢献」という行為を、地べたに引きずりおろしたいのである。他者への貢献は結果である。やりたいことを追求すれば貢献しているかもしれないし、していないかもしれない。だが、それはどっちでも構わないのである。それでも、きっと社会に必要なだけの貢献は、好きにやれば供給されるはずだ。

ここでは「困っている人からお願いされて、いっちょ貢献する」という事態も、「やりたいこと」に含んでいる。誰かに頼られたときに嬉しいと思う気持ちは誰だってある。「しゃーないなぁ」と言いながらニヤニヤ笑いを堪えられなかった経験には身に覚えがあるだろう。もちろん、「めんどくさ!」と思うこともあるだろうが、多少それくらいのことがあっても、社会はじゅうぶん成り立つ気がしている。

だから「それが貢献か、貢献でないか」といった判断軸を導入する必要すらないのではないかと思っている。とにかく好きなことをやり、やりたくないことはやらない。そうすれば人間は楽しくて幸せである。みんなが楽しくて幸せなら社会はハッピーである。なら、自分自身をまずは幸せにしなければならない。

そして、困っているときは誰かに助けを求めればいい。助けたい人がいたなら、彼にとって助けることが「やりたいこと」である。たとえばお店で誰かがジュースをこぼした場面を想像して欲しい。ある人は床の濡れ具合を確認し、ある人はメニュー表など二次災害が及ばないように非難させ、ある人は店員に雑巾を取ってきてもらうようにお願いし、ある人は雑巾到着までの当座しのぎのためにポケットティッシュを取り出すだろう。こうした行為は誰に命令されることなく行われる。そして、それをせずに我慢しろと言われたなら、彼はおそらくもどかしさを感じる。なら、こうした行為は人々の欲望の対象なのである。

話が逸れてきた。いずれにせよ僕は安眠さんの書いた文章を楽しく読んだのである。それは彼のやりたいことが、僕への貢献につながったなによりの証拠でもある。そんな感じでいいんだよなぁ、世界。

この一日、なんやかんや僕は人の優しさに包まれて過ごした。応援してくれる人がたくさんいることを改めて感じた。まとも書房としては前途多難ではあるし、社会システムという得体のしれない怪物はまだ僕に手を差し伸べてくれなかったりするわけだが、助けてくれる人がいればなんとかやっていける気がするなぁ。

一応店長は売り上げの一部を受け取ることになっている。金額は明記しないが、僕の日の売り上げはあまり芳しくなく、僕の手取りは時給換算すれば最低賃金を割っていたとだけお伝えしておこう。それでも、なんともいい一日であった。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!