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出来ることなら北風じゃなく太陽のような存在でありたい

自分はどんなコーチでありたいかな?と自問することが増えました。
そして最近イメージとして浮かんだのが、イソップ寓話の「北風と太陽」の中で描かれている太陽のような存在です。

ここでコーチングの場面に例えてみたいと思います。
コートを着ている旅人を、クライアント。
そこに向き合う、北風コーチと、太陽コーチ。

北風コーチは、ビュービューと風を吹かせてクライアントのコートを脱がせようとする、つまり相手を変容させよう、行動させてみせよう、と必死です。

一方の太陽コーチは、ポカポカと暖かくクライアントに向き合い、ただそこに存在します。そのうちに、クライアントはと自らの意思でコートを脱ぐという選択をします。

関わることで、より心を閉ざしたり殻を硬くしてしまうより、お互いが解放的で、ただその存在を認め、行動に移すことを暖かく見守る、そんなコーチでありたいな、と思うのです。

でもね。
これ、書いておきながら、私はまだまだ日常でも北風的コミュニケーション(と、名付けてみます)を、気付くと取ってしまっているんですよね。

今日はこんなことがありました。
自社サイトや、今後の汎用する素材として会社の社長の写真などを数年ぶりに再撮する事になり、今日がその撮影日でした。

撮られることに慣れてない、という社長に対して、私はポージングや表情の指示など、細かく指示を出してしまっていたんですね。
社長は一生懸命それに応えてくれて、素敵なスマイル、仕草で臨んでくれたのですが、途中で気づいたんです。
指示を出すほどに、社長の仕草が不自然になっていくのを。

そこで今度はあまり口を出さずに、ただ流れに任せてみようと思って見ていると、表情も豊かになり、ポーズも作られた感じじゃなく、とてもナチュラルになりました。

初めから、社長を信じて、ただ暖かく見守ってみたら良かったんだなぁ、と。あぁ、とても申し訳ないことをしてしまってたなぁ、と反省しながら帰路につきました。

逆に、あの時は太陽的コミュニケーションを取れていたのだな、と思うこともあります。

数年前。
私の1ルームの部屋に、アメリカ人のインターン生が同居することになりました。
1つの部屋に、互いの言語がたどたどしい二人が生活することとなり、どうなることかとヒヤヒヤしましたが、なんと言うか、とてもお互いの居心地が良かったんですね。

次第にその日の出来事だけでなく、お互いの過去に起きた辛かったことやコンプレックスや悩みなど、深い話もできるようになり、気づけば明け方になることもありました。

そんな彼女がある日、終電を超えても帰宅しない日がありました。一緒に食事をしていた、という相手の子に連絡しても「とっくに分かれたよ」と言う返事。
何か起きたのではないか?と、不安、心配で、気が気じゃありません。
また、必ず帰宅する時間を連絡し合うというルールを破ったことにも、イライラしてきました。

ついに彼女が帰宅した時。
彼女の顔を見た途端、怒りやイライラは吹っ飛び、ただただ無事で帰宅してくれて良かったという安堵の気持ちだけがありました。
彼女のことを娘のように(笑)、大切な存在に感じている自分に気づきました。

だから彼女にも、問い詰めたり、怒ったりすることはせず、事実を確認して、静かに私の気持ちを伝えました。

彼女も、もう二度と心配させるようなことはしない、と伝えてくれて、翌日大きなヒマワリの花束をプレゼントしてくれました。
「いつも暖かく接してくれるれいちゃん(彼女は私をこう呼びました)は、私にとってヒマワリみたいな人だよ」と。
それからも、心配させるような行動は一切せず、且つ日本での生活を楽しんでくれているようでした。

相手に期待するがあまり。
また、こちらのいいところを見せたいがあまり。
これからも、ついつい北風的コミュニケーションを取ってしまうこともあるだろうな、と思います。
でも、少しずつでも太陽コーチに近づいていきたいな、と思っています。

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