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短編小説「モテる」




 
 「今晩のご飯は、好物のハンバーグを作ってあげたのに」シンクで洗い物をしながら恨めしそうに女性は呟いた。玄関に向かう男性に向けての言葉であったが、視線は男性を追うことはない。「仕方ないだろ、急な仕事なんだもん。帰ってきたら食べるからラップでもしておいて」男性の服装は、普段の仕事に向かうものとは違って上質な私服であった。ここでいう上質という意味は勿論〝一張羅いっちょうら〟という意味である。女性は男性が仕事に行くという嘘をついていると感じているが、言及はしない。愛があるからこそである。「気をつけて行ってらっしゃい」女性の言葉を背で聞き流し、男性は家を出た。
 


 
 「どう?おいしい?」テーブルに並べられた数ある料理の中で、比較的食べられそうなグラタンを食べる男性に向かって、向かいに座る妙齢のお姉さんが聞いた。「絶品だよ」男性はグラタンの味により無意識に下がりそうになる口角を、理性で押し上げ笑顔で答えた。男性の反応に満足してか、お姉さんは上機嫌に、「今日は泊まっていくんでしょう?どんどん食べて頑張ってね」と、テーブルにある副菜に分類されるであろう小鉢なども勧めてきた。「ありがとう。でも、実はこれから用事があるんだよ」男性はこの後、お姉さんの強引な勧めをなんとか断り、ガールフレンドの待つアパートへ急いだ。時刻は既に11時をまわっていた。
 


 

 
 「何か食べる?」上着をハンガーに掛けている男性に向かって、ガールフレンドが聞く。男性は「いや、いらない」と、短く答えてからガールフレンドが座るソファの横に腰かけた。そして、「ついさっき、お姉さんに会ってきた」と神妙な面持ちで話しはじめた。「そう……、貴方からしっかりと伝えることはできたの?」ガールフレンドは男性の頭を撫でながら優しい声で質問した。「ごめん。やっぱり根はいい人だから僕からはどうしても言えそうにない」「でも、言わなきゃ駄目なことくらいわかってるでしょ?」「うん、君のお父さんに直接頼まれてることだからね——」二人の重苦しい会話に割って入るように、男性の電話が部屋に響く。ガールフレンドのお父さんから着信であった。


 
 
 
 「お父さんなんだって?」10分ほど続いた電話を終えた男性に向かってガールフレンドが心配そうに質問した。「社長——いや、お父さん今日は宿直のシフトで今食堂でご飯を食べ終わった所なんだって」男性は眉間に皺を寄せ、重苦しい表情でガールフレンドを一瞥してから続けた。「期待していた味の変化がなくて、いてもたってもいられなくて俺に電話してきたらしい。お父さんは、『姉弟だから言いやすいだろう』と、俺に食堂で働くお姉さんの料理の指摘を任せるけど、姉弟だからこそ言いにくいこともあるんだよな」人当たりの良い男性だからこそ任された過酷な業務。その業務に困惑する男性の姿を見てガールフレンドはやはり優しく頭を撫でるしかできなかった。
 


 
 時刻は日付が変わり、男性はガールフレンドのアパートの玄関で靴を履く。「泊まっていかないの?明日、ここから出勤すればいいじゃない?」ガールフレンドの魅力的な提案に対し男性は、「駄目だよ。家に帰って母さんのハンバーグが待ってるんだ。姉さんもお母さんに似れば良かったんだけどね」と、少し寂しそうに微笑んだ。



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