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作家・門田隆将(門脇護)のモラルハザードを問う 第10回

連載第9回に引き続き、門田隆将著『この命、義に捧ぐ』の疑惑についてご紹介しますね。ときどき旧字体の難読な記述が続くことがありますが、辛抱強くお付き合いください。

■門田隆将氏の疑惑(191)〜(195)

◆門田隆将氏の疑惑 その191

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】59ページ
 久米島からは基隆に直航することにした。石垣や、與那國(よなぐに)に寄ると密輸と誤認されるし、航程が遠くなるので、油と食料の關係(かんけい)から言つても有利では無い。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】108ページ
 議論の結果、船は久米島から基隆(キールン)に直航することにした。
 石垣島や、与那国島に寄ると、やはり密輸と誤認される恐れがあった。
ここまで来て密航が失敗することは許されない。また、石垣島や与那国島を通ると航程が遠くなるので、油と食糧の関係からも不利だった。

根本博中将の手記では「有利ではない」と書かれており、門田隆将氏の本では「不利」と表現されています。「油と食糧の関係から」という文言がそのまま残っている様子を見ると、「意味は同じだが、ちょっと違う表現」に書き換えてみたのでしょうか……。

◆門田隆将氏の疑惑 その192

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】59〜60ページ
 幸ひに海上は平穏な樣子(ようす)なので、最短距離を直行ときめたのである。直行ならば約三晝夜(ちゅうや)、七日の夜か、八日の朝には基隆に着く計算で、一行は喜び勇んで五日の朝最終コースに入つた。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】108ページ
 しかし、言うまでもないが直航は危険を伴った。もし成功すれば、およそ三昼夜、つまり七月七日の夜か、八日朝には基隆に着くはずである。
(略)
 七月五日朝、一行は勇躍、久米島をあとにした。

このブロックでは「三昼夜」云々という記述が似通っており、その直後の「喜び勇んで」と「勇躍」も似通った意味あいの類語です。

◆門田隆将氏の疑惑 その193

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】60ページ
 夜中に機關(きかん)に故障が起つて、修理する間約五時間程海上を漂流した。六日にも亦(また)故障が起き、一、二時間づつ二回漂流した。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】108〜109ページ
 だが、不運は、その夜のうちに襲ってきた。夜半、船の心臓部、機関に故障が起こってしまったのだ。
(略)
 だが、故障が直るまでにおよそ五時間も要し、捷信號はその間、大海原で漂流することになる。
 六日にも故障は起こった。それも一度ではない。二度である。
 そのたびに、船は、海原の上を漂流した。一時間で故障が直る時もあったが、二時間を要した時もあった。

◆門田隆将氏の疑惑 その194

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】60ページ
 或(あるい)は、久米島で補充した油の關係(かんけい)かも知れない。海洋の眞ん中で機關に止まられる位、心細いものはないが、
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】109ページ
 根本は、久米島で補充した油の関係だろうと推理した。しかし、今さらどうしようもなかった。海洋のど真ん中でエンジンが停止することぐらい心細いことはなかった。

◆門田隆将氏の疑惑 その195

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】60ページ
 おまけに船腹の損傷個所から再び漏水が始つた。若い人達は又も水汲みで不平滿々(まんまん)だが、萬一(まんいち)水汲みを怠つて機關室に浸水したら、「萬事(ばんじ)休す」るのだから命の限り水汲みは續(つづ)けなければならない。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】110ページ
 根本の不安に追い打ちをかけたのは、水漏れだった。船腹に空いていた損傷個所から再び漏水が始まったのだ。
 屋久島から久米島までの三日三晩と同じ状況だった。しかし、水汲みを怠って機関室に浸水したら、すべては「終わり」だった。そうなったらエンジンの故障ではすまない。回復不能で、あとは大海原を漂流するだけである。
 命の限り水汲みは続けなければならないのだ。再び始まった水汲みに、若い人間は不平満々だが、

■門田隆将氏の疑惑(196)〜(200)

◆門田隆将氏の疑惑 その196

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】60ページ
 今度は老骨の私も、手押ポンプを押してみたが、ナカナカ十分間も續かない。若い人達の勞苦(ろうく)が思ひやられた。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】110ページ
 今度は根本もこれに加わった。だが、ポンプを押す労力は、傍で見ているよりずっと辛かった。十分間など、とても無理だった。たちまち息が切れた。

◆門田隆将氏の疑惑 その197

【根本博「私は金門防衛日本人司令官だった」(「日本週報」1961年2月20日号)】7ページ
 基隆着は夜中だったが、台湾人の船員が自分の家へ行って持って来たバナナのうまかったこと。私はこれほどのバナナを食べたことはかつてなかった。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】113~114ページ
 船は、基隆の波止場に着いた。すでに一昼夜、飲まず食わずである。
 船員の一人は、港のすぐ近くに家があった。夜中、船を波止場につけたあと、船員はさっそく家に走った。
 そして、自分の家からバナナを持って帰ってきた。
一行は、そのバナナにかぶりついた。
「うまい!」
 生き返った気がした。最も年長の根本でさえ、
「私はこれほど美味しいバナナを食べたことがなかった」
 と、のちに回想した
ほどである。

◆門田隆将氏の疑惑 その198

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】60ページ
 上陸以來、北投温泉で無爲徒食の日を送ること四十日餘(あま)り。八月中旬の或る日、突然、湯恩伯將軍の使者が私の宿舎に來て「一夕御慰労の宴を設け度(た)いと思ふが、出席して下さるか」と言ふので出席を快諾した。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】118ページ
 北投温泉で滞在していた根本と吉村に八月中旬のある日、突然、湯恩伯(とうおんぱく)将軍の使者が宿舎に来て、
「明後日、慰労の宴を設けたいと思いますが、出席していただけますか」
 との口上があった。
もちろん根本は出席を快諾した。

◆門田隆将氏の疑惑 その199

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】60ページ
 翌日、一同に對(たい)して正式の招待狀が届けられ、指定の時間に指定の場所に到着する。湯將軍自ら玄關(げんかん)まで出迎へられて懇切に案内され、茶菓や煙草で雑談を交はして居る間に、將軍部下の將領達を紹介された。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】118ページ
 翌日、一同に対して正式の招待状が届けられた。
 指定の時間に指定の場所に到着すると、湯将軍自ら玄関まで出迎えた。茶菓や煙草で雑談をしている間に、根本は将軍の部下である将領たちを紹介された。

根本博中将の密航船は、辛くも台湾への密航に成功しました。はるばる日本から支援のためやってきた一行を、台湾側は大歓待します。その模様を述懐する根本博中将の手記と門田隆将氏の本に、あまりにもソックリな記述が続くのです。

◆門田隆将氏の疑惑 その200

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】60ページ
 一同皆日本語で談話が出來る爲(た)めか、肩も凝らず、十年の知己に再會(さいかい)した如く打ち解けて、午後十時頃まで乾杯又乾杯と飲み更かした。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】118~119ページ
 ほとんどが、談話に不自由がないほど日本語が堪能だった。
(略)
 根本たちは、湯とその幕僚たちと十年の知己に再会したごとく、すぐ打ち解けた。
「乾杯、乾杯」と、中国式の乾杯がつづいた。日本の旧軍人に対して敬意を忘れない宴会は、午後十時が過ぎてもつづいた。

■門田隆将氏の疑惑(201)〜(205)

◆門田隆将氏の疑惑 その201

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】60~61ページ
 辭去(じきょ)に際し湯將軍が「大總統が明日お會(あ)ひすると言ふから私が案内致します。午前九時までに私が宿舎に迎へに参ります」
 と私にささやいた。
私は、勿論(もちろん)快諾した。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】120ページ
 やがて宴会が終わり、根本らが帰る時、湯恩伯は一行を玄関まで見送った。その時、湯が根本に近づき、こうささやいた。
「大総統が明日お会いすると仰(おっしゃ)っています。私が、宿合に迎えに参ります」

(略)
 それは、今か今かと根本が待ちわびた会見だった。

◆門田隆将氏の疑惑 その202

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】61ページ
 渡臺(だい)後四十餘(よ)日間、明け暮れ鶴首して待つた蒋總統との會見(かいけん)の日が來た。午前九時、約束の通り湯將軍は迎へに來た。私は通譯(つうやく)だけを連れて往くつもりで居たが、湯將軍はKをも連れて行かうと言ふので急にKを加へ湯將軍の車で草山に向つた。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】120~121ページ
 明朝九時。約束の時間通り、湯将軍の迎えの車が来た。
(略)
 根本は、通訳の吉村と二人で蒋介石との会見に臨むつもりだった。しかし、湯恩伯は、吉川(きっかわ)源三中佐も是非ご一緒に、ともちかけた。
 もちろん根本に異存はない。

◆門田隆将氏の疑惑 その203

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】61ページ
 大總統の假寓に着くと、侍從武官の案内で應接室に通され待つ間程なく、溫顔微笑の蒋總統が出て來られて「好好好(ハオハオハオ)」と言ひ乍(なが)ら握手の手を差し伸べられた。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】121~122ページ
 玄関から入っていく際、いよいよ蒋介石と会見することに根本の身は引き締まった。侍従武官の案内で、根本らは広い応接室に通された。待つ間もなく、満面に笑みをたたえた蒋介石が入って来た。
「好(ハオ)、好、好」

 蒋介石は、まっすぐ根本に歩を進めると、そう言いながら堅く手を握った。つづいて吉川中佐、そして吉村とも握手を交わした。

◆門田隆将氏の疑惑 その204

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】61ページ
 大總統は、
「何日頃臺灣(たいわん)に着いたか?」
(Y通譯飜譯〈つうやくほんやく〉)
 と、諮かれた。
「七月十日に着きました」
(Y通譯飜譯)
 と正直に答へると總統は、
「私は二、三日前に君が來たと云ふことを聞いたので、早速會はふと云ふことを湯恩伯に通じた」
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】123ページ
 蒋介石は、
「台湾にはいつごろ着いたのか?」
 と、間うた。根本は正直に、
「七月十日に着きました」
 と答えた。

(略)
「あなたが台湾に来たということを私が聞いたのは、二、三日前のことです。それで、さっそくあなたに会うことを湯恩伯に伝えたのです」
 蒋介石の言葉は、通訳の吉村を通じて根本に正確に伝えられた。

◆門田隆将氏の疑惑 その205

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】61ページ
「昨日湯蒋軍から總統閣下に謁見の事を承りました」
 總統は語を轉(てん)じて、
「どうして來たか?」
 と問はれる
から、
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】123ページ
「昨日、湯将軍から総統閣下に謁見のことを承りました」
 根本が応えると、蒋介石は頷きながら根本に改めてこう聞いた、
「今回こちらに来られたのは、どういう理由ですか」

■門田隆将氏の疑惑(206)〜(210)

◆門田隆将氏の疑惑 その206

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】61ページ
 私は、
「立法委員の黄節文と云ふ人から『早く來て援助して呉れないか』と云ふ手紙をもらつて、黄立法委員は故黄孚先生の遺児だと聞いて居たから、是れはテツキリ黄孚先生の靈(れい)が招くのだと思つて、大いに心が動き出した時に、李鉎源と云ふ臺灣(たいわん)の青年が『迎へに來ました』と私を訪ねて來ましたので、黄孚先生の招きに疑なしと確信し、李の案内で秘かに臺湾人の小舟に乗つて密航、十五日目に基隆に上陸しました」
 と密航の概要を説明した。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】123~124ページ
 根本は、ここに至るまでの経緯を説明した。
(略)
「実は、立法委員の黄節文という人から〝早く来て(国府軍を)助けもらえないか〟という手紙をもらったのです」
 根本は、そう語った。さらに、この黄節文からの手紙に対する思いを、根本は蒋介石にこう説明している。
「手紙をくれた黄立法委員は故黄郛先生の遺児だと聞きました。故黄郛先生の霊が招くのだと思って、大いに心が動き出した時に、李鉎源という台湾の青年が〝迎えに来ました〟と、私を訪ねて来たのです。これは、故黄郛先生が招いているのに疑いはないと確信し、李の案内で秘かに台湾人の小舟に乗って密航、十五日目に基隆に上陸した次第です」

◆門田隆将氏の疑惑 その207

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】61ページ
 總統は
更に「御健康は如何」と尋ねられるので、私は「年は取つても、身體には年を取らせないから健康は大丈夫」と答へると、總統は好(ハオ)、好(ハオ)、と繰り返し、湯蒋軍に向つて、
「福建往きの話はしてあるのか?」
「いやまだです」
 と湯蒋軍が答へる
と、
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】124ページ
 やがて蒋介石は、
「根本先生のご健康はいかがか?」
 と問うた。
「歳はとっても身体には歳はとらせておりません。健康は大丈夫です」
 と、間髪を容れずに根本が言うと、
「好、好、好」

 と、蒋介石は再び満面に笑みをたたえた。おもむろにうしろを振り返った蒋は、そこに直立している湯恩伯に向かってこう言った。
「福建行きの話はしてあるのか?」
「いやまだです」
 と、湯将軍。

◆門田隆将氏の疑惑 その208

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】61ページ
 再び私に向つて、
「近日中に湯恩伯が福建方面に往くが、差し支へなかつたら湯と同行して福建方面の情況を観て呉れないか」
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】124~125ページ
 蒋介石は、根本の方に向きなおった。そして真剣な表情でこう言った。
「近日中に湯恩伯が福建方面に行きます。差し支えなければ湯と同行して福建方面の状況を観ていただきたい」

◆門田隆将氏の疑惑 その209

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】61ページ
 と言はれるので、私は「福建でも何所へでも往く」と快諾すると總統はしきりに「有難う」「有難う」と繰り返された。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】125ページ
 根本は、蒋介石の要請に対して即座に、
「私は、福建でもどこでもまいります」
 と、快諾した。
同席した吉川中佐も、大きく頷いている。
 蒋介石は感激した面持ちで、
「ありがとう、ありがとう」
 と繰り返した。

◆門田隆将氏の疑惑 その210

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】61ページ
 八月十八日は一行の爲(た)めに幸多き日であつた。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】133ページ
 八月十八日、根本一行は、いよいよ戦地へと出発した。
(略)
 出発にあたって「今日は幸多き日だ」と思えたこと。根本にとってこれほど嬉しいことはなかった。

   *     *     *

蒋介石と根本博中将の出会いについて、参考文献(根本の手記)ととても似通った記述が続くことがわかります。ここまで、門田隆将著『この命、義に捧ぐ』をめぐる疑惑を20ブロックご紹介しました。続きは連載第11回でお伝えしますね。

連載第11回へ続く/文中・一部敬称略)

※情報提供はコチラまで → kadotaryusho911@gmail.com

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