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1.はじまりは面接から

それは例年と違わない、時間が間延びしたような夏の一日だったように記憶する。何の予感も混じることのない透明ガラスのような日差しに辺りは満たされていた。娘の幼稚園もそろそろ夏休みが終わりに近づき、前にも後ろにも進んでいないかのような倒錯した時間が始まるのをただ待っていた八月。少し違った装いがあるとすれば、新しく生活シーンに加わった長男のベビーベッドの存在だった。この静止画像のような時間を揺さぶったのは妻の声だったのか。

「あ、日本語講師の募集が出てる」

確かにこのようなやりとりがあったはずである。新学期が数日後に始まるというタイミングで教員募集というのはいささか不自然な気もしないではなかったが、とにかく、こうして歯車は回り始めた。どのような学校や教科であれ、教員確保がベルギーの学校現場で常に綱渡り状態であると知るのはずっと後のことだった。

募集内容についてははっきりと記憶にない。大体の要点は「オランダ語ができること・フランス語もできればよい・日本学の学位保持あるいはそれに類する技能を有すること」だったように思う。面接はまさに数日後といった慌ただしさで、模擬授業の披露も明記されていた。条件面で、おそらく面接にも呼ばれないであろうと思いながら応募の返事をメールしたところ、なんと、ベルギーとは思えないような素早い反応があった。

「面接をしたいので、指定の期日に当校へ来てください」

「マジかよ」

自分としてもかなり後ろ向きのリアクションだったと思う。模擬授業が重く心にのしかかったからかもしれない。長らくほとんど主夫として娘の世話に明け暮れ、社会との紐帯を失っていた。そのことに特に強い不満を感じていなかった男の本音だったかもしれない。

机を囲んで大学生を指導したり、塾の講師として教壇に立ったことはあるが、外国人に教室で日本語を教えたことなどなかった。もちろん日本人なので、日本語については問題ないはずではあるが。


模擬授業、何をどうやって伝えるべきか・・・。

とにかく、呼ばれていくからには準備をしないといけない。

日本語を教える教室を想像した。言葉で言葉を説明する場面を思い描いた。不可能ではないが、どこか回り道をしているように感じられた。もっとストレートかつ印象的な情報伝達はできないものかと知恵を巡らす。結果、たどり着いた方法が絵を用いるということだった。四の五のややこしい言葉を交えず、絵を見せながら話していることを想像、理解させようと考えたのである。思えば、動画やスライドを作ったり、画像・音声を駆使した補助教材を用意したりする習性はこの頃から自分の内に芽生えていたのだと思う。ただ、そのための制作環境があまりにアナログ的で、貧相な道具しか用意されていなかった時代である。

しかしやることが決まれば、あとはひたすら作画作業あるのみ。授業シーンを想像しながら道具と舞台を揃え、次に予行演習に取りかかる。経験値ゼロの人間による虚構舞台での猿芸である。手作りの絵を数枚用意し、簡単に予行演習を繰り返した。質問を妻にしてもらい、答え方も用意した。そして面接当日、日本語学習未経験である面接官二人から要求されたのは、「フランス語を話してみてください」と「日本語の『は』と『が』の違いは何ですか」だけであった。前者の質問には「フランス語はかなり忘れました」とフランス語で返し、後者に対しては「どうせ正解なんて未経験者にはわからんだろう」とたかを括ったテキトーな答え方をしたことだけは覚えている。模擬授業は完全にどこかに飛んでしまっていた。

その日は私の他には日本人女性が一人と、日本語を専攻し、留学経験もあるフランス人カップルが一組面接を受けに来ていた。待合時間中に日本語で言葉を交わしながら待機したが、フランス人カップルは応募条件に非常によく合っている。

「オレ、絶対ダメじゃん」

どう考えても自分は要件を満たしていないようにしか思えなかった。正直、悲しくはないが、面白くもない気持ちしか持ち得ない場面だ。時間とお金を使ってやってきたのに・・・。

しかし数日後、私の元に届いたのは「採用通知」であった。歯車が奇声を上げながら、一つ歯を進める。


なぜ自分が?


一緒にいた日本人女性は私と同じような立場にあった。資格と経歴からすれば、フランス人が選ばれていて然るべきだったのではとの思いもある。自分がネイティブ・スピーカーであると言う一点以外に売りのない人間の自信のなさの裏返しだろう。

知っている漢字の量や言葉、日本社会に対する肌感覚の根深さ、有象無象の経験・・・。それ以外、日本語に関して人前で胸を張って語れるものは何もない。言語は全くの専門外だ。然るに、現実には自分が選ばれた。もう一度。


なぜだろう?


これに関して、はっきりした答えは当の面接官に尋ねるしかないが、そんな面接をしたということも当人たちは覚えていないに違いない。それどころか、彼らが今も元気にしているかさえ定かではない。ただ、これは後にそのように聞かされたことではあるが、面接官の一人でもあった当時の校長が校内の言語教育部門でできる限りネイティブ・スピーカーを採用したがっていた節が見られることだ。であれば、俄然、自分の採用が腑に落ちる。

もっとも、これとて実際のところはどこまで本当なのかは謎でしかない。ただ、日本語教育の資格も何もまだ整備されていない時代状況と採用側の思惑で、最適ではなさそうな人間が採用された。それが全てだ。何か常識的ではない方向へと決定権者の意思がシフトし、自分自身の運命を変えた。

後の海外生活で、良きにつけ悪きにつけ、運が大きくその後の展開を変えていった場面に幾度となく遭遇した。これが最初の出来事であるが、しぶとく海外で生き抜くには向こうからやってくる幸運と、それをもたらす女神の視線をこちらに強引に向けさせる厚かましさが必要なのだと今は思っている。待っているだけでは女神は素通りしてしまいかねないのだ。振り向きもせず。

兎にも角にも、運が歯車を回した。



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