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作家・門田隆将(門脇護)のモラルハザードを問う 第11回

連載第10回に引き続き、門田隆将著『この命、義に捧ぐ』の疑惑についてご紹介しますね。ときどき旧字体の難読な記述が続くことがありますが、辛抱強くお付き合いください。

■門田隆将氏の疑惑(211)〜(215)

◆門田隆将氏の疑惑 その211

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】61ページ
 劉少將に案内されて午前九時宿舎を出發、自動車で基隆に赴き直ちにLSTに乗船。先着の萬副總司令、王軍長等と會見。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】133~134ページ
 午前九時、根本たちは劉少将に案内されて、宿舎を出発した。
(略)
 車は、まっすぐ基隆に向かった。
 港には、根本たちが乗船する三〇〇〇㌧級の大型の戦車揚陸艦(LST=landing ship,tank)が停泊していた。
(略)
 車をLSTに横づけされ、根本たちは感傷に浸る間もなく、直ちに乗船した。
 すでに萬建藩(まんけんはん)副総司令ら、湯将軍の幕僚らが先に乗船しており、出迎えを受けた。

◆門田隆将氏の疑惑 その212

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】61ページ
 正午には福建往きの高級將領等と會食し、杯を擧(あ)げて前途を祝福し、食後は船橋で凉を入れ乍(なが)ら四方山(よもやま)の話に興ずる内に船は徐(しず)かに基隆港を出發して厦門に向つた。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】134~135ページ
 正午には、彼らを含めた湯将軍の高級将領らと会食となり、杯を挙げて前途を祝福しあった。照屋林蔚ら民間人も同行している。彼らも湯の部下たちに大いに尊重された。ひとつの敵に立ち向かう気概が、次第に一同の中に醸成されていった。
 やがて、船は基隆を出港した。

◆門田隆将氏の疑惑 その213

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】61ページ
 唯同船の人々は皆軍服姿なのに、我等だけが警務■【※文字がつぶれて判別できず】に世話をしてもらつた警察服なのが多少氣が引けた。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】135ページ
 この時、根本たち一行は、なぜか警察服を着用していた。船の中はみな軍服を着ている軍人ばかりなのに、自分たちだけが警察服であることは、少々気が引けた。

軍服ではなく警察の制服を着ていることについて、根本博中将は「多少氣が引けた」と書きました。門田隆将氏の本では、気が引けた度合いが「多少」ではなく「少々」に切り替わっていることがわかります。

◆門田隆将氏の疑惑 その214

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】61ページ
 八月十九日、平穏裡に厦門港着。劉少將の案内で先づ總司令部に到着の届けをし、
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】135ページ
 翌日、
根本らを乗せた揚陸艦は、厦門(アモイ)港に着岸した。
 劉少将の案内で
根本は、総司令部に到着の届けを出しに福建綏靖司令部に行った。

◆門田隆将氏の疑惑 その215

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】61ページ
 その指示に依つて、綏靖司令部の一室を借りて臨時の宿所と定めた。劉少將の奔走に依つて七人分の寢具を調達して一夜の夢を結んだが、
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】137ページ
 一行はその日、福建綏靖司令部の一室を借りて臨時の宿とした。劉少将が奔走して七人分の寝具を調達し、一行は旅の疲れをとった。

■門田隆将氏の疑惑(216)〜(220)

◆門田隆将氏の疑惑 その216

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】61〜62ページ
 二十日には萬副總司令の配慮で、四室の一民家を開放して我等の宿舎と定め、司令部より少佐一名當番(とうばん)兵二名を派遣して食住一切の雑務に當(あた)らせた。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】137ページ
 翌二十日には、四室の一民家を開放して、根本らの宿舎と定めた。司令部より少佐一名と当番兵二名を派遣して食住一切の雑務に当たらせた。これまた萬副総司令の配慮である。

◆門田隆将氏の疑惑 その217

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】62ページ
 一ヶ月の小遣として私に銀百元、Kに銀八十元、通譯(つうやく)とAには銀五十元、其他には銀三十元づつを渡された。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】138ページ 
 心配りはそれだけにとどまらなかった。一か月の小遣いとして根本には銀百元、吉川には銀八十元、吉村と浅田哲大尉には銀五十元ずつ、さらに、まだ若い岡本秀俊少尉と中尾一行曹長、そして民間人の照屋林蔚には銀三十元ずつが渡された。これは湯恩伯の指示によるものだった。

◆門田隆将氏の疑惑 その218

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】62ページ
 二十一日には湯恩伯總司令着任し、我等の爲(た)めに軍服を新調することを命じたので、再び劉少將の案内で洋服屋、靴屋等に行き軍服、帽子、靴等を注文した。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】138ページ 
 二十一日には、湯恩伯総司令が着任した。
さっそく湯は根本らに軍服を新調することを命じた。彼らを幹部たちに紹介するためである。
 根本らは、劉少将の案内で洋服屋、靴屋に行き軍服、帽子、靴などを注文した。

◆門田隆将氏の疑惑 その219

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】62ページ
 新軍裝が出來上るや、之を着用、湯總指令と共に前線の各兵團(だん)を巡視し各兵團長と會見すると同時に、前線の配備の概要を視察した。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】138ページ
 新軍装に身を包んだ根本は、湯恩伯総司令と共に前線の各兵団を巡視するために出発した。

蒋介石の陣営に受け入れられた根本博中将一行は、大歓待されて格別の待遇を受けました。その様子を述懐する根本博中将の手記と、門田隆将氏の本に類似点が多数見受けられます。

◆門田隆将氏の疑惑 その220

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】62ページ
 九月下旬には大陸の國府軍は殆んど厦門、金門に後退し、中共軍が對岸に姿を現はして來た爲め、厦門港と大陸との交通は遮斷され、
香港の英國船も來なくなつた。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】150ページ
 九月下旬には大陸の国府軍はほとんど厦門、金門に退却してきた。共産軍が対岸に姿を現わし始め、厦門港と大陸との交通はついに遮断された。

■門田隆将氏の疑惑(221)〜(225)

◆門田隆将氏の疑惑 その221

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】62ページ
 かうなれば中繼(ちゅうけい)港たる厦門は全く其の機能を失つたことになるから二十萬人の人口は失業と云ふことになり、
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】150ページ
 中継港である厦門は、まったくその機能を失った。
 根本が湯に進言した通りの事態が生じていた。厦門に住む二十万人は、たちまち〝失業〟した。

◆門田隆将氏の疑惑 その222

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】62ページ
 又その食糧が大陸から來なくなつたとすれば全部臺灣(たいわん)から之を補給しなければならない。しかし、現在の臺灣にその餘力が有るかどうか。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】150ページ
 大陸との交通が遮断されたため、大陸からの食糧さえも入って来なくなったのである。
(略)
 食糧はすべて台湾からの補給に頼るよりほかない。しかし、二十万人を長期に養うほどの食糧補給は容易ではない。台湾にそんな余力があるはずがなかった。

◆門田隆将氏の疑惑 その223

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】62ページ
 かう狀勢を考へて來ると、長く確保すべきは金門であつて、厦門の方は早晩放棄しなければならない所だ。從つて我等が最初に樹てた作戰計畫(けいかく)の正しかつたことが愈々(いよいよ)明瞭になつて來た。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】150ページ
 確保すべきは金門であって、厦門は早晩放棄しなければならない――根本が立案した作戦の正しさが、早くも現実のものとなって来たのである。

◆門田隆将氏の疑惑 その224

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】62ページ
 そこで湯總指令と先づ圖上(ずじょう)の檢討を行ひ總指令部を小金門に移すことに決め、
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】150ページ
 根本は、湯と図上での検討を行ったあとに「総司令部を厦門から小金門島に移す」ことを進言した。

◆門田隆将氏の疑惑 その225

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】62ページ
 更に大、小金門の現地檢討を行つた結果、私が先づ小金門に位置を占めて、大金門及び小金門の施設を監督することになり、私は通譯(つうやく)と二、三人の中國参謀を連れて小金門島に移つた。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】151ページ
 根本は、湯と共に大、小金門の現地検討をさらにおこない、根本自身がまず通訳の吉村と湯の参謀二、三人を引き連れて小金門島に移った。

■門田隆将氏の疑惑(226)〜(230)

◆門田隆将氏の疑惑 その226

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】63ページ
 一週間ばかり大、小金門島の現地施設を監督して居ると又湯總司令から使が來て顧問は錫麟號と云ふ汽船に居住して、隨時厦門に來たり金門に往つたり移動自在
の姿勢に居て「取り敢へず厦門に來て呉れ」と言つて來たので、錫麟號に乗り移り先づ厦門に歸(かえ)り、晝(ひる)は上陸して湯總司令の許に往き、夜は錫麟號に歸つて寢ると云ふ生活を續(つづ)けた。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】152ページ
 一週間ほど寝る間も惜しんで大、小金門島の現地施設を監督していた根本のもとに湯総司令から使いが来た。
「林保源将軍は、今後〝錫麟號(しゃくりんごう)〟という汽船に居住して、随時、厦門と金門を機動的に移動していただきたい」
 使者は湯の言葉をそう伝えた。そして、
「取り敢えず、厦門に来てください」
 と言う。
(略)
「了解した」
 根本は、そう言うや、使者が乗って来た船に飛び乗って、厦門に向かった。

◆門田隆将氏の疑惑 その227

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】63ページ
 私は愈々(いよいよ)厦門は長く保持する場所で無いことを確信したが、來攻した中共軍に一と泡吹かせた上で自主的に之を放棄し、國府軍に敗戰感を與(あた)へない樣(よう)な撤退をやり度(た)いと願つて居た。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】155ページ
「来攻した共産軍に、ひと泡吹かせた上で自主的に厦門を放棄し、国府軍に敗戦感を与えないような撤退をやりたい」
 それが、根本の考えだった。

◆門田隆将氏の疑惑 その228

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】63ページ
「對(たい)岸の中共軍砲兵が厦門島北端の高崎附近の海岸陣地や飛行場に對して砲撃を開始し空軍は臺灣(たいわん)に引き上げ中だ」と云ふ報告があつた
ので、
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】156ページ
「対岸の共産軍砲兵が厦門島北端の高崎付近の海岸陣地や飛行場に対して砲撃を開始した。空軍は台湾に引き上げ中である」
 根本のもとに、その報告が来た

◆門田隆将氏の疑惑 その229

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】63ページ
 取り敢へず高崎に急行して敵情を視察し、どうも今晩あたり攻撃を受けさうだと云ふ感を深くして歸(かえ)つた所、折り悪しく數日(すうじつ)前から、臺灣(たいわん)の慰問團(だん)が厦門に來て前線の慰問を終つたので、本夜は總司令が慰労の爲(た)めに之を招待する豫定(よてい)にしてあるとのことだ。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】156~157ページ
 根本は、ただちに厦門の北端にある高崎に急行した。
(略)
 いよいよ厦門侵攻が今晩あたりから始まるかもしれない。根本はそう思った。
 だが、総司令部に帰ってきた根本を待っていたのは、
「これから宴会が始まる」
 という報告だった。

根本博中将の手記は旧字体の難字を用いて書かれているため、いささか読みにくいかもしれません。太文字処理した部分を読み比べていただくと、根本博中将の手記と門田隆将氏の本がよく似ていることがわかります。

◆門田隆将氏の疑惑 その230

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】63ページ
 敵が現實(げんじつ)に攻撃を始めてゐるのなら慰労會などはやめろと言ふのだが、攻撃して來さうだと云ふ判斷だけでは、折角準備したものを中止させるには根據(こんきょ)が薄弱では無いか、と考へて別に意見は言はなかつた。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】157ページ
 敵が現実に攻撃を始めているなら「そんなものはとりやめろ」と言えるが、「攻撃して来そうだ」というだけでは、せっかく準備したものを中止させるのは、
たしかに無粋かもしれない。
(略)
 だが、これに対して根本は意見を言わず、

   *     *     *

ここまで、門田隆将著『この命、義に捧ぐ』をめぐる疑惑を20ブロックご紹介しました。いったいいつまで続くんだという声が聞こえてきそうですが、いよいよ次回の連載第12回は『この命、義に捧ぐ』シリーズの最終回です。引き続き、ご期待くださいませ。

連載第12回へ続く/文中・一部敬称略)


※情報提供はコチラまで → kadotaryusho911@gmail.com

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