見出し画像

作家・門田隆将(門脇護)のモラルハザードを問う 第12回

門田隆将著『この命、義に捧ぐ』検証シリーズのラストです。これまで100ブロックの疑惑についてご紹介してきました。残り15ブロックの類似点を公開します。

■門田隆将氏の疑惑(231)〜(235)

◆門田隆将氏の疑惑 その231

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】63〜64ページ
 唯第一線の部隊長は出席しないで現地に在る樣(よう)指示させた。慰労會は豫定(よてい)通り夕方から始まり、午後九時頃に終つて
客は散じた。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】157ページ
 ただ、「第一線の部隊長は出席するな。現地を離れてはならない」という指示を出させた。
 幸いに慰労会は予定通り夕方から始まり、午後九時頃に何事もなく終わった。

◆門田隆将氏の疑惑 その232

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】64ページ
 午後十時頃になると、錫麟號の隣りに居た軍艦が鼓浪嶼の方向に出かけて砲撃を開始し、第一線からも中共軍が攻撃を開始した旨報告して來た。湯總指令は私に錫麟號に乗つて吳れと言ふが、私は「こんな時こそお前の傍に居てお前を援助するのがオレの任務では無いか」と、總指令の要求を拒絶した。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】157~158ページ
 午後十時頃になると、味方の軍艦からの砲撃が始まった。共産軍も攻撃を開始した、という第一線からの報告が入って来た。
「顧問閣下は、錫麟號に乗ってください」
 湯恩伯総司令は、根本にそう頼んだ。
しかし、
「私はこんな時にこそ、そばにいて、あなたの援助をするのが任務ではないですか」
 と、根本が拒絶すると

◆門田隆将氏の疑惑 その233

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】64ページ
 すると總指令は、
「鼓浪嶼方面の我が火力が不足だから錫麟號を同方面に進め度(た)いのだが、君が乘つて吳れなくては錫麟號は恐らくは進めないだらうから君に頼むのだ」
「それなら錫麟號の指揮を私に委任すると云ふ命令書を私に吳れ」
 と要求
し、
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】158ページ
 湯は重ねてこう要求した。
「コロンス島方面のわが軍の火力が不足しているのです。だから、錫麟號をコロンス島方面に進めたい。しかし、あなたが乗ってくれなくては、錫麟號はおそらく進めない。だから乗って欲しいのです」

 根本が答える。
それならば、錫麟號の指導を私に委任するという命令書をください。それがなければ、錫麟號は危険な海域に進んでいかないでしょう」

◆門田隆将氏の疑惑 その234

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】64ページ
 錫麟號指揮の爲め錫麟號に乗り移つたところ、砲火の下に錫麟號を進めることは船長以下大部分の人が反對だつたが、私は斷乎命令を以て之を敢行した。正午頃、軍艦が遂に後退したので錫麟號も亦虎里山の海岸に後退した。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】158ページ
 湯総司令から命令書をもらった根本は、ただちに錫麟號に乗り込んだ。案の定、危険水域に錫麟號を進めることは船長以下大部分が反対した。
 しかし、根本は、湯総司令の命令書を示し、号令を発した。
「これは命令である。ただちに船を進めよ」
(略)
 日付が変わる頃、僚艦の後退に伴い、錫麟號も胡里山の海岸まで後退した。

中国・福建省の厦門(アモイ)にある山の名前が、根本博中将の手記では「虎里山」と表記されています。門田隆将氏の本では「胡里山」と表記されていました。どちらが正確な固有名詞なのかは定かではありません。いずれにせよ、固有名詞以外の記述が似通っているのは確かです。

◆門田隆将氏の疑惑 その235

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】64ページ
 午前八時頃、劉汝明と共に湯總指令も錫麟號に來た。湯總指令の説明に依ると「海岸に上陸した中共軍に對し反撃を命じたが、劉汝明は之を承諾しない。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】158~159ページ
 翌朝午前八時頃、劉汝明と共に湯総司令が錫麟號にやって来た。湯総司令の剣幕は激しかった。
「海岸に上陸した共産軍に対して反撃を命じたが、劉汝明はこれを承諾しなかった」

■門田隆将氏の疑惑(236)〜(240)

◆門田隆将氏の疑惑 その236

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】64ページ
 已むなく湯自ら豫備(よび)隊を指揮して反撃をやらうと思つて豫備隊の指揮官なる劉汝明の子息の所に急行したが、劉の子息は旣に何所にか逃亡して行方が知れないのみならず豫備隊自體(じたい)が集合を命じても集合して來ない。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】159ページ
「やむなく私は自ら予備隊を指揮して反撃しようと考え、予備隊の指揮官である劉汝明の子息のところに急行したが、劉の子息はすでにどこかに逃亡して行方が知れない。さらには、予備隊自体が集合を命じても一向に集まらない」

◆門田隆将氏の疑惑 その237

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】64ページ
 結局施すべき策無く虎里山に歸(かえ)つて來たら、劉汝明は『トラック』五臺(だい)に兵を滿載(まんさい)して、總指令に急用ありと稱(しょう)して虎里山に乘り付けて來た
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】159ページ
 憤然として、湯はそう言い放った。施すべき策がなく湯総司令が胡里山の司令部に帰って来たら、今度は、劉汝明がトラック五台に兵を満載して、〝総司令に急用あり〟と称して胡里山に乗りつけて来たという。

◆門田隆将氏の疑惑 その238

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】64ページ
 虎里山の衛兵長が氣をきかして劉汝明とその參謀、副官の三人だけを虎里山に入れたので、先づ錫麟號に往つて話をしようと言つて連れて來た。若しかうしなければ、逆にオレの方が捕虜にされたかも知れない」
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】159ページ
 幸いに、胡里山の衛兵長が気を利かして劉汝明とその参謀、副官の三人だけを胡里山に入れたので、まず錫麟號に行って話をしようと言って連れて来たというのである。
「もしこうしなければ、逆に私の方が捕虜にされたかも知れない」
 湯は根本にそうささやいた。

◆門田隆将氏の疑惑 その239

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】64ページ
 何と云ふことだ。戰意の無い劉汝明軍はそれでは中共軍に降伏したのでは無いか。厦門島の防禦はもはや斷念すべき時だ。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】159ページ
 なんということだ。戦意のない劉汝明軍は、すでにこの段階で共産軍に事実上〝降伏〟していたのである。根本は厦門島の防御はもはや断念すべき時が来たことを確信した。

◆門田隆将氏の疑惑 その240

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】64ページ
 私は「早く金門に往つて空船を集め、今夜の夜暗を利用して、曹福林軍と一六六師を助ひ出す策を採るべきだ」と湯に勸告した
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】159ページ
「早く金門に行って空船(からぶね)を集め、今夜の暗闇を利用して、曹福林軍と一六六師を救い出す策を採るべきです」
 湯の話を聞いて、すぐ根本はそう告げた。

門田隆将氏の本を読んでいると、根本博中将が残した手記を最大限活用しているようにしか見えません。こういう紛らわしい書き方をするのではなく、いっそ根本中将の手記を全文カギカッコにくくって紹介すれば良かったのではないでしょうか。

■門田隆将氏の疑惑(241)〜(245)

◆門田隆将氏の疑惑 その241

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】64ページ
 湯も亦之に同意し金門に急行し、利用出來る船の船長全部と海軍の司令官とを錫麟號に召集し、今夜暗に乘じ曹福林軍と一六六師を收容することを命じ、海軍には此の行動を極力援護すべきことを要求した。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】160ページ
 ただちに利用出来る船の船長すべてと海軍の司令官が錫麟號に集まった。根本の作戦は、湯総司令によって全員に伝えられた。
「夜陰に乗じ、曹福林軍と一六六師を収容せよ」
 湯が言い放つと、「よし!」という声が部屋に満ちた。湯は、海軍にこの行動を極力援護することも命じた。

◆門田隆将氏の疑惑 その242

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】64ページ
 斯くして曹福林軍の約三分の二、一六六師の約二分の一を助出して之を小金門島に配備し、劉汝明軍の殘部は武裝解除の後、劉汝明と共に臺灣に送り返して厦門の戦闘を終了したのである。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】160ページ
 かくしてこの日、曹福林軍の約三分の二、一六六師の約二分の一以上が救出できた。救出された部隊は、小金門島に再配備された。
(略)
 劉汝明軍の残存部隊は武装解除の後、劉汝明と共に台湾に送り返して厦門の戦闘は終了した。

◆門田隆将氏の疑惑 その243

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】64ページ
 厦門を撤退して總指令部は之を大金門島に置くを適當と考へ、湯に進言して水頭と云ふ部落に設營した。さうして湯と私とは晝(ひる)は陸上にて執務し、夜は錫麟號に歸(かえ)つて寢ることにした。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】157~161ページ
 厦門を撤退した湯恩伯総司令部は、大金門島の「水頭」に設営された。
(略)
 湯総司令と根本は、この日以降、より行動を共にするようになり、昼は陸上にて執務し、夜は錫麟號に帰って寝るという生活が繰り返された。

◆門田隆将氏の疑惑 その244

【根本博「私は金門防衛日本人司令官だった」(「日本週報」1961年2月20日号)】8ページ
 中共軍には尨大な兵員を運ぶ艦船はない。民間のジャンクがせいぜいである。輸送可能兵員も最高二万どまりだろう。問題はジャンクを叩くことである。そうすれば第二次上陸は不可能になり、第一次攻撃軍は退却の方法を失う。そこで第一次攻撃軍はおとなしく上陸させ、その間に石油罐を抱いた特別攻撃隊によってジャンクを焼打ちにし、上陸部隊は孤立させて全滅する、という作戦をたてたわけである。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】162〜165ページ
 海軍を持たない共産軍は、近辺の漁村からかき集めた小型の木造漁業帆船(ジャンク船)を連ねて、海峡を押し渡ってくることは確実だ。
(略)
 ジャンクが帰れないようにすれば、後続部隊の輸送を阻止できる。そうなれば、上陸した敵兵は袋のねずみだ。兵士に動揺も走るだろう。
(略)
 その上で大軍を殲滅した戦いは、「海上」ではなく「陸上」であったからこそ可能だった。敵の第二、第三の波状攻撃を防ぐためには、敵の大軍を誘い込んで一挙に全滅させるしかない。

◆門田隆将氏の疑惑 その245

【根本博「私は金門防衛日本人司令官だった」(「日本週報」1961年2月20日号)】10ページ
 私は自由主義陣営の一つの危機にあたって、助力できたことに対し、大きな喜こびと誇りをもっている。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】183ページ
「いささかなりといえども、お役に立てた」
 そのことを実感できた
瞬間だった。

■門田隆将著『この命、義に捧ぐ』に115ブロックの引き写し疑惑が

連載第7回から第12回まで6回連続で、門田隆将著『この命、義に捧ぐ』をめぐる疑惑(全115ブロック)をご紹介してきました。

門田隆将氏は、本書によって2010年にPHP研究所の「山本七平賞」を受賞しました。月刊「Voice」(2011年1月号)に載った選考委員の選評を読むと、絶賛の声があふれています。

著者の門田隆将氏は、すでに雑誌メディアを中心に活躍しているジャーナリストであるが、こんどの仕事によって新たな境地を開くことになったのではないだろうか。
(宗教学者の山折哲雄さん)
歴史研究としても立派な業績
(京都大学の中西輝政教授=肩書きは当時)
最後まで息も継がせず読ませる。事実を記録しながら、それができるというのは、並の力量ではない。事実を読者に「読ませる」ためには、相手の想像力を上手に喚起する必要がある。そこが堂に入っているというしかない。その意味で、本書は当然、授賞に値する作品だったと思う。
(東京大学名誉教授の養老孟司さん)

この連載で紹介してきた膨大な疑惑について、選考委員の皆さんの意見をお聞きしてみたいものです。

さて、連載第1回から第6回まで掲載した門田隆将著『風にそよぐ墓標』『康子十九歳 戦渦の日記』の疑惑も含めると、疑惑は合計245ブロックにのぼります。

「こういう書き方をしてしまうノンフィクション作家は、ほかの本でも引用箇所をカギカッコで示さず、自分の文章と一緒くたになっているかもしれないよね……」。そんな素朴な疑問をもちながら、門田隆将氏が書いたほかの作品にも目を通してみました。すると『風にそよぐ墓標』『康子十九歳 戦渦の日記』『この命、義に捧ぐ』以外の作品にも、知られざる疑惑が見つかったのです――。

(連載第13回へ続く/文中・一部敬称略)

※情報提供はコチラまで → kadotaryusho911@gmail.com

#門田隆将 #門脇護 #ノンフィクション作家 #疫病2020 #風にそよぐ墓標 #著作権侵害訴訟 #Fukushima50

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?