見出し画像

母の目となり足となる

前世はマグロかな?と言ってしまいたくなるほど、常にアクティブに動き回っていた母は、今、ほとんど歩けない状態となってしまいました。

全く歩けないわけじゃないのが、せめてもの救いだなぁ、と思うのですが。
でもやはり、日常生活を送るにも、かなり制約が出てしまうようになったし、先にも書いたとおりで、従来、好奇心旺盛で、あちらこちらへ出向いていくことが好きだった母からすると、色々と悔しかろうなぁ、と思うのです。

そんな中で、私の中で決めたことがいくつかありまして。

まずは、母を可哀想な人、として見ないぞ!ということです。

ある時、「お世話をしている私」という意識でいるなぁ、とはたと気付いた瞬間があったのですね。
勝手にあれやこれや背負い込んで、アップアップしているのは自分なのに、
それを母のせいだと思って、何なら苛立っている自分がいたのです。

ん?違うんじゃないか、それ、と。

母は母で、制約の中で出来ることを不満も言わずにやっています。

何なら、歩行訓練も、一生懸命、毎日毎日頑張っています。

近所を周回するのに、私なら5分で歩けるコースを、1時間くらいかけて、牛歩のペースで、えっちらおっちら歩いております。

この先の人生、この体で付き合っていくことになるのだから、と腹を括っているのかもしれません。

そんな母を、「可哀想」という意識で見ることは、とても失礼だよなぁ、と。

一緒に協力して、この先の人生がんばろうぜ!
と、実際そう母にも伝えました。

だからこそ、次に決めたことにも繋がるのですが。

私も、やれる範囲での協力をする、ことにしました。
別の書き方をすると、時には「No」もちゃんと伝える、ということです。

当初は、母からオーダーが入ると、なるべく最優先でそれに応えてあげないと、と思っていました。
その結果、待ち合わせや会議に遅刻をしてしまったり、自分の予定を諦める…ということも起きてしまったのです。
そして、心の奥底にモヤモヤした物が残ってしまったり…と。

これも、何だか違うよな、と。
やっぱり思ったのですね。

オーダーに応えたい気持ちはあるけども、「今すぐ」の要望には添えないこともあるよ、と。
その時々の優先順位も分かってほしいよ、と。
そう、母にちゃんと伝えて、わかってもらいました。


そして今日。
運動不足の解消に、少し離れた先の森林公園を散歩してくる、と伝えると、
「行くなら写真を撮ってきて欲しい」と頼まれました。

その公園は、母が以前よく、写真クラブのお仲間さんと集って出かけていたお気に入りの場所で、移りゆく季節を切り取っては、私にもよくその写真を見せてくれていました。

母の代わりに、公園内を、色々な風景を切り取りながら、歩きました。

腹這いになって娘のためにザリガニを釣ろうとするお父さんや。
ハーモニカを吹くおじいさんの周りに集まってくる猫たちや。
通りすがりに優しく挨拶をしてくれた素敵な年配の女性など。

写真には収めなくても、心が穏やかになる、たくさんの素敵な風景に出会えました。

そして。「あぁ、母もこうして、ここへくるたびに、こういう情景を味わっていたのかぁ。これからは、母の分まで、私が代わりに歩いて、見た物を伝えよう。」なんて思いながら、過ごしていました。


帰宅後。
そんな思いを抱きつつ、母に撮影した写真を見せると、なかなかの辛口講評で。
何十枚と撮った写真の中から、「いいね」がもらえたのは2枚のみでした笑

これからも。
無理せずに、時に母の目となり、足となり。
協力し合って行きたいなぁ、と思うのであります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?