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二度と「集中しよう」とは思わなくなったという話

先日読了した「ゼリンスキーの法則」に、禅とは「観ること、観ること、観ること」と書かれています。
そして禅とは「食事中に食事のことを考える、雑巾掛けの間には雑巾掛けのことを考える、つまり「今」を考えるということ」というのも繰り返して出てきます。
この「今」を考える訓練として、毎日一つの紙クリップを手に持ち、そのことだけを5分間考えるのを一ヶ月続けろとも。

同じく先日読了した「続ける技術」にも、作業をとにかく丁寧に、観察、分析しながらやること、それだけが満足できること、と書かれてます。

で、思ったんですけど、これ「集中」ってことだよなと。どちらもその言葉は使ってないけれど。
で、集中って私、できたなって記憶があんまりなくて。今までの人生で5回あるかどうかかもしんない。

でもこの二つの本が入ってる「観る、観察する、分析する」って、集中って言われるものじゃないかって。
つまり、「集中」って呼ばれてるものって、そういうことなんじゃ?

なんか「集中」っていうと神がかり的に、超サイヤ人的にブワーッとしたなんかすごい状態でそれ以外のことが気にならなくなるモード、そう、より深い状態としてゾーンとかいうし、ちょっと超能力的、超常的な状態って考えてたふし、私には、あると思ったんですよね。
今から思うと「宇宙の愛を感じる」とかその手のアレと同じくらい、不思議なそういう状態待ちだったような……

でも「観察、分析」なら、わかる。というか分析はむしろ得意。
「集中」という、やったことも実感もわかないことをやろうと試みるの、「りんごの中に意識を集中してりんごを転がそう」的な念動力を試みるのに近かったのかもしれない。

集中はわからないけど、観察、分析なら、どういう状態かわかる。そこに深く入るといわゆるシックスセンス的に、言語による考えをすっ飛ばして手が動くようになる、ていうのも、わかる。

「集中」って単語について今ネット辞書でいくつか検索してみたけども、こう。

  1. 一ヶ所ないしはごく限られた範囲集まること。

  2. 意識を特定の物事に傾けること。

なるほど、散らばってるビーズを寄せ集めるとかそういう意味の「集中」が最初の意味で、その雰囲気で意識を、あっちこっちしてる意識を集める、てことっぽい。
意識があっちこっちしてるのはいろんなところにむいてる注意や意識や警戒、そしてそのための観察を一箇所にまとめるってことだから、やっぱり「観察する対象を一つに絞る」という意訳でまとまりそう。
でもってじっくり観察するなら確かに音楽とかないほうがいいな。うん。

というわけで、私は二度と「集中する」とは言わず、「観察する」「分析する」と言い換えるようにしようと思ったという話です。
これからパジャマを畳むのでその作業工程を観察、分析してきます。



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