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作家・門田隆将(門脇護)のモラルハザードを問う 第6回

連載第5回に引き続き、門田隆将著『康子十九歳 戦渦の日記』の疑惑についてご紹介しますね。

■門田隆将氏の疑惑(116)〜(120)

◆門田隆将氏の疑惑 その116

【朝野富三『昭和史ドキュメント ゴー・ストップ事件』】184〜186ページ
 空襲警報が広島市内に響きわたった。最初は午後九時二十七分。
(略)
 午後十一時五十五分に警報解除になったものの、わずか三十分後の六日午前零時二十五分に再び、けたたましく警報発令のサイレンが市内に鳴り響いた。
(略)
 午前二時十分に警報解除となり
(略)
 午前七時九分、再び、警戒警報が発令された。
(略)
 警戒警報は空襲警報にならずに、午前七時三十一分に解除された。
【門田隆将『康子十九歳 戦渦の日記』】194ページ
 この夜は、午後九時二十七分を皮切りに、午前零時二十五分にも、また二時十分にも、さらには朝となり、午前七時九分にも、空襲警戒警報が発令されていた。
 最後の警報が解除になったのは、午前七時三十一分のことである。

◆門田隆将氏の疑惑 その117

【朝野富三『昭和史ドキュメント ゴー・ストップ事件』】188ページ
 一方、円山。八日の昼になってようやく体を動かすことができるようになった。粟屋のことが気になって市役所に行くと、粟屋が行方不明になっていることを聞かされた。助役の森下重格に会うと「市長の奥さんが広島赤十字病院に入っている。すぐに行ってくれ」と指示され、病院に走った。
【門田隆将『康子十九歳 戦渦の日記』】198ページ
 翌七日正午過ぎ、やっと身体が動くようになった圓山は、気力をふりしぼって登庁する。
「粟屋市長は亡くなられた。夫人は日赤病院に運ばれたらしい」
 この時、圓山は初めて森下重格助役から聞かされ、衝撃の事実を知る。予想していたこととはいえ、秘書である自分がお伴できない時に市長が落命するとは、痛恨の極みだった。
 圓山は、自身もまだ足元がふらつく中を、日赤病院に急行した。

細かいツッコミですが、参考文献の『昭和史ドキュメント ゴー・ストップ事件』では、粟屋市長の秘書である圓山は8月8日昼に市役所へ登庁したことになっています。門田隆将氏の『康子十九歳 戦渦の日記』では、8月8日昼ではなく8月7日昼に登庁したと書かれていました。どちらが正しい時系列なのかは、定かではありません。

◆門田隆将氏の疑惑 その118

【朝野富三『昭和史ドキュメント ゴー・ストップ事件』】188ページ
 幸代は病院の玄関そばのベッドに横たわっていた。
【門田隆将『康子十九歳 戦渦の日記』】198ページ
 日赤病院で、圓山は必死で幸代の姿を探した。そして、数知れない負傷者の中から、ようやく幸代を見つけ出した。
 幸代は、玄関隅のベッドの上に横たわっていた。

◆門田隆将氏の疑惑 その119

【朝野富三『昭和史ドキュメント ゴー・ストップ事件』】189ページ
「主人はだめだったのでしょう?」
【門田隆将『康子十九歳 戦渦の日記』】199ページ
「主人は……、だめだったのでしょう?」

亡くなった広島市長の夫人が絞り出したひとことが、門田隆将氏の本ではそのまま使われています。引用元を示すカギカッコはついていません。

◆門田隆将氏の疑惑 その120

【朝野富三『昭和史ドキュメント ゴー・ストップ事件』】189ページ
 円山は市長公舎に急いだ。公舎は見るかげもなく焼け落ちて、正確な位置さえ判断つかなかった。しばらく、その付近を探していると、焼け野原となった一帯のなかに、見覚えのある公舎の庭石を見つけることができた。
【門田隆将『康子十九歳 戦渦の日記』】200ページ
 圓山は、痛い身体をひきずって、ただちに市長公舎の焼け跡へ向かった。
 焼けた瓦と赤土がうずたかく積もった公舎跡は、余燼(よじん)がまだ猛烈で、土も熱を帯び、瓦礫にも迂闊(うかつ)に触れられないような状態だった。
 庭の樹々はことごとく〝消滅〟していたが、市長公舎の名物ともなっていた松の大木だけが半分焼け残り、まるで真っ黒なサボテンのごとく天空を指していた。

■門田隆将氏の疑惑(121)〜(125)

◆門田隆将氏の疑惑 その121

【朝野富三『昭和史ドキュメント ゴー・ストップ事件』】189ページ
 書斎のあったあたりに大人の遺体を見つけた。遺体はお腹のあたりだけを残して白骨化していた。体の大きさから見て粟屋に間違いなかった。
【門田隆将『康子十九歳 戦渦の日記』】200ページ
「市長、市長……」
 圓山は心の中で叫びながら、気が狂ったように熱を帯びた瓦礫を押しのけ、返す言葉があるはずもない市長の姿を探した。
 間もなく遺体は見つかった。
 公舎のほぼ中央あたりに、半分、焼土に隠れるように五十センチぐらいの焼け残った仙吉の胴体が発見されたのである。顔は判別できない状態だったが、遺体の状況から仙吉のものに間違いはなかった。

◆門田隆将氏の疑惑 その122

【朝野富三『昭和史ドキュメント ゴー・ストップ事件』】189ページ
 そばに少年らしい白骨もあった。
【門田隆将『康子十九歳 戦渦の日記』】200ページ
 かたわらには、白骨化した少年の亡骸(なきがら)もあった。また、仙吉にくっついた形で小さな白骨も発見された。

◆門田隆将氏の疑惑 その123

【粟屋忠編『追悼―原爆にたおれた粟屋家の人々―』】153ページ
 「つかれてるぢゃないの、ねなさい、ねて頂戴。おきてちゃいやよ」と私を指しておっしゃったお母さま
 「お母さん一生けん命喰べてるのよ」と必死の努力で通らぬのどに食物を通さうとなさったお母さま
 「汚いものゝ仕末までさせてすまないねえー」
 「勿体ないねえ」
と仰云ったお母さま
【門田隆将『康子十九歳 戦渦の日記』】246~247ページ
「康ちゃん、疲れてるじゃないの。寝てちょうだい。ね。起きてちゃいやよ」
 康子が身体を横にすると、安心したように幸代は眼を閉じた。
「汚いものの始末までさせてすまないねえ」
「もったいないねえ」

 幸代は、康子が世話をするたびにそう康子に語りかけた。(略)
「お母さん、一生懸命食べてるのよ……」
 康子の必死の看病に応えようと、幸代はそう言って、通らぬ喉に必死で食べ物を通そうとした。しかし、それも限界があった。

広島の原爆によって被爆した母親(幸代)を、看護師である娘(粟屋康子)は懸命に看病します。病床における、当事者しか知り得ない生々しい会話が、門田氏の本ではほとんどそのまま使われています。

◆門田隆将氏の疑惑 その124

【粟屋忠編『追悼―原爆にたおれた粟屋家の人々―』】152ページ
 あゝお母さま・・・ 私のお母さまはとうとう天に召されてしまはれた。もうその日から幾日たつだろう。「今日が丁度一月ね」と話した翌日だったのだからもう二週間以上たってしまった。「幾時だったの?」と聞いたらはっきりと即座に「八時十五分」と答へられたお母さま 最愛の夫を子を孫を奪はれた恨みの瞬間を忘れてなるものかといふ調子だった。
【門田隆将『康子十九歳 戦渦の日記』】247ページ
 九月六日。原爆投下からちょうどひと月目のことだった。意識の混濁から目を覚ました幸代が突然、康子に向かって、
「今日がちょうどひと月ね……」
 と、語りかけた。意識が途切れがちになっても、幸代は時間の感覚を失ってはいなかった。
「お母さま、(原爆投下は)何時だったの?」
 はっとした康子がそう問うと、幸代は即座に、
「八時十五分」

 と、はっきりと答えた。最愛の夫を、子を、そして孫を奪われた瞬間を忘れてなるものか、という母の強い思いが出た一瞬だった。

◆門田隆将氏の疑惑 その125

【粟屋忠編『追悼―原爆にたおれた粟屋家の人々―』】153ページ
 そして召される少し前「お母さま 楽しかった?」ときいたら大きくうなづいて「あゝ 楽しかったよ」「うれしかった?」ときいたら又うなづいて「あゝ、うれしかったよ」とおっしゃったお母さま
 「お母さまー」
【門田隆将『康子十九歳 戦渦の日記』】248〜249ページ
「お母さま、楽しかった?」
 と、聞いてみた。
母の一生が康子には誇りだった。母ほど幸せな人はいない、と康子は信じていたのだ。その時、幸代は目をつむったまま大きく頷いて、
「ああ、楽しかったよ……、うれしかったよ……」
 と、はっきり応えたのである。
「お母さま!」

■門田隆将氏の疑惑(126)〜(130)

◆門田隆将氏の疑惑 その126

【粟屋忠編『追悼―原爆にたおれた粟屋家の人々―』】154ページ
 「お母さま 負けちゃだめ、 負けちゃだめよ 勝って頂戴」とたえず言って居た
のを死ぬ前に思ひ出されて「お母さま かったわね かったわね かったんでせう」とおっしゃった。「さうよ、お母さまはかったのよ えらかったわね。たたかって たたかって かったのよ」といってあげた。
【門田隆将『康子十九歳 戦渦の日記』】249ページ
 幸代の意識が遠のいている中で、康子は何度も何度もこう語りかけていた。
「お母さま、負けちゃだめよ、負けちゃだめよ」
「お母さま、お願い。ね、勝ってちょうだい」

 息を口の中に吹き込みながら耳元でそう繰り返していた康子に、母は突然うわごとのように、
「お母さん、勝ったわね、勝ったわね……勝ったんでしょう?」
 そう答えたのだ。
康子はその時、思わずこう叫んでいた。
「そうよ、お母さまは勝ったのよ、えらかったわ。戦って、戦って、お母さまは勝ったのよ……」

原爆投下で被爆した母親(幸代)は、とうとう病床で死去します。いまわの際における母と娘の最後の会話が、門田隆将氏の本ではほとんどそのまま使われています。引用元の明記はありません。

◆門田隆将氏の疑惑 その127

【粟屋忠編『追悼―原爆にたおれた粟屋家の人々―】121ページ
 見知らぬご近所の家々をまわって一束ずつ薪を譲っていただき、大八車を借りて母を乗せ、妹と親戚の小母達で近くの野原に曳いていった。
【門田隆将『康子十九歳 戦渦の日記』】252ページ
 素子と康子は、母をその手で荼毘にふさなければならなかった。二人は、知人もいないご近所をまわって、一束ずつ薪を譲ってもらった。広島は、死者を焼く薪すら不足していたのである。
(略)
 借り受けた大八車に母を乗せ、素子と康子は、無言で近くの野原に引いていった。

◆門田隆将氏の疑惑 その128

【粟屋忠編『追悼―原爆にたおれた粟屋家の人々―】121ページ
 そこには連日の相次ぐ死者のために細長い穴が幾条も掘ってあった。その中に薪を組み、静かに母を臥かせ、二人の娘の手で火をつけるのである。
【門田隆将『康子十九歳 戦渦の日記』】252ページ
 異様な光景だった。近所で教えられたその空き地には、細長い穴が幾条も掘られてあった。連日の相次ぐ死者のために、近くの住人はそこでゆかりのものを荼毘にふしていた。市内のあちこちにそんな場所ができていた。
 細長い穴の中に薪を組むようになっていた。その上に死者を寝かせるのである。
 素子と康子は、静かに母を横たえた。二人の娘の手で火をつけなければならなかった。

◆門田隆将氏の疑惑 その129

【粟屋忠編『追悼―原爆にたおれた粟屋家の人々―』】121ページ
 幾度ためらったことであろう。こんな惨めで傷ましいことがあろうかと、母を野辺に送った日のことが新たな涙で思い出される。
【門田隆将『康子十九歳 戦渦の日記』】252ページ
 だが、なかなかできなかった。幾度ためらったことだろう。愛する母を、自分たちの手で荼毘にふす。これほど惨めで痛ましいことがあるだろうか。

◆門田隆将氏の疑惑 その130

【粟屋忠編『追悼―原爆にたおれた粟屋家の人々―』】121ページ
 主人も家族も骨になって帰宅したその家は、まったくガランと静まっていた。
【門田隆将『康子十九歳 戦渦の日記』】257ページ
 主人も、その家族も、骨となって帰宅した時、家はガランと静まっていた。

■知られざる疑惑がさらに大量に見つかった!

2010年度の第41回大宅壮一ノンフィクション賞にノミネートされた門田隆将著『康子十九歳 戦渦の日記』は、受賞を逃しました。この年の大宅賞は上原善広著『日本の路地を旅する』(文藝春秋)と川口有美子著『逝かない身体 ALS的日常を生きる』(医学書院)がダブル受賞しています。

「文藝春秋」(2010年6月号)に載った選考委員の選評を読むと、作家の猪瀬直樹さんは門田氏に次のようにエールを送っています。

受賞を逸した森功著『同和と銀行』、門田隆将著『康子十九歳 戦渦の日記』らプロの作家に奮起を期待したい。

作家の西木正明さんは、次のように選評を綴っていました。

門田隆将さんの『康子十九歳 戦渦の日記』と、森功さんの『同和と銀行』も、十分授賞に値する力作であった。捲土重来(けんどちょうらい)を期待する。

選考委員の一部が「十分授賞に値する力作」と太鼓判を押すノンフィクション作品に、引用元を示さない「疑惑」がこんなにたくさん見つかるとは……。当時大宅賞の選考委員を務めた作家の皆さまに、一連の「疑惑」を見てどう思うか意見を聞いてみたいものです。

さて、門田隆将グローバルクラブは、『康子十九歳 戦渦の日記』の検証作業を終えたのち、ほかの本も精読を進めていきました。すると門田氏が2010年4月に刊行した『この命、義に捧ぐ』(集英社)という戦記モノに、またまた大量の疑惑が見つかったのです。その数、なんと全115ブロック――。

文字数にして3万字を超える検証結果を、連載第7回からお伝えしていきます。ご期待ください。

連載第7回へ続く/文中・一部敬称略)

※情報提供はコチラまで → kadotaryusho911@gmail.com

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