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作家・門田隆将(門脇護)のモラルハザードを問う 第5回

■大宅壮一ノンフィクション賞ノミネート作にまつわる疑惑

作家・門田隆将氏は、出版界で最も権威がある賞のひとつ、大宅(おおや)壮一ノンフィクション賞に過去4回ノミネートされています(いずれも落選)。

▼2009年度(第40回大宅賞)
門田隆将『なぜ君は絶望と闘えたのか 本村洋の3300日』(新潮社)

▼2010年度(第41回大宅賞)
門田隆将『康子十九歳 戦渦の日記』(文藝春秋)

▼2013年度(第44回大宅賞)
門田隆将『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』(PHP研究所)(※2020年公開の映画「Fukushima 50」の原作)

▼2015年度(第46回大宅賞/雑誌部門)
門田隆将「朝日新聞『吉田調書』スクープは従軍慰安婦虚報と同じだ」(「週刊ポスト」2014年6月20日号)

連載第1回〜第4回でお伝えしたとおり、門田氏の著書『風にそよぐ墓標』には「巻末の参考文献リストに書名が掲示されていながら、文中にその文献の引用を示す但し書きがない」引き写し疑惑が全100ブロックもあります。ひょっとすると彼は、ほかの作品でも引用部分をカギカッコでくくることなく、自分の文章と混在させている可能性があるのかも……。そんな素朴な疑問をもちながら、大宅賞ノミネート作を読み進めてみました。門田氏の著書を読みつつ、巻末に掲示された参考文献を図書館で探し、両者を比較検証するという作業です。

緊急事態宣言にともなう「STAY HOME」のおかげで潤沢な時間があるので、地道に検証作業を進めてみました。するとまず、大宅賞ノミネート作『康子十九歳 戦渦の日記』(文藝春秋、2009年7月刊行)と参考文献に、多くの類似点が見つかったのです。その数は全30ブロックにのぼります。

『康子十九歳 戦渦の日記』は、原爆投下によって亡くなった広島市長・粟屋仙吉(あわや・せんきち)と、その娘・粟屋康子について綴った歴史モノです。それでは以下、疑惑をご紹介します。なお、これまでの連載で全100ブロックに及ぶ疑惑をご紹介したため、番号づけは「101」からスタートします。

■門田隆将氏の疑惑(101)〜(105)

以下にご紹介する「疑惑その101」の直前では、本文を2字下げに処理して文字のフォントをゴシック体に変え、粟屋康子の日記を長く引用しています(『康子十九歳 戦渦の日記』224〜227ページ)。

なのにその直後の「疑惑その101〜106」では、引用である旨、明記がありません。一部はブックデザインを工夫して「ここは日記の引用ですよ」と明確に示しているのに、ほかの箇所では門田隆将氏オリジナルの文章と渾然一体となっているのです。“毅然と生きた日本人”を描くことを作家としてのウリにしている彼の中で、いったいどういうルールが成立しているのか不思議でなりませんよね。

◆門田隆将氏の疑惑 その101

【津上毅一編『粟屋仙吉の人と信仰』】98ページ
八月二十日
 きょうで帰って来て三日め。次々のお見舞客にお悔みも言われ、説明をくり返す間に、父上の死はだんだん身についてきた。
【門田隆将『康子十九歳 戦渦の日記』】227ページ
 その日からお悔やみと見舞いに訪れる客たちの応対に忙殺されるようになる。
 康子は次々とやって来る見舞客にお悔やみを言われ、同じ説明を繰り返す間に、父・仙吉の死が、だんだん現実のものと受け入れられるようになった。

◆門田隆将氏の疑惑 その102

【津上毅一編『粟屋仙吉の人と信仰』】98ページ
 いろいろのお供え物を(作ったものは何でも上げている。今日はおうす、きなこのお菓子、コロッケ、ブラマンジロールケーキ、冷たいお水など)上げに行くたび、「さあお父さま、何々よ」といつもどおりににこにこして上げる。
【門田隆将『康子十九歳 戦渦の日記』】227~228ページ
 そして、毎朝、毎晩、いや何か事あるごとに、父の霊前にさまざまなものをお供えした。お供え物は、それこそ「あらゆるもの」であった。作ったものは、何でもお供えするのだ。今日は、おうす、きな粉の干菓子、コロッケ、ブラマンジュ、ロールケーキ……等々、だった。これらを供えるたびに、
「さあお父さま、……よ」
 と明るく笑顔で康子は父の写真に語りかけるのだ。


 お菓子の名前の列挙が、順番もまるっきりそのままですね。「さあお父さま、何々よ」は「さあお父さま、……よ」と、一部だけ表記が変えられています。

◆門田隆将氏の疑惑 その103

【津上毅一編『粟屋仙吉の人と信仰』】98ページ
 お父さまもにっこり笑って「やあ康ちゃんのごちそうだナ」とおっしゃるようだ。朝は「お早うございます」という。下げに行くときは、「おいしかった?」とほんとに生きていらっしゃるような気がしてくるのだ。そしてほんとに喜んでくださっているのが感じられるのだ。そう、確かに確かにお父さまは生きていらっしゃる。
【門田隆将『康子十九歳 戦渦の日記』】228ページ
 すると、不思議に、
「やあ、康ちゃんのごちそうだナ」
 と、父のにっこり笑う
ようすが思い浮かぶのである。朝は、
「おはようございます」
 また、下げにいく時は、
「おいしかった?」

 と語りかける康子。すると、父が本当にそこに生きているような気がしてならないのである。

◆門田隆将氏の疑惑 その104

【津上毅一編『粟屋仙吉の人と信仰』】98ページ
 お父さまの口の所へ持ってゆき「ハイ」と食べさせてみることもある。私とお父さまだけのだれも知らない世界!
【門田隆将『康子十九歳 戦渦の日記』】228ページ
 時には、そこに父がいるような思いがこみ上げてきて、口のあたりに、
「ハイ」
 と、食べさせてみることもある。

◆門田隆将氏の疑惑 その105

【津上毅一編『粟屋仙吉の人と信仰』】98〜99ページ
 おとといはお父様のお手紙を全部端から読んでみた。優しい優しい、おちゃめな、りっぱな、いちばん日本人らしい、厳格なお父さま。私はやはり幸せだった。こんなに私の胸に生きていられるお父さまは清浄なのだもの。
【門田隆将『康子十九歳 戦渦の日記』】228ページ
 一昨日は父の手紙を全部、ハシから読んでみた。やさしいやさしい、お茶目で、そして、立派な、一番日本人らしい厳格な父。私はやはり幸せだった。こんな清廉な父が、私の胸に生きている。そのこと自体がうれしいのである。

「優しい優しい、おちゃめな、りっぱな、いちばん日本人らしい」→「やさしいやさしい、お茶目で、そして、立派な、一番日本人らしい」と書き換え、「清浄」→「清廉」と書き換えていることがわかります。

■門田隆将氏の疑惑(106)〜(110)

◆門田隆将氏の疑惑 その106

【津上毅一編『粟屋仙吉の人と信仰』】99ページ
 そしてその夜はお父さまとまくらを並べて寝た。きのうはお父さまのジュバンを顔に当てて泣いた。お写真を抱き締めて歩いた。じっとひとりでいると気が違いそうだった。ジュバンにはいやというほどお父さまの香りがした。
【門田隆将『康子十九歳 戦渦の日記』】229ページ
 手紙を枕元に置いたまま、寝た。まるで父と枕を並べて寝ているような感覚になった。
 昨日はお父様のジュバンに頬をあてて泣いた。いやというほど、父の香りがした。たまらなくなって、いつの間にか写真を抱きしめていた。
 母や弟の消息はまだ知れない。いったい母は、そして忍は生きているのか。じっと一人でいると、康子は気がおかしくなりそうだった。

◆門田隆将氏の疑惑 その107

【津上毅一編『粟屋仙吉の人と信仰』】96ページ
 そういえば父はあの時は、何の前ぶれもなくヒョッコリやって来たのだった。みな喜ぶやらあわてるやらだった。
【門田隆将『康子十九歳 戦渦の日記』】218~219ページ
 あれは五カ月近く前の三月二十五日。父は突然、前ぶれもなく広島から帰ってきた。
(略)みな喜ぶやら慌てるやら、家中が大騒ぎになったものだった。

◆門田隆将氏の疑惑 その108

【津上毅一編『粟屋仙吉の人と信仰』】96ページ
 けれどやはり虫が知らせて別れに来たのかもしれない。
【門田隆将『康子十九歳 戦渦の日記』】219ページ
 父の滞在は三日だけだった。三月二十七日に、父は広島に帰っていった。
 しかし、いま考えると、あれは、虫が知らせたものではなかったのか。父が、わざわざ私たちに別れを告げるためにやってきたのではなかったのか。康子にはそう思えてならなかった。

◆門田隆将氏の疑惑 その109

【津上毅一編『粟屋仙吉の人と信仰』】96ページ
 五月に帰って来たときの最後の父を思い出す。「お互いに生死の境に生きているのだから、いつどんなことで死ぬかもわからない。今別れるのが最後だと思わなければいけないよ」と渋谷駅でしんみり話した父。
【門田隆将『康子十九歳 戦渦の日記』】219ページ
「ふたたび生きて会えるかどうかわからんぞ」
 その時の、父の言葉がなぜか思い出されて仕方なかった。
 見送りに行って渋谷駅で別れる時、珍しく父はしんみりとした。
「お互いに生死の境を生きているのだから、いつどんなことで死ぬかもわからない。いまここで別れるのが最後だと思わなければいけないよ……」
 自分に向かって諭すように言った父。その神妙な物言いに、

「渋谷駅でしんみり話した父」と「渋谷駅で別れる時、珍しく父はしんみりとした」が似通っていますし、父と子の会話を再現した様子もまるでソックリです。

◆門田隆将氏の疑惑 その110

【津上毅一編『粟屋仙吉の人と信仰』】96ページ
 「はい」と答えながらも、まさか――と笑って打ち消していた私の態度はなまぬるかった。
【門田隆将『康子十九歳 戦渦の日記』】219ページ
 康子は、思わず、
「はい」
 と、それを肯定するかのような返事をしてしまった。しかし、父の言っていることを深刻なものとは捉えず、まさかまさかと、すぐに笑って打ち消したものだった。

■門田隆将氏の疑惑(111)〜(115)

◆門田隆将氏の疑惑 その111

【津上毅一編『粟屋仙吉の人と信仰』】96ページ
 その後五月ごろの手紙にも、「お互いにしっかりやって日本人らしく生きましょう。勝利は疑いなしだ。けれどそれまでに倒れるかもしれぬ。そのときは一家天国で待ち合わすことにしようね」とあった。
【門田隆将『康子十九歳 戦渦の日記』】219ページ
 五月頃に来た手紙には、お互いにしっかりやって日本人らしく生きましょう。最終的な勝利は疑いなしだ。けれど、それまでに倒れるかもしれぬ。その時は一家、天国で待ち合わせしよう、とも書いてあった。

◆門田隆将氏の疑惑 その112

【津上毅一編『粟屋仙吉の人と信仰』】94ページ
 泣きながら次第々々に強くなってくるのを感じた。そうだ。私は強くならなければならぬ。幼い弟妹がいるんじゃないか。うんとうんと強くなろう。お父様、見ていてください。康子のこれからの生き方を。お父様のお教えどおり、お父様が期待してくださったであろうそのとおりに、強く正しく生き抜きます。
【門田隆将『康子十九歳 戦渦の日記』】220~221ページ
 康子は自分の気持ちが次第次第に、強くなって来るのを感じていた。
 そうだ。私は強くならなければならない。自分には、幼い弟や妹がいるではないか。うんとうんと強くなろう。お父さまの教え通り、お父さまが期待して下さったであろう、その通りに強く正しく生き抜こう。

 康子は、泣きながら、そう固く決意したのである。

いくらなんでも、表現がそのまんますぎませんでしょうか……。

看護師を務めていた粟屋康子は、広島での被爆によって1945年秋に亡くなってしまいました。本連載で紹介している日記は、生前の1945年に書かれたものです。原爆投下によって父親を突然亡くした直後、血涙したたる思いで綴ったであろう日記を引き写すにあたり、門田隆将氏の心の中に果たして「死者への敬意」「著者への敬意」というものは存在するのでしょうか……。

◆門田隆将氏の疑惑 その113

【朝野富三『昭和史ドキュメント ゴー・ストップ事件』】182~183ページ
 前日の八月五日は日曜だった。
(略)
 夕方から宴会が予定され、粟屋は出かけることになっていた。
 広島市内の二葉の里の騎兵第五連隊に置かれた第二総軍の参謀長になった松村秀一の着任披露のもので、司令官の畑俊六陸軍大将から招かれていて、断るわけにはいかなかったのである。
【門田隆将『康子十九歳 戦渦の日記』】193ページ
 前日の八月五日、粟屋仙吉市長は、本土決戦に備えて設立されていた第二総軍(司令部・広島市二葉の里)の畑俊六司令官(元帥)の招きを受け、七月に第二総軍参謀長に着任したばかりの岡崎清三郎中将の着任披露会に出席した。

細かい話ですが、参考文献の『昭和史ドキュメント ゴー・ストップ事件』では、「第二総軍参謀長=松村秀一」と書かれています。門田氏の『康子十九歳 戦渦の日記』では「第二総軍参謀長=岡崎清三郎」ということになっており、どちらが正確なのかはよくわかりません。

◆門田隆将氏の疑惑 その114

【朝野富三『昭和史ドキュメント ゴー・ストップ事件』】183ページ
 秘書係長の円山和正とともに午後六時に会場の偕行社に出向いた。
【門田隆将『康子十九歳 戦渦の日記』】194ページ
 秘書課秘書係長の圓山(まるやま)和正を伴って、粟屋が広島駅近くの司令部に赴いたのが午後六時。

◆門田隆将氏の疑惑 その115

【朝野富三『昭和史ドキュメント ゴー・ストップ事件』】184ページ
 二人が車で公舎に戻ったのは九時であった。玄関で粟屋は円山に「ご苦労でした」とねぎらいの短い言葉をかけ、円山は「明朝、八時にお迎えにまいります」と答えた。これが粟屋と交わす最後の言葉となろうとは思ってもみなかった。
【門田隆将『康子十九歳 戦渦の日記』】194ページ
 圓山秘書が粟屋を市長公舎に送り届けたのは、午後九時頃のことだった。「ご苦労でした」

(略)粟屋が圓山をそうねぎらうと、圓山はいつものように、
「明朝、お迎えにまいります」
 と答えた。まさかそれが粟屋との最後の会話になるとは、圓山は夢にも思わなかった。


「思ってもみなかった」を「夢にも思わなかった」に書き換えた形跡があったりするものの、このブロックもとてもよく似通っていますよね。

   *     *     *

以上、『康子十九歳 戦渦の日記』をめぐる疑惑を15ブロックご紹介しました。後半は連載第6回でお伝えしますね。

連載第6回へ続く/文中・一部敬称略)

※情報提供はコチラまで → kadotaryusho911@gmail.com

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