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ひと駅分の恋

 日曜の午後だった。

 いつもの癖で向かった席には先客がいた。

 彼女だ。朝の彼女が僕の席に座っている。

 いや、僕がいつも通勤で利用する電車で、よく座る入口付近の端っこの席に、あの彼女が座っている。おかしなことに、今日の彼女はブロッコリーを花束のように携えていた。


 通勤電車で出くわす彼女は、僕の一つ後の駅から乗って来て、次の大池遊園で降りていく人だった。ひと駅くらい、歩けばいいのに。そう思ったその日から、どうやら僕は彼女に会うのが毎日の楽しみになっていた。

 片想いでもなく、アイドルの追っかけをする熱でもなく、にわかにお気に入りの彼女。ここ一年はずっとこの調子で、僕は彼女を見ている。

 言葉を交わす前にジロジロと見ていたら嫌われてしまうだろうし、僕もそうされたら嫌だ。ほんのひと駅の間に軽蔑されてしまうのも、また違う。だから僕は、本を読む視界の向こうに、ごく自然な景色としての彼女を捉えるように気を付けていた。


「あっ、いつもここで本を読まれている方ですよね。ひとつ寄りますね。どうぞ」
 コートの中が急に熱くなった。彼女は僕を知っていた。いつからだろう。きっと彼女も僕を風景の一部として見ていたのだ。


「どうも……」
「私も好きですよ。隅っこ。あっ、私、今日は終点まで乗ります。好きですか? ブロッコリー」
「え……と、はい、好き、です」


 僕の横顔を見ながら、満面の笑みで話しかけてくる彼女に、たくさんの疑問符を並べながら、僕は手に持っていた文庫本をそっとポケットにしまった。


「瑛佑。小石瑛佑です。僕」


 ひと駅分の想いが積み重なった一年後、僕たちは初めてお互いの名を知りあった。



【あとがき】

すっかり 「かんろじまえのひみつ」がブームになっていますね。

そんな和歌山県紀の川市で生まれたショートショートです。

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2020.01 掲載読み切り分

和歌山県紀の川市にて、

#かんろじまえのひみつ

を見かけるたび、この作品を思い出したりしています。

第1章 無花果 掲載の折には、農業を営む方々にたくさん取材させていただきました。誠に、ありがとうございます。


《「朧月恋花」タイトルロゴデザイン》 絵描きたるいのりかず


愛と感謝をこめて

2021.03.01  香月にいな

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