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日本語教師と外国語学習の関係について考えてみる

日本語学習って、外国人にとってハードルの高さってどのぐらいのもんなんだろう?


日々、そんなことを考えています。自分もいろいろな外国語を学びましたが、ほぼ西欧言語が中心で、文字も新たに覚え直す必要がないものばかりでした。中国語と韓国語も齧りましたが、前者は文字は漢字で文法もシンプルだし、後者も文法はほぼ日本語と同じで、文字さえ覚えて元々の漢字語を想像できるようにすれば語彙を増やすこともそんなに難しくはありません。

そんな中、Duolingoでもっと多くの言語に触れ、外国人にとっての日本語のとっつきにくさについて再考してみました。


ある日のツイート

隙間時間によくTwitterをフォローしています。世の中の出来事について、それはもう実に多彩な背景を持つ方々からのいろいろな意見が流れてくるので大変刺激になり、勉強にもなります。「なるほどそんな視点もあるか・・・」なんて。

そんな時に流れてきたツイート、

「日本語教師は学習者が直面している問題を理解するためにも第二外国語を学ぶべきです。」

第二外国語とはこの場合、義務教育で学ばなければならなかった英語以外の外国語という意味です。

まあ、以上の指摘はさもありなんというものでしょう。遠い昔に始め、小学校でアルファベットも(ローマ字と称してw)身につけた後に始めた英語だと、文字学習からスタートする外国語学習事情なんて想像できないでしょうから。そしてこの想像力を欠いてしまえば、今度は今、目の前にいる学習者の苦労を考えることも難しくなるのではないかと思います。

このツイートを巡っては次第に外国で教えている(=第二外国語を学んだ)人からのマウント発言が混じるようになったので、あまり深くフォローはしませんでした。自分ができることで他者を評価することはあまり好きではありません。誰だって自分にはない何か素晴らしい能力をお持ちのはずで、第二外国語ができるという一点で他者を評価するのは性に合いません。ましてやそれでマウントを取るとか・・・w。

さて、日本語に限らず、母語を教えている人は気をつけないといけないことは「どうしてこれが理解できないんだろう?なぜ、これが身につかないんだろう?」という疑問の答えを常に探し求めることだと思います。それは恐らく自分たちが母語(我々の場、合日本語です)を身につける過程で経験しなかったことであり、それゆえに、それについて思いを巡らすことこそが学習者に近づく道だと思うからです。どこかで同僚から聞いたり、何かで読んだりすることはあるかもしれませんが、自分自身の問題として捉えると、より現実的な意味合いも増してくるのではないかと思います。

以下、成人学校で趣味として日本語学習をしている人たちの状況について、教える側が考えるべきことを書いてみました。来年度に向けての個人的な覚書です。


学習者の苦悩

日本語学習者はどういった点で苦労しているのでしょうか。学校の理念や個人が目指すゴールに関わらず、漢字が難しいとか文法が難しいとか、そういったことは普通に耳にします。それはもう分かりきったことです。しかし何らかの重大なハンディキャップがない限り、学習に時間をかければ、これらの問題にはそれなりに対処できるのではないかとも思います。

成人学校に通う学習者の場合、仕事の傍で趣味としてやっていることなので、この点で制約もあります。しかしそれでも続けていればひらがなは大体身につきますし、文法学習が進めば理解できるテキストの難しさは上がっていきます。漢字は振り仮名があれば読めはしますし、未知の語彙は意味を調べることもできます。カタカナは綴りに明確なルールがあるわけではないのでその都度必要なカタカナ単語に限定して覚えてもらうしかありません。学習すべき漢字ですが、扱うものを教科書にあるものにし、その中でも特に基本的かつ重要なものを読めて、意味がわかればいいぐらいにしています。

一般的によく聞く問題に加え、一昨年以来、久しぶりに一年生に教えるようになってしきりに耳にするようになった問題の一つが「語彙が増えない」というものでした。要するに、新しい単語がなかなか覚えられないということです。これに関してはどういうことなのか、その状況を理解しようと努めました。

恐らくここには言語間の距離のようなものが関係していると思います。例えば、自分は以前オランダ語を学んでいた時に、「観察する」はオランダ語でどういうのかオランダ人に尋ねたことがあります。答えは“observeren”でした。思わず「なんじゃそりゃ!」と叫んでしまいました。何故なら、英語では“observe”、ドイツ語では“observieren”("beobacheten”の方が一般的なような気がしますが)、フランス語では“observer”となり、苦労して覚えるなどというプロセスはすっかり見当たらないからです。今、個人的にノルウェー語とイタリア語をDuolingoで学習していますが、前者はオランダ語やドイツ語、後者はフランス語が理解でいれば文法も語彙もかなり理解と吸収が楽です。考えてみれば、日本語を学びにくるヨーロッパの人々は、恐らくそんなふわっとした学習風景を想像して教室にやってくるのだなと思いました。で、儚くもその想像が粉々になるという・・・。


学習者の側に芽生える不安

基本的に私自身は外国語学習が好きな方だと思います。これまでも色々な言語を齧ってきましたが、外国語学習を苦痛に感じたことはあまりありませんでした。まあ、聞き取りがどうしても他の言語話者より弱いのは悲しかっったですがw。そんな人間ですので、多少の学習面での困難さは好奇心によって押し流すことができます。単語を覚えるのに時間がかかろうと、文字の並びを見ながら様々な知的冒険の中を浮遊することができます。しかし、こうした性格的なものは人によりけりです。ほとんどの人はそのような特技を持っていないと思います。語彙が増えなければ不安になり、それが嵩じれば学習意欲そのものを蝕んでゆくかもしれません。

初学者にとっての日本語の難しさは様々あるでしょう。この二年間、改めて感じたことは、教室でいかにしてこのような不安を和らげ、日本語学習の先にある、あるいは、そもそも日本語という言語以前に学習者が見つけた関心や興味・好奇心−それはアニメや漫画であったり、和食であったり、伝統文化であったり人により様々ですが、そうしたものへの回顧を促すことの必要性です。それがあって故の日本語学習であり、動機の原点なんでしょう。

語彙の増加は他のヨーロッパ言語を学習していた頃のようには進みません。文字を読むスピードはなかなか加速しません。そもそも文字を覚えるのも時間がかかります。もともと非日本語話者は耳がいい人が多いですが、それでも語彙が増え、音に慣れるまではなかなか聞き取れないのが普通です。しかしこうした学習面での煩わしさの前に、どの学習者の胸の内にももっとキラキラしていたものがあったはずです。


まとめにかえて

目の前の学習者の心理状態を推し量ることはクラスのマネジメントを考える上で重要です。そのために、学習に伴う困難さに関心を向けることは特に大切です。これを実行するには自らを外国語学習の現場にリアルタイムに置いてみることだと思います。その意味で、「日本語教師は第二外国語を学習すべき」という先のTwitterでの問いかけには賛成です。日本語学習者と同じものではないにしても、学習を通して感じた何かを共有できるはずです。

今、もしあなたが「ええ?今更第二外国語なんてかったるい!」なんて思われたなら、そんな気持ちを新しい漢字の前で抱いている学習者がいることを思ってみてください。

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