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作家・門田隆将(門脇護)のモラルハザードを問う 第7回

■「山本七平賞」受賞作に見つかった115件の疑惑

2010年、作家・門田隆将氏の著書『この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』(集英社)が評価され、「山本七平賞」(PHP研究所)を受賞しました。この賞の歴代受賞者を見ると、中西輝政(京都大学名誉教授)、半藤一利(作家)、李登輝(台湾総統)、福田和也(慶應義塾大学教授)、高橋洋一(菅義偉政権の内閣官房参与)、デービッド・アトキンソン(菅義偉政権の「成長戦略会議」委員)など、そうそうたる有識者の名前が並びます。

『この命、義に捧ぐ』は、日本陸軍中将・根本博について書いた歴史モノです。根本は1966年に死去していますし、なにしろ1940年代の話を取り上げるわけですから、直接取材できる当事者はそれほど多くないでしょう。遺族や親戚、友人・知人にあたるにしても限界があるでしょうから、おのずと文献からの引用が多くなるはずです。

ところが『この命、義に捧ぐ』をパラパラと一読すると、引用であることをカギカッコで明確に示さず、門田氏が書き下ろしたテイに見える箇所が散見されました。ひょっとすると『風にそよぐ墓標』(連載第1〜4回を参照)や『康子十九歳 戦渦の日記』(連載第5〜6回を参照)のみならず、本書にも疑惑があるかも……。

そんな素朴な疑問をもちながら、「山本七平賞」受賞作の本書を読み進めてみました。門田氏の著書を読みつつ、巻末に掲示された参考文献を図書館で探し、両者を比較検証するという地道な作業です。

すると驚くべきことに、次から次へと参考文献との類似点が見つかりました。その数、全115ブロック。書き出してみた対照表をプリントアウトするとA4用紙で25 ページ、文字数は3万3,000字を超えました。嗚呼、なんということでしょう……。

それでは以下、引き写し疑惑をご紹介します。なお、これまでの連載で全130ブロックに及ぶ疑惑をご紹介したため、番号づけは「131」からスタートします。「疑惑」はあまりにも膨大なため、1回の連載ではとても掲載しきれません。6回に分割してご紹介します。文字数が多いため、スマートフォンで読むのはちょっとキツイかもしれません。そんな方は、連載をプリントアウトして読んでみるのもいいと思います。

果たしてこれは、ノンフィクション作家の文章の書き方として適切と言えるのか。作家としてのモラルハザードではないのか。皆さんの目で確かめてみてください。

■門田隆将氏の疑惑(131)〜(135)

◆門田隆将氏の疑惑 その131

【根本博将軍回想録(「師と友」1972年5月号)】38ページ
 この日正午、天皇陛下の「ラジオ」御放送があるとのことで、正午前から張家口放送局につめかけて、御放送に引続き私の蒙疆全域に対する放送ができるやうに準備させた。正午の時報が終るや、正に間違ひのない玉音を私の耳に聴いた。
 愈々その日がきたのだ
、と思つて過去八年間の苦労や、居留日本人や部下軍隊の今後の始末などを考へると、先立つものは涙であり、張りつめてゐた気持もゆるみ勝ちになつてはくるが、しかし今ここで私が意気消沈してしまつたらば、居留民や部下の始末を誰がするのか?「しっかりしろ!」と自ら自分を励ましてマイクの前に立ち、
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】39〜40ページ
 根本陸軍中将の姿は、張家口の中心街にある張家口放送局の一室にあった。まわりには、根本が指揮する駐蒙軍司令部の幕僚たちがずらりと並んでいる。張家口には、駐蒙軍の司令部が置かれていたのだ。
「いよいよこの日が来た……」
(略)
 玉音放送を聴きながら、根本の脳裡に盧溝橋事件以来の過去八年の苦労や、これから在留邦人や部下の将兵が経験するであろう苦難についての思いがこみ上げてきた。
 また、陛下がこの放送をどのような思いでしているのかを思うと、根本の瞼(まぶた)の裏に自然と涙が滲んだ。これまで死んでいった先輩や部下たちの顔も、現われては消えた。
「しっかりしろ!」
 自分を叱咤しながら、根本は玉音放送を聴いていた。根本は、玉音放送のあと、この張家口放送局から蒙疆(もうきょう)全域に向かって、自ら放送をおこなうことになっていた。放送局にあらかじめその準備を命じていたのだ。

どうやら門田隆将氏は、根本博中将の古い回想録を参考に本を書いたようです。「放送ができるやうに」「間違ひのない」など旧字体で書かれた回想録と門田氏の本を読み比べると、驚くほど類似点が見られます。

◆門田隆将氏の疑惑 その132

【根本博将軍回想録(「師と友」1972年5月号)】38ページ
「日本は戦争に敗けて降伏することになつたとはいうても、私の部下将兵は健在である。私の命令のない限り、勝手に武器を棄てたり任務を放棄するやうな者は一人もゐないから、疆民及び邦人は決して騒ぐ必要はない。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】41ページ
 マイクの前に立った根本は、エ、エンと、癖になっている咳払いをひとつすると、深く息を吸い込んでこう語り始めた。
日本は戦争に敗れ、降伏いたしました。皆さんは今後のことを心配していると思います。しかし、わが部下将兵たちは、みな健在であります
 それは口調こそ穏やかなものの、断乎たる決意が漲(みなぎ)る声だった。
わが軍は、私の命令がないかぎり、勝手に武器を捨てたり、任務を放棄したりする者は一人もおりません。心を安んじてください。疆民および邦人は、決して心配したり騒いだりする必要はありません

◆門田隆将氏の疑惑 その133

【根本博将軍回想録(「師と友」1972年5月号)】38ページ
 私は上司の命令と国際法規によつて行動するが、わが部下及び疆民・邦人等の生命は私の身命を賭しても保護する覚悟であるから、軍の指導に信頼し、その指示に従つて行動されるやう切望する」旨放送した。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】41〜42ページ
 そして、根本はこう続けた。
「私は上司の命令と国際法規によって行動します。疆民、邦人、およびわが部下等の生命は、私が身命を賭して守り抜く覚悟です。皆さんには軍の指導を信頼し、その指示にしたがって行動されるよう、強く切望するものであります」

◆門田隆将氏の疑惑 その134

【根本博将軍回想録(「師と友」1972年5月号)】38ページ
 司令部に帰ると直ちに部下軍隊に対して
 「別命のあるまで依然その任務を続行すべきこと、もし命令によらず勝手に任務を放棄したり、守備地を離れたり、或は武装解除の要求を受諾した者は、軍律によつて厳重に処断すべきこと」を命令
し、
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】42ページ
 放送を終えた根本は、すぐに放送局から司令部に取って返し、今度はただちに全軍に対して、司令官としての絶対命令を下した。
「全軍は、別命があるまで、依然その任務を続行すべし」
 決意と威厳を漂わせて、根本はそう告げた。そして、
「もし……」
 と、語を継いで、根本はこうつづけた。
「命令によらず勝手に任務を放棄したり、守備地を離れたり、あるいは武装解除の要求を承諾したものは、軍律によって厳重に処断する」

◆門田隆将氏の疑惑 その135

【根本博将軍回想録(「師と友」1972年5月号)】38ページ
 特に○一陣地の守備隊に対しては、理由の如何を問はず、陣地に侵入するソ軍は断乎撃滅すべく、これに対する責任は一切司令官が負ふことを重ねて命令した。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】43ページ
 根本は、特にソ連軍主力と激突する〝丸一陣地〟の守備隊に対して、こう厳命した。
(略)
「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ連軍を断乎撃滅すべし。これに対する責任は、司令官たるこの根本が一切を負う」
 これまた根本自らの覚悟の命令だった。

参考文献と門田氏の本と、表現がよく似ているとは思いませんか。さらに5ブロックをご紹介します。

■門田隆将氏の疑惑(136)〜(140)

◆門田隆将氏の疑惑 その136

【根本博将軍回想録(「師と友」1972年5月号)】36~37ページ
 このとき偶然、関東軍の西正面を担当してゐる第三方面軍司令官が、その隷下兵団に対して哈爾賓―大連鉄道の線に総退却の命令を下してゐる無線電波を張家口の司令部で傍受した。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】44ページ
 駐蒙軍司令部は、この時、関東軍の西正面を担当している第三方面軍司令官が、配下の部隊に対して、「ハルピン―大連鉄道」の線まで総退却の命令を下している無線を傍受したのだ。

◆門田隆将氏の疑惑 その137

【根本博将軍回想録(「師と友」1972年5月号)】37ページ
 サア大変だ!
 寝耳に水とはこの事だ!
 いま熱河をガラ空きにされたら、支那派遣軍の背後はどうなるのだ!
 補給線はどうなるのだ!
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】44ページ
 それはまさに寝耳に水だった。
(略)
 根本をはじめ、幕僚たちは愕然としたのである。関東軍の西正面、すなわち熱河方面をガラ空きにされたら、支那派遣軍の背後はどうなるのか。補給線は、一体どうなるのだ。

根本博中将の手記では「寝耳に水とはこの事だ!」「いま熱河をガラ空きにされたら、支那派遣軍の背後はどうなるのだ!」「補給線はどうなるのだ!」と指揮官としての胸奥の叫びが率直に綴られているわけですが、それとソックリな表現が門田隆将氏の本の中に書きこまれていることがわかります。

◆門田隆将氏の疑惑 その138

【根本博将軍回想録(「師と友」1972年5月号)】37ページ
 私は早速熱河方面の関東軍の指揮官に対して、熱河の撤退は暫時待たれたい旨電報すると共に、北京の方面軍司令官及び南京の総司令官に対して、熱河の事態について至急関東軍と交渉されるやうに上申した。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】44~45ページ
 そんなことを、関東軍がわからないはずがない。根本は、さっそく熱河方面の関東軍の指揮官に対して、
「熱河の撤退は待たれたい」
 という電報を発すると共に、北京の
下村定(さだむ)・北支那方面軍司令官、さらに南京の岡村寧次(ねいじ)・支那派遣軍総司令官に対して、熱河の事態について至急、関東軍と交渉されたい旨、要請の緊急電を打った。

◆門田隆将氏の疑惑 その139

【根本博将軍回想録(「師と友」1972年5月号)】37ページ
 しかし私はこれで戦争の前途には見切りをつけた。関東軍が僅かに二、三日の戦闘で、国境からいきなり哈爾賓―大連鉄道の線まで吹き飛ばされるやうでは、モハヤ立ち直ることはできないのだ。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】45ページ
 だが、根本はこの時、戦争の前途に、見切りをつけた。わずか三日で関東軍が、いきなり〝ハルピン―大連鉄道〟の線まで吹っ飛ばされるようでは、もはや立ち直りは不可能だろう。

◆門田隆将氏の疑惑 その140

【根本博将軍回想録(「師と友」1972年5月号)】37ページ
 指揮官から「敵に与へた損傷は?」と問はれて、「良くは判りませんが、日暮れ頃まで戦線に倒れたまま動かない屍体らしいものは二百以上はありました」と答へ、斥候が敵の屍体からはづしてきた将校の肩章だというて、ポケットから金線いかめしい肩章を取り出して見せた。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】45ページ
 十三日の戦闘では、根本司令官のもとに、「ソ連軍が二百以上の屍体を残して退却した」という報告が来た。斥候が、敵の将校の金線いかめしい肩章まで剥ぎ取ってきたことも報告された。

■門田隆将氏の疑惑(141)〜(145)

◆門田隆将氏の疑惑 その141

【根本博将軍回想録(「師と友」1972年6月号)】30ページ
 しかしながらなかなか眠れはしない。冷酒をコップで二杯もあほつてみたが、頭はますますハッキリしてきて、とても眠れない。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】46ページ
 なかなか寝つけなかった根本は冷酒をコップで二杯あおった。しかし、頭がますます冴えてきて、とても眠れない。

ここまでソックリに引き写すのであれば、いっそ根本博中将の手記を全文引用して現代によみがえらせたほうがいいのでは、と思ってしまいます。

◆門田隆将氏の疑惑 その142

【根本博将軍回想録(「師と友」1972年6月号)】30ページ
 居留民が数年乃至十数年の苦労の結晶ともいふべき財産を棄てて、北京や天津に引き上げねばならないとなれば、彼らの財産にたいする執着、ひいては私にたいする怨恨も深いであらう。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】46ページ
 在留邦人たちは私たち軍の命令にどんな思いで従うだろうか。数年、あるいは十数年の苦労の結晶ともいうべき財産を棄てて、北京や天津に引き揚げなければならないとなれば、その苦悩は想像に余りある。財産に対する執着、それを棄てるよう要求する私たちに対する恨みも深いだろう。

◆門田隆将氏の疑惑 その143

【根本博将軍回想録(「師と友」1972年6月号)】30ページ
 また日本の降伏後も頑強にソ軍に抗戦したといふことも、問題にされるであらう。傅作儀は信用のできる男だが、その部下も皆その通りとは思はれない。万一、部下将兵が虐待されるやうなことが起つたらどうするのか?
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】46ページ
 また、日本の降伏後も頑強にソ連軍に抵抗したということも、問題になるに違いない。国府軍の傅作義(ふさくぎ)は信用のできる男だが、その部下も皆その通りとは思われない。万一、わが駐蒙軍の部下将兵が虐待されるような事態が起こったらどうするのか。

「傅作義」(ふさくぎ/フーツオーイー)というのは、戦時中に抗日戦争を戦った中国の軍人です(1974に死去)。根本博中将の回想録では「傅作儀」と表記していますが、門田隆将氏は「傅作義」と表記しています。人名辞典を見ると「傅作義」と記載されていますので、根本博中将が原稿執筆時に誤記したのかもしれません。

◆門田隆将氏の疑惑 その144

【根本博将軍回想録(「師と友」1972年6月号)】30ページ
 こんなことが頭の中をぐるぐる走馬燈のごとく回転して、何一つ割り切れるものはない。夜はほのぼのと明けかけてくる。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】46ページ
 さまざまなことが走馬灯のごとく頭の中をぐるぐるまわっていく。
(略)
 次々と懸念や不安が湧き起こって来る。そんなことをあれこれと考えていたら、夜がほのぼのと明けかけてきた。

「ぐるぐる回転」と「よるがほのぼとと明けかけてくる」という表現は、根本博中将の回想録では連続した記述です。どうやら門田隆将氏は、その記述をカット&ペイストして別の箇所に配置しているように見受けられます。

◆門田隆将氏の疑惑 その145

【根本博将軍回想録(「師と友」1972年6月号)】30ページ
 この時、生長の家の「生命の実相」といふ書物が枕頭にあつたので、何気なしに開いた所を読むと、禅門の高僧が猫を切つた話が書いてある。コレダ! コレダ! 一切の責任を身に引受けて腹を切ることだ! 万事はこれで解決するのだ!
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】46〜47ページ
 この時、枕もとの本棚にあった『生命の實相』という本が根本の眼に入った。宗教家の谷口雅春の手になる著作で、
(略)
 この時、眠れない根本はたまたま同書の「第九巻」を手に取った。偶然開いたのは、「第六章 南泉猫を斬る生活」というページだった。そこには、こんな「公案」(禅宗の修行者が悟りを開くために与えられる問題のこと)が紹介されていた。

■門田隆将氏の疑惑(146)〜(150)

◆門田隆将氏の疑惑 その146

【根本博将軍回想録(「師と友」1972年6月号)】31ページ
 昨夜撃退したソ軍は、今朝来、攻撃を再開し、対戦車壕を隔てて彼我銃砲戦を継続した。午後に至るや遂に敵戦車は対戦車壕を越えて陣内に殺到してきたが、勇敢なるわが歩兵の肉迫攻撃を受けて、遂に陣地を突破し得ずして退却した。陣前及び陣内に残したソ軍戦車の残骸は十五台に達した。この戦闘は昼間に行はれたため我が損害も多かつたが、歩兵師団先頭部隊の参加によつて、わが軍の志気はますます昂まつた。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】49ページ
 十五日、十六日のソ連軍の攻撃は特に激しかったが、駐蒙軍の抵抗によって、陣地を突破できず、退却していた。両軍の損耗は大きかったが、ソ連軍が戦車十五台の残骸を置いて退却したため、駐蒙軍の士気は高まっていた。

◆門田隆将氏の疑惑 その147

【根本博将軍回想録(「師と友」1972年6月号)】32ページ
 十七日、ソ軍飛行機は張家口及び○一陣地を空襲して、爆弾を投下すると共にビラを散布した。そのビラには、ワシリエフ元帥の名で「日本がすでに降伏したことは周知のことだ。関東軍もまた日本天皇の命令に服従して降伏したが、張家口方面の日本軍指揮官が天皇の命令に服従しないで戦闘をやつてゐるのは不思議なことだ。直ちに降伏せよ。もし降伏せずに今後なほ戦闘を継続したら、指揮官は戦争犯罪者として死刑に処する。」といふ意味のものだ。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】49ページ
 しかし、
「日本はすでに無条件降伏している。関東軍もまた日本天皇の命令に服従して降伏した。だが、張家口方面の日本指揮官だけが天皇の命令に服従せず、戦闘を続けているのは、まことに不思議である。直ちに降伏せよ。降伏しないならば、指揮官は戦争犯罪人として死刑に処する」
 張家口と丸一陣地に
飛来してきたソ連軍飛行機から、爆弾と共に、そんなビラが大量に散布されたのは、八月十七日のことである。ビラにはソ連軍の「ワシレフスキー元帥」の名が記されていた。

ソ連軍の飛行機から飛んできたビラに書いてあった文言は、門田隆将氏の本でもカギカッコでくくってはいます。ただし、門田氏がその文言をどの文献で参照したのかは、読者にはまるでわかりません。

◆門田隆将氏の疑惑 その148

【根本博将軍回想録(「師と友」1972年6月号)】32ページ
 この空襲後、○一陣地前に又もやソ軍の軍使がきて、ビラの内容とほぼ同様の申込みをしてきた。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】50ページ
 ビラを散布したのち、間髪を容(い)れずにソ連の軍使が丸一陣地前まで来て、ビラと同じ内容の申し込みをしていったことが司令部に報告されてきた。

◆門田隆将氏の疑惑 その149

【根本博将軍回想録(「師と友」1972年6月号)】32ページ
 軍参謀部では、「前方針通りソ軍の武装解除は拒否すべきだ」といふ意見と、「傅作儀軍の来着は見込みがないから、ソ軍の武装解除を受けても仕方がない。これ以上の戦闘を継続することは、無意味な犠牲者を出すのみならず、累は司令官の一身上に及ぶのだから、この辺でソ軍の要求を納れるべきだ」といふ意見とが対立して激論をやつてゐるとのことで、
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】50ページ
 参謀たちは激論を戦わせた。
「これまでの方針通りソ連軍への武装解除は拒否すべきである」
「傳作義軍の来着は見込みがない。これ以上の戦闘は、無意味な犠牲者を出すのみならず、累は司令官の身に及ぶ。ここまで来れば、ソ連軍による武装解除を受け入れても仕方がない」
 二つの意見が真っ向からぶつかり合い、両者とも一歩も引かなかった。

「疑惑143」でも触れたとおり、中国の軍人「傅作義」について根本博中将の回想録では「傅作儀」と表記していますが、門田隆将氏は「傅作義」と表記しています。繰り返しになりますが、これは根本中将が原稿執筆時に誤記したのかもしれません。

◆門田隆将氏の疑惑 その150

【根本博将軍回想録(「師と友」1972年6月号)】32ページ
「司令官も顔を出してほしい」と参謀長が言うてきた。そこで私は参謀全員を集めて、
次のやうに我が所信を説明した。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】50ページ
 もはや、参謀の意見を統一することは無理だった。
「司令官も顔を出していただければ……」
 参謀長が根本を呼びに来た
のを機に、根本はすべての参謀に集合を命じた。
 全参謀が会議室に集まった。

   *     *     *

ここまで、門田隆将著『この命、義に捧ぐ』をめぐる疑惑を20ブロックご紹介しました。続きは連載第8回でお伝えしますね。

連載第8回へ続く/文中・一部敬称略)

※情報提供はコチラまで → kadotaryusho911@gmail.com

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