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毒親と世間体と前ならえ

(画像はいらすとや様よりお借りしました)

世間体ばかり気にする毒祖母

 私の毒祖母の好きなことを羅列してみる。

世間体を気にすること、楽なこと、無責任でいること、他人にマウントを取ること、他人の真似をすること、何も問題のない状態、無条件の称賛を受けること、特別扱いされること

 私の毒祖母は「他人に迷惑を掛けるな」が口癖であったという記事を書いたが、世間体も過剰に気にする彼女は、「“みんな”やっている」「“みんな”そうだから」も同じくよく口にしていた。要するに“みんな”と同じ前にならえ思考である。

 毒親とは基本的に無責任な人間であり、“みんな”と同じ様に振る舞えば、自分への責任を免れることができるからだ。自分の意思や軸を反映させた行動や発言は常に自己責任が伴い、毒親がもっとも忌み嫌うものである。具体的には、理想の実現のためにまっとうな努力すること、何事にも創意工夫を施すこと、少数派の思考を持つ/支持する/理解すること、誠意ある感謝/謝罪をすること、失敗しても自分で起ち上がることなどが挙げられる。
 毒祖母のような人間は、“みんな”と同じ人生を歩みながら上手く行かなければ、その“みんな”のせいにする生き方しかできないのだと私は思う。自己選択という責任を捨てて“みんな”と同じように前ならえしていた癖に、である。


「“みんな”が~」が口癖

「“みんな”結婚/出産してるから」
「“みんな”家を買っているから」
「“みんな”○○を好きだから」
「“みんな”そう言ってるから」
「“みんな”そうしているから」

 毒祖母の行動心理および今日までの人生とは、これだけでほぼ説明が付いてしまう。それほど彼女自身の意思による行動が見受けられず、他人本位かつ無責任な思考や言動ばかりなのだ。口喧嘩の際に都合が悪くなれば、「“みんな”もそうだから(私は悪くない)」「“みんな”がそう言っている(だから私は正しい)」「“みんな”が私を慕ってくれている」という毒祖母の発言(と憎たらしいドヤ顔)を思い出すが、いずれにしても明確な根拠が皆無である。「“みんな”が私を慕ってくれている」に至っては本来自分の口から言うことではないし、そもそも論になるが毒祖母が頻りに口にしていた“みんな”とは一体どこの誰を指していたのだろうか。論文や議論に例えれば、ソースがない理論および主張など採択されるはずがない。このような無責任な発言を繰り返した毒祖母は、まるで自分を正当化するために突拍子もない嘘を吐く幼い子供である。

 そんな毒祖母が“みんな”と前ならえ感覚で執り行ってきた結婚・出産・家の購入とは、まさに“責任の塊”であり、彼女のような子供じみた人間がまともに為せるはずがない。事実、彼女は何事においても肝心要なところで娘である私の母に責任を押し付け、“美味しいところ”だけを自分の手柄のごとく占有していた。


無責任毒親はどこまでも無責任

 毒祖母の年齢や時代背景を考慮すれば、“みんな”と前ならえで生きてきたのは仕方がないとも思えるし、そのような人は沢山いるだろう。ただ、そこまで“みんな”と足並みを揃えてきたんだから、その“みんな”の多くが利用している高齢者施設に入所して欲しいと願う私はワガママなのだろうか。最後だけ“みんな”と同じは嫌なんて都合が良すぎるし、毒祖母自身「自宅で息を引き取る」ための努力も何もしておらず、散々好き勝手してきた無責任のツケを他の家族に押し付けるのかって話だ。

 このような毒祖母の“悪足掻き”を見ながら、無責任な人間は死ぬまで無責任であり、最後の最後には責任を他人に転嫁しようとするのだとあらためて実感している次第だ。兎にも角にも不治の病ゆえに、それこそ高齢な“みんな”と前ならえよろしく一刻も早く天に召されて欲しいとしか思えない。

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