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【試し読み】『小説 劇場版モノノ怪 唐傘』冒頭特別公開!

2024年7月26日(金)より大ヒット公開中の『劇場版モノノ怪 唐傘』。
全三章のプロジェクトであること、そして『劇場版モノノ怪 第二章 火鼠』が2025年3月14日(金)に公開予定であることが明かされ、さらなる話題を呼んでいます。

反響が広がる中、角川文庫の関連書籍3作品も続々重版出来!
感謝の気持ちを込めて、3日連続で各作品の冒頭試し読み記事を特別公開します。

本日お届けするのは、監督監修の公式ノベライズ『小説 劇場版モノノ怪 唐傘』。
映画で語られなかった、主人公アサとカメのそれぞれの想いとは――。
物語のはじまりを、どうぞお楽しみください。

あらすじ

アサは文字書きの仕事にあこがれ大奥へやってきた優秀な新人女中。一方、同期のカメは仕事が不得意で先輩にいじめられてばかり。アサは彼女のお世話に追われるが、それでもカメといるときはからっぽな自分の中に何か豊かなものを感じることができるのだった。大奥では集団に染まるために、大切にしてきたものを捨てろという。自分の想いを殺すこと、それでも捨ててはいけないもの……。少女たちは悩み、そして――事件は起こる。様々な過去を背負い大奥にやってきた女中たち。大奥を舞台に繰り広げられる、彼女たちの情念がモノノ怪を生みだす――。そこに現れるのは、謎めいた薬売り。形、真、理が揃ったとき、薬売りの退魔の剣がモノノ怪を斬る!


『小説 劇場版モノノ怪 唐傘』試し読み



 坂に次ぐ坂、門に次ぐ門、一向に現れぬ奥の奥。
 日の本を統べるてんさまのおわすところ、しろほんまる殿てんへと向かう道のりは、人をして、蛇の腹に潜るようだ、という。
 いわく、城を囲む堀は大蛇のごとく、とぐろを巻いている。その中心に至るには、いくつもの門や坂を通り、曲がりくねった道を進まなければならない。百五十年と続く太平の世にあっては、無用の長物となったくるわの迷路である。
 この日、一人の娘が蛇の腹に飛び込んだ。名をアサという。歳は十七にして、しんしゆうまつもとまちぎようを父に持つ。故郷を出てから徒歩かちにて八日、長旅の果てにまず待ち受けていたのはすじかいばしもんだった。それから城下町を通り、ひとつばしもんをくぐって、すぐにひらかわもん。門を通るたび形ばかりの検問があり、次こそはと思えば、やはりまた門がある。
 しかし、アサが道に迷うことはなかった。というのも、大勢の通行人が、皆揃って同じ方へ進んでいるのだ。流れに身を任せていれば、やがては城にたどり着く。誰に聞いたわけでもないのに、アサは自然とそう確信して、前を歩く人の背中を追うことにしたのだった。
 御城のうちぐるわに入った後は、上下二つのばいりんもんを通る。それから塀に沿ってまっすぐ歩くと、右手にひろしきもんが現れた。それをくぐるやいなや、アサの足が止まる。目の前に広がった光景に、思わず、小さな吐息が漏れた。
「やっと着いた──」
 大奥。
 それは、天子様と正室であるだいさまの寝所である。諸役人が執務を行うおもて、天子様が公務をなさるなかおくと共に、御殿を分かつ三つ目の領分にして最奥。側室を含めた三千人もの奥女中が奉公するところ。
 アサは今日、その三千の内の一人となるべく、ここへ来た。
 ああ、ようやく●●●●
 つと言いようのない感慨が胸に押し寄せる。いや、誰だって、その堂々たる構えには驚くはずだ。蛇はこんなにも大きな屋敷をみ込んでいたのか、と。ややもすると、果てしがないかと思えるような道行こそ、終わりに現れる大奥の威光をいや増すべく、一役買っているのかもしれない。
 そしてなにより、えらい人出だった。大奥の数少ない通用口の一つ、「ななぐち」。普段は位の低い女中や下女の出入りに使われるほか、来客や商人しか訪れないと聞く。しかし、今日に限っては、老若男女がひしめき合っていた。街道沿いの目抜き通りと見まがうほどのにぎわいである。
「祝いの品はこっちで預かるから、順番に並んで!」
 ふと、門番を務める若侍の太い声が聞こえた。アサはすぐに得心がいく。そうか、この賑わいの理由はおおもちひき──御台様のご出産を祝う式事が近いためだ。
 長らくに恵まれなかった天子様に、ようやくできたお姫様。国中が喜び、贈り物が押し寄せるのも無理はない。
 そして、今度はすぐそばで、はつらつとした声が響いた。
「ここが大奥!」
 見ると、きやしやな体には不釣り合いなほどたくさんの荷物を背負った娘が立っている。新雪で磨いたような白い肌に、アサは自然と目を引かれた。
「くぅー、なんか高まるぅ!」
 往来の目も気にせず、子供のように伸びをしている。その拍子に背中の荷物が落ちて、彼女は慌てて拾い上げた。アサも包みを一つ拾い、手渡す。
 彼女は、ありがとう、と礼を返しつつも、気になるのはもっぱら包みの方らしい。砂を払って、息をつく。
「よかった、崩れてない」
 よほど大切なものだったのか。果たしてその中身は、と気を引かれていると、ふわん、とかぐわしい匂いが鼻先をくすぐる。甘くて、色っぽくて、香ばしい。これは──、
「わかる?」
 娘と目があって、頰がわずかに熱くなった。
「わからないけど、美味おいしいものかな」
 アサは気恥ずかしさを誤魔化すように答える。すると、彼女は目を輝かせた。
ほおのおにぎりなんだ! 分けてあげよっか?」
「……いいの?」
 アサが戸惑っている間に、彼女はさっそく包みをほどき、重箱に詰められていたおにぎりを一つ取り出していた。
「大奥でお世話になる方々に、って、おばあさまがいっぱい持たせてくださったの」
 てのひらで受け取ると、ほんのりと温かい。アサは思わず、おにぎりの香りを胸いっぱいに吸い込んだ。顔を上げると再び彼女と目があう。
「わたしも今日から大奥勤めです。アサといいます」
「えっ、あなたも? わたしは、カメっていいます!」
 今度は二人で笑みを交わす。
 すると不意に背後から、
「……なんとも、たまりませんね」
 そんなつぶやきが聞こえた。
「味噌と朴葉の……焦げた匂いが」
 ささやくようでいて、しかしこの雑踏の中でも妙に●●響く。慌てて振り向くと、立っていたのはやはり妙な●●男だった。
 一見して、優に六尺はあろうかという美丈夫。なりの二枚目と並んでも引けを取らない端整な顔立ちをしている。ただ、どうにも美しすぎる●●●●●。まるで、あまりによくできた人形を前にしているようで、どこか落ち着かない。
 一方、そんなアサの当惑をよそに、カメは熱っぽい目で男を見つめ、
「あの、もしよければ、おひとつ……いかがです?」
「そりゃ、ありがたい」
 男が微笑むと、カメの耳にさっと紅が差した。もはや、ひとつと言わず、全部渡してしまいそうな様子だ。
「あなたは、一体……」
 何者なのか。アサが思い切って尋ねようと思ったその矢先、「おーい、そこの二人」と声がかかる。あおひげの侍が一人、こちらに向かって歩いてきた。
「おアサとおカメか? 前評判通りのべっぴんだなぁ」
 彼はそばまでやってくると、改まった調子であいさつをする。
ひろしきばんさかしただ。大奥の門番として、この七つ口を警護している」
 アサはカメと共に「お世話になります」と頭を下げた。
 すると、坂下がカメの背負うしき包みに目を留める。
「ここまで、よくぞ運んできたものだな。おカメはどこの出だ」
です!」
 カメはこともなげにそう言うが、はこの関を越えて運んできたとは、信じがたいほどの荷物だった。
「そうだ、坂下様、よかったら」
 あつにとられる坂下を差し置いて、カメは包みを一つ解いた。重箱のふたを開けると、再び朴葉味噌の香りが立ち上る。
「おお、なんと、かぐわしい」
 坂下は鼻を鳴らしながら、ちらりとカメの顔をうかがった。
「わざわざ、わしのために……?」
 カメはきょとんとしているが、アサはどう声をかけたものかわからない。坂下の期待に満ちた目に水を差すのも、何となく気が引ける。
 しかし、機微を知ってか知らずか、そこにあの妙な男が割って入った。
「とっておきのれ薬、ご用意しましょうか」
 坂下は跳ねるように体を起こし、刀に手をかける。
「なんだお前は!」
「あっしは、ただのしがない薬売りでございます。お望みとあらば、どんなおなもいちころの、エゲレス産の惚れ薬を」
「いらんいらん! ったく、妙なやからだ。──いいか、おアサ、おカメ、こういうやつとは関わるなよ。ろくなことにならん」
 しかし、坂下の言葉など馬耳東風、カメは相変わらず薬売りに見とれている。もしも薬売りが惚れ薬を使っているのだとしたら、効き目は間違いないだろう。
「二人とも、道草を食っている場合ではないな」
 坂下に案内され、アサたちは七つ口の屋内に足を踏み入れた。すると、人の賑わいが輪をかけて増す。土間には御用商人が立ち並び、自慢の品を口八丁に売り込むが、さくを挟んで床に立つ奥女中たちは、抜け目ない表情で品定めをしている。かごいっぱいの野菜や反物、山と積まれた米俵が、次々ときんに姿を変えていた。大餅曳の祝いの品も、七つ口中央に位置する番台で次々と検分されて奥に運ばれていく。また、訪れるのは商人に限らず、書状を携えた役人や、柵越しに奥女中と語らう侍の姿も見えた。
 坂下は七つ口に入って右手にある大きな門の前までやってくると、
「念のため、手形を見せてくれ」
 と言った。アサは将棋の駒のような木札を取り出したが、これがなければ何人たりとも大奥に立ち入ることはできないのだ。カメは風呂敷から探し出すのにしばらく手間取っていたが、坂下は何も言わずに待っていた。そこばかりは、なあなあにしないのだろう。
 カメがようやく手形を出すと、坂下はうなずいた。
「この先はながつぼねむきだ。奥女中だけが入ることを許されている。最初が肝心だからな。うまくやるのだぞ」
 そのまっすぐな励ましは、アサの胸にすっと届いた。なるほど、確かにこの方は大奥の門番にふさわしいのかもしれない。
「向こうではあわしま殿とむぎたに殿が待っている。先輩方には、失礼のないようにな」
「はい、さっそくご挨拶に行ってきます」
 そう言ってアサが頭を下げる一方、カメは坂下に向かって無邪気に微笑みかけた。
「おにぎり、食べてくださいね」
 途端、坂下は形無しである。素知らぬ顔で「ありがとよ」と返したつもりだろうが、彼の鼻の下は伸びきっていた。アサも苦笑するほかない。
 と、その時、坂下の後ろを例の薬売りが通り過ぎる。
「おい、お前!」
「やはり……惚れ薬がご入用でしたか?」
「い、ら、ん!……よいか、大奥はお前のような者が来るところではない! ここは天子様のために集められた、女だけの場所なのだ。無断で通ろうものなら、即刻打ち首だぞ!」
「ほう、それでは、お許しを」
「手形が必要だと言っておろう! わしの一存で決まるものではない!」
「そこを、ひとつ」
「だから、できぬと何度言えば……」
 いざとなればひっ捕らえることもできるのだろうが、薬売りののらりくらりとした雰囲気に、坂下の方もいまいち怒りきれないらしい。それからしばらく、通せ、通さぬの問答が続いた。
「坂下様、薬売りさん、また今度~」
 そんな二人に向けて、カメが手を振ると、坂下はまただらしのない顔で手を振り返す。すると薬売りに失笑され、坂下はゆでだこのように顔を赤らめた。
「惚れ薬など、いらんからな!」
 意外とあの二人、馬が合うのかもしれない。
 アサがそんなことを思った時、不意に薬売りと目が合った。その瞬間、やはり妙な●●心地がする。七つ口がどこからか打ち寄せた静けさによって洗われ、音も色も香りも、全て持ち去られてしまったような。薬売りと自分が、ただ二人、空っぽの岸辺に立っているような。
 アサは薬売りをまっすぐに見つめ返し、そして、ようやく思い至った。
 あの人はわたしを見つめているのではない。
 わたしを透かした向こう側を見ているのではないか●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
「アサちゃん、行こう」
 気づけば、アサはカメに手を握られていた。誰かに手を握られることが久しかったからか、あるいは薬売りのまなざしに動揺していたからか、アサはいやに胸が鳴る。すると、遠ざかっていた七つ口のけんそうが、耳もとに戻ってきた。
 アサはもう振り返らない。カメと共に、長局向へとつながる門──果てしのない道のりの終わり、本当の本当に、最後の門をくぐったのだった。
 これより先は、三千人の女たちが働き、暮らす大奥。
 この国で一番大きな蛇の、腹の底である。


第一幕


 七つ口から廊下をしばらく進むと、大きな池が広がる中庭に出た。カメは欄干から身を乗り出して声をあげる。
「本当に海みたい!」
 口にこそしなかったが、内心、アサも同じことを考えていた。大奥を題材にしたどんな浮世絵にも、そこには決まって小さな海が描かれているものだ。まさか本当の海があるとは思っていなかったが、着物のすそを波頭がくすぐる、というような話に、夢を膨らませていたのは確かだろう。実際、敷地のほとんどは池で占められ、奥女中たちの暮らす長屋、すなわち長局向の多くは、水上に建てられている。それは、アサが思い描いていた光景よりも、よほどとぎばなしめいて見えた。
 それから、カメは大きく息を吸い込むと、
「いい匂い……」
 とつぶやく。言われてみると、きやの香りが周囲にうっすらと漂っていた。そのさりげなさに、まるでこの世は初めから、この甘美な香りに包まれていたような気さえしてくる。
「百五十年前、大奥が始まったときね、国中から集めた香木をぜーんぶ、池の中に放り込んじゃったんだって。だから、大奥ではいつも良い香りがするらしいの」
 おばあさまが言ってた、とカメは言う。
「海から吹く風が、ずっとこんな香りだったらいいのに」
「磯の匂いは嫌い?」
「うーん、嫌いではないけど、こっちの方が高まるかなって」
「さっきも言ってたけど、なあに、それ、高まるって」
「え? なんていうか……飛び跳ねたくなる感じ! わたし、生きてるぞ! って!」
 カメはそう言って、にこりと笑う。屈託のないその笑顔に、アサは自然と肩の力が抜ける。思わずつられて笑ってしまった。
「……わたしも、高まってきた」
 アサが言うと、カメはますますうれしそうに笑う。
 と、そこに向こうから人がやってきた。
「おアサさん、おカメさん、こちらへ。皆さまが祭壇でお待ちです」
 声をかけてきたのは、淡島のがただった。案内されるがまま、二人は長局向へと繫がる太鼓橋の手前で中庭におり、池を右手に石畳を進んだ。祭壇、と呼ばれているのは、中庭の端に作られた広場のことらしい。目についたのは、そこにそびえ立つ三角鳥居だった。
 近づくと、鳥居が巨大な縦穴を囲んでいるとわかる。穴は、差し渡し七間ほどはあるだろうか。釣瓶つるべがあってようやく、それが大きな井戸とわかった。その周りには水のめられたおけや水盤が無数に置かれている。
 その大井戸の前に、二人の女中が立っていた。その背後には、年端も行かぬ姉妹らしき二人の少女が控えている。他の奥女中たちは列をなし、口をつぐんで座っていた。物々しい雰囲気の中、祭壇中央に座らされ、アサは思わず身構えてしまう。隣をちらりと窺うと、カメも唇が真っ青になっていた。
「ごきげんよう」
 背の高い女中があいさつをすると、他の女中たちも一斉に「ごきげんよう」と唱和する。
 それから、かつぷくの良い女中がにこりとして、場を和ませるように付け加えた。
「ごきげんよう。こちらはつぎの淡島様、わたくしはひろしき頭の麦谷です」
「本日より、お世話になります、アサと申します」
「カメと申します。よろしくお願いいたします」
「二人とも、今日から頼みますよ」
 はい、とアサとカメの声が重なる。背の高い女中──淡島は微笑み、静かにうなずいた。
 やがて、二人の少女が水盤からしやくで水をみ、しずしずと傍までやってくる。そして、アサたちの前に置かれていた三角形のますに水を注ぎ入れた。
 それに合わせて、淡島が口を開く。
「お飲みなさい。大奥をお守りくださっているみずさまの水です。大奥で生きる女は皆、毎朝、この水を飲みます。御水様のご加護を得て、いつでも天子様のが産めるよう、備えるのです」
 御水様、とはつまり安産の守り神なのか。アサは大奥にこのような習慣があるとは聞いたことがなかったが、かといって新人に噓をついているわけでもないだろう。実際、周囲を取り囲む奥女中たちもまた、三角枡に入った水を飲み干している。
 麦谷が催促をするように、小さくうなずく。アサはおずおずと枡を手に取った。そして、息を止めて一気に飲む。
 水がのどを流れ落ちる瞬間、ぞわりとした。
 誰かに見られている?
 体の内をまさぐるようなまなざしを感じ、思わず周囲を見回すが、あの薬売りはいない。そもそも男子禁制の大奥に、男が立ち入れるはずはないのだけれど。
 アサは気を落ち着かせるために深く息を吐き出した。顔を上げたところで、淡島が言う。
「それから、お勤めを始める前に、もう一つ」
 やるべきことがあります、と。
 麦谷はアサとカメの荷物を指し、
「家から持ってきたもののうち、とりわけ大切なものを、この井戸にささげましょう」
 と微笑んだ。
 アサとカメがあつに取られていると、淡島が再び口を開く。
「わたし達は天子様に、身も、心も、捧げなければなりません。ここで、過去を断つのです」
 そんな、と腰を浮かしたカメを、アサは引き留める。周囲の奥女中たちからは、いぶかしむような視線が向けられるのを感じた。
 そこでカメは何を思ったか、突然しきを開くと、例の朴葉味噌のおにぎりが詰まった重箱を取り出した。
「あの……これはおばあさまが持たせてくれたものです。どうぞ皆さんで召し上がってください」
 カメが重箱を近くの奥女中に渡す。すると、受け取った奥女中は、目もくれずにそれを隣に受け渡した。
「えっ」
 重箱は次々に手渡され、やがては麦谷のもとへ。麦谷が淡島に箱の中身を見せると、淡島はそっとおにぎりを一つ取り出した。
「実に、よい香りです」
 カメの顔が喜びに輝いたのも束の間、淡島はおにぎりを箱に戻してしまう。
「大切なもの、捨てがたいもの……それは天子様へ向けるべき想いの居所を奪っています。過去を断ち、あなた方の全てを捧げるのです。それが大奥に生きるということ。お勤めということです」
 麦谷がおもむろに井戸の方へと近づいたかと思うと、箱ごとおにぎりを投げ捨てた。
 祭壇の井戸はどれほど深いのだろう。カメのおにぎりが水に落ちる音は聞こえない。
「これで、一つ覚悟が深まりましたね」
 そう言う淡島に、カメは返事すらできないようだった。その目からは、みるみる涙があふれ出す。
 淡島はそっとカメのもとに歩み寄ると、傍に置かれた荷物を見てため息を漏らした。
「こんなに沢山抱えていては、大奥ではやっていけませんよ」
 アサは思わず、カメをかばうように顔を上げた。
「これは、本当に必要なことなのでしょうか」
 すると、淡島は気分を害した様子もなく、
「ここにいる誰もが、通った道です」
 と言う。アサは自分の風呂敷を開くと、中身を出して地面に広げた。着物とわずかな化粧道具のほかは、手ぬぐいと小銭、墨と紙、それから筆とすずり、それだけだった。
「わたしが大奥でのお役目を頂けたのは、幼い頃より手習いに励んだ成果だと父に言われました。今までの自分がなければ、ここにはおりません。この筆も硯も、どうして捨てることができましょうか」
「……あなた、随分立派なことおっしゃるのね」
 アサは淡島としばし見つめ合う。
 と、不意に、アサはカメが井戸の前に立っていることに気づいた。カメは頭からくしを抜き取るが、遠目にもそれはでん細工の上等な品だとわかる。カメは独り言のように言った。
「おばあさまが、くれたんです。わたしが大奥にお勤めに上がると言ったら、これを挿していきなさいって。嫁入り道具よ、って」
「カメちゃん!」
 アサはとっさに立ち上がる。しかし、振り返ったカメの涙は、すでに乾いていた。
「アサちゃん、いいの。わたし……大奥で、上手うまくやっていかなくちゃならないし」
 アサが、待って、と言った時には、カメは櫛を井戸に投げ捨てていた。
 やがて、ぽちゃん、と。
 なぜか、聞こえるはずのない水音が、カメの想いが沈む音が、アサの耳に届いたような気がした。

    ■

「──あらわれた」
 しように腰掛けていた薬売りが、そうつぶやいた。
 隣で薬売りの背負っていたこうを眺めていた坂下は、ぎくりとする。
「なんだ、やぶから棒に」
「これから……雨が降りますよ」
「なにを馬鹿な。今日は雲一つないだろうに」
 坂下は一笑に付すが、微笑を浮かべる薬売りの言葉には、妙な迫力があった。
 うたぐりながらも、ちらりと門の外に目を向けると、ぽつり、ぽつり。
 やがて、矢のように雨が降り注いで、商人たちが七つ口に駆け込んでくる。
 雨の匂いをぎつけたか、日和ひよりから雲行きを聞き知っていたのか。いずれにせよ、実にさんくさい。
「いったい、いつまで居座るつもりだ。この大奥に、お前のような、どこの馬の骨ともわからんやつから薬を買う者などおらんぞ」
「しかし、坂下殿は興味がおありの様子」
 薬売りが横目に笑う。行李に気を取られていたことを、勘づいていたらしい。
「わしは門番として、怪しいやからの検分を──」
 がたがたがたっ!
 突然、薬売りの行李が揺れだした。危うく飛びだしそうになった悲鳴をこらえ、坂下は刀のつかに手を添える。
「お前! ここに何が入っている!」
 生きた獣か、あるいは……人か。大奥の長い歴史において、商人の行李に隠れて男が忍び込んだという事例は少なくない。ゆえに、坂下が勤める広敷番は七つ口を通るあらゆる人、ものに目を光らせる必要がある。
 しかし、坂下がいくらすごもうと、薬売りはまゆ一つ動かさなかった。やがて、ゆっくりと坂下を見つめ、こう言う。
「これは、あっしの……商売道具です」

    ■

 祭壇に雨が降り注いだ。まるで、カメの代わりに空が泣いているようだと、アサは思う。
 カメはしばらくの間、れるのもかまわず、櫛を捨てた井戸の中をじっと見つめていた。その背中にどんな言葉をかけたものか、アサは近寄ることさえできない。
「何をしている」
 振り返ると、祭壇の下に二人の奥女中が立っていた。一目見て、みえ以上の高位だとわかる。そのたたずまいには、自信に裏打ちされた堂々たるものがあった。
 周囲の女中たちだけではなく、あれほど尊大な立ち振る舞いをしていた淡島までもが、慌ててひれ伏す。
うたやま様! いらっしゃったのですか! おアサ、おカメ、こちらは総取締役、としよりの歌山様、そしてちゆうろうおおとも様です!」
 御年寄とは、大奥全体を差配するお役目。いわば、奥女中の頂だ。一方、御中﨟は天子様や御台様の世話役だが、天子様と床を共にするという務めもある。ごく限られた者だけが天子様に見初められ選ばれる、奥女中三千人のあこがれ──とは、アサの母の弁だった。それはおおよそ母が隠れ読むさくぼんから得た知識だろうが、あながち間違っていないのだろう。周りに控える奥女中たちの中にも、歌山にかしこまりながらも大友を盗み見ようとする者がちらほらといる。
 本日よりお世話になります、とアサとカメがあいさつをすると、それを遮るように、大友が一歩前に出た。
「淡島さん、随分熱心に指導されていたようですね」
 茶化すような響きに、淡島が顔を赤らめる。
「お勤めのための心構えができていないようでしたので……」
「身をささげる覚悟はできています」
 今度は淡島を遮るように、アサが口を挟む。言った後で、自分が思っていた以上に腹を立てていることに気づいた。自分がどう思われようとかまわないが、あのカメの涙を思い出すと、うなじがぎゅっと熱くなる。淡島にどれほどにらまれようが、引き下がる気はないぞ、と唇をんだ。
 しかし、そこでアサをとがめたのは歌山だった。
「大奥はわたしたちの想いを満たす場ではない」
「……どういうことでしょう」
「己の不満を人にぶつけるだけなら、赤子にもできよう。お前はただ、甘えているに過ぎぬ」
 再びアサのうなじが熱くなる。しかし、たびは恥ずかしさも相まっていた。
「歌山様に口答えをするなど!」
 と、たちまち鬼の首を取ったような声を上げる淡島。しかし、歌山はそれも制して続けた。
「自分の筋を通す前に、大奥に貢献してみせよ。お前もわたしも、そのためにいる」
「……はい」
 そして、妙なことを言った。
「役目をまつとうするうち、いずれ高くから見えるようになる。手放すことも苦ではなくなるだろう」
 手放す? と聞き返しそうになって、アサはなんとか口をつぐむ。歌山はその様子を見て、かすかに口の端を上げたように見えた。
「歌山様、参りましょう。表のお目付け役の方々を、あまりお待たせするわけにはまいりません」
 大友にうながされると、歌山はきびすを返し、長局向の方に去っていった。
 その背中を目で追っていると、不意に、アサの頭上に傘が差しかけられる。振り向くと、すぐ後ろにカメが立っていた。
「傘まで持ってきたの?」
 アサが苦笑すると、カメは「うん」と恥ずかしそうに笑い返した。そして、アサにだけ聞こえるような声で、「ありがとね」と言う。
「わたしは……」
 アサは続く言葉が見つからなかった。お礼なんて、言われるようなことはしていない。歌山の言う通り、自分はただ我慢ができなかっただけなのに。
「これから、一緒にがんばろうね」
 カメの無邪気な笑みが、かえって胸に刺さる。アサはかろうじてうなずき返すことしかできなかった。

    ■

 七つ口では、いつの間にか薬売りのこうが揺れるのを止めていた。しばらくは坂下も気を張っていたが、一向に変化がない。薬売りも、さきほど見せたあやしげな口ぶりはどこへやら、
「ところで坂下殿、このにぎわいは何のお祝いで?」
 などと尋ねてくる。
 この際、無視してもよかったのだろうが、坂下はどうにも気がはばかられた。こんなやからから目を離すわけにもいかない、と自分に言い聞かせ、仕方なく言葉を返す。
「……なんだ、おおもちひきのことも知らずに来たのか」
「あっしはただ、もうけ話の匂いがしたもので」
 まあ、それは間違ってはおらんが、と言いかけて坂下は慌ててせきばらいをする。
「いや、つまりだな、御台様が天子様のを出産されたのだ。そのお祝いを兼ねた、ありがたーい祭りだ」
「餅曳と言えば、ご出産の前に行うものでは」
「お前、それは……いろいろあったのだよ……」
 口ごもる坂下に、薬売りの目がちらりと光る。
「いろいろ、とは」
「お前のようなものに、話すと思うか!」
 がたがたっ!
「うわっ」
 だしぬけに行李が揺れ、坂下は思わず情けない声を上げた。行李はすぐ静かになるが、完全に出ばなをくじかれた感がある。
「余所者に言える限りのことを、ぜひに」
「……お前はここで油を売ってばかりでいいのか」
 坂下は何とか矛先を変えようと試みたが、薬売りはにやりと笑い、
「まだ、その時では、ありませんので」
 その顔には、答えなければ、ここから動かぬ、と書いてある。
 坂下は一つ大きなため息を吐き出すと、降参した。
「わしが知っているのは、下らぬ噂だ」
「ほほう」
「餅曳の準備をしているときに、見た●●という者がおったのだ。その……幽霊を」
 どこからか、かちり、と何かが歯を鳴らす音が聞こえた。

    ■

 ──わたしたち奥女中は、例外なく長局向で寝食いたします。ただし、その職位の上下によって、与えられた部屋には違いがあるのです。右手に見えるのがよんかわと呼ばれる区画です。ここは狭い上に相部屋で、新人女中のような最も位の低い者に与えられています。位が上がるにつれて、その隣のさんの側、の側と部屋が広くなり、左端のいちの側は一人に対して、六、七間、七十畳ほどの部屋を与えられているのです。
 ──そりゃあ、随分な格差だね。
 ──当然のことです。お役目の軽重にるものですから。四の側に住まう女中は、言ってしまえば替えのきくお勤め。実際、数年でここを去る者も少なくありません。対して一の側は、御年寄である歌山様のような方のためのものです。大奥になくてはならない方々のお部屋なのです。
 ──ふむ。それで、君は?
 ──はい?
 ──君は、どこで寝てるのかな、とね。よかったら、この後、部屋でお茶でも。
「おい、ひらもと
 ときさぶろうまるはさすがに黙っていられなかった。
「ここはとっくに大奥の中だ。控えろ」
 案内役の女中までからかうとは。平基、この男は女とみれば手当たり次第に声をかける。三郎丸とは同い年の腐れ縁で、何の因果か此度の仕事まで一緒になってしまった。ろうじゆうを中心に、諸大名からなるまつりごとの場──すなわち表より遣わされ、大奥に探りを入れるお目付け役。一世一代の大仕事を、平基と共に任されたのだ。この成果如何いかんでは、栄達の道も開けようというもの。はっきり言って、好色な相棒の介添えなど御免こうむりたかった。お偉方も、女ばかりの大奥にこのような男を送り込むとは、一体どういう魂胆なのか。
 ぶつぶつと不平を漏らす三郎丸に対し、平基は耳もとに顔を近づけると、ささやいた。
「もう少し力を抜いたらどうだ。行くところ行くところ、そんなに硬くなっていては、最後まで持たないぞ?」
「……!」
 三郎丸は危うく手が出かかるが、平基は気にも留めない。今度は庭の方を見つめて言う。
「ちょっと待て、三郎丸、美女の気配がする。あの二人、いい感じではないか?」
 嘆息交じりに三郎丸も目をやった。すると、中庭の祭壇で、傘もささずに二人の娘が立っていた。娘の一人が相対しているのは……
「あれは、歌山殿だな」
 平基がつぶやく。まさに、これから我々が会おうという相手だ。大奥における総取締役、そんな相手を前に、娘はひるまず何かを問うているようだった。
「『中々面白い娘だ、どれ、一つ部屋に遊びに行くとするか』」
 平基がけんしわをよせ、そう言って腕組みをする。つまり、これは三郎丸の猿真似だった。
「……これ以上ふざけるなら、貴様の通行手形を放り投げるぞ」
「おお、恐ろし。どうか、ご勘弁を」
 そうして、下らぬやりとりをしているうちに、案内役の女中が足を止めた。
「お部屋はこちらになりますが、歌山様はまもなくいらっしゃいますので……」
 と聞くが早いか、三郎丸はふすまを開き、部屋に立ち入る。
 なるほど、説明通りの広さだった。間口はそれほど広くないが、うなぎの寝床のように奥へと続いている。三郎丸は部屋のしつらえを眺めながら上段に上がり、それから歌山が使っているであろうづくえの前にどっかと腰を下ろした。
「そこは歌山様の席にございます!」
 女中が悲鳴のような声を上げるが、三郎丸は取り合わない。平基も下座に腰を下ろし、口を開かなかった。居ずまいを正して、にこりともしない。
 しばらくすると、ようやく待ち人が現れた。歌山は御中﨟の大友を引き連れ、部屋に入ってくる。女中を下がらせると、歌山はごく自然に下座へとついた。
「お待たせしてしまいましたかな」
 第一声も、実に落ち着いていた。三郎丸が一瞬平基に目をやると、小さな頷きが返ってくる。三郎丸は歌山の方に向き直り、言った。
「表より参った、時田三郎丸と申す。こちらは嵯峨平基」
 それから一拍を置いて、値踏みするような視線を隠すことなく、こう続ける。
「ふた月前、『おおもちひき』が延期になったな。その理由を聞きに来た」
 すると、歌山はぴくりとも表情を変えずに、
「報告書にある通りでございます」
「準備不足のため、だけではわからんだろう」
「わたしの力が至らず、申し訳ございません」
 歌山は深々と頭を下げる。三郎丸はその平身低頭に虚を突かれるが、代わりに平基が口を開いた。
「御台所は出産に苦労されたとのこと、しようすいしきっておられると伺った。それは、餅曳の儀が行えなかったからではないかという声もある」
「心得ております。ゆえに異例ではありますが、ご出産後に執り行うことにいたしました」
「では、疑い●●は晴れたと」
「おっしゃっている意味が、わかりません」
「いや、噂を小耳にはさんだもので。どうも、幽霊が出た、とか」
 そう言って、平基はじっと歌山を見つめた。しかし、歌山は「幽霊、ですか」とあいまいに微笑むばかり。平基は視線を外すことなく、続ける。
「こちらも、まさか信じちゃいない。ただ、物が無ければ影ささず、とも言う。そんな噂が立つということは、つまり、よからぬことがあったのでは、と」
「正体見たり枯れ尾花、とも言いましょう。つまらぬことを騒ぎ立てるのは、人のさがにございます」
 平基がうなる。しかしだな、と粘ろうとするが、その一瞬の躊躇ためらいをいて、歌山が言った。
「この件は、老中大友様に報告の上、大奥の中だけで処理するように言付かっております」
「大友様だと?」
 寝耳に水である。さすがに平基も苦り切った顔をしていた。
 そして、それまで息を潜めていた大友●●が、張り付けたような笑みを浮かべ、割って入った。
「大友家から大奥に出ております、ボタンと申します。父からは、時田様、嵯峨様に、どうぞよろしく、と」
 三郎丸は平基と目を合わせる。これはどういうことか。自分たちに下ったは、まさに老中から命じられたものとばかり思っていた。しかし、老中筆頭である大友は大奥のがわに付いているのか。あるいは、この大友ボタンのでまかせか。三郎丸は様々な疑念が浮かんでは消え、そのたびにじっとりとした汗が背中ににじむのを感じた。
 一方、平基は強い調子を崩さず、歌山をにらむ。
「我々の務めは、大奥を監督することだ。間違いがあれば、正さねばならん」
「正す…? 大奥は天子様のものです。分をわきまえられよ」
 それまで柔和だったまなざしが、不意に張り詰めた。まるで、談笑の最中、突然刀を抜いたかのようで、これには平基も言葉を失うほかない。
 とはいえ、三郎丸の判断は速かった。息をふぅと吐き出すと、
「申し訳ない。言葉が過ぎた。しかし、我々は大餅曳がつつがなく執り行われるか見届けるよう、表より遣わされている。それは大友様からも聞いておろう」
「無論です。しかし下世話なせんさくも、女中にむやみに声をかけることもお控えいただきたい」
 歌山の目が平基にくぎを刺している。
「ここは男子禁制の大奥。務めとはいえ、定めを破れば、誰であれ処罰されるのです」
 平基は首をすくめるしかないようだった。三郎丸は代わりにうなずき、
「肝に銘じよう」
 と言って立ち上がった。歌山はすかさず「案内を呼びましょうか」と尋ねてくるが、三郎丸は首を横に振る。
「結構。すでに我々の部屋は教えてもらった。寄り道をせずに帰ると約束しよう」

    ■

 二人の侍が部屋を出た後、歌山はゆっくりと立ち上がり、自分の席についた。すると、こらえていたものが爆発したかのように、大友が声を上げる。
「なんという方々! 上座に胡坐あぐらをかいた上に、あの物言い。いくらお目付け役とはいえ、許されることではありませんよ!」
 そう言われて、歌山は寸前のやり取りをはんすうし、思わずふっと笑みをこぼした。
「かわいいものではないか」
「かわいい……?」
「あれは彼らなりの虚勢だ。時田殿は根の真面目さが隠せていない。嵯峨殿の方が器用だが、器用な人間ほど、ずうずうしいふるまいには噓が出る」
 大友は歌山の言葉が信じられないのか、しばらくぜんとしていた。やがて、振り上げたこぶしをどこへ下ろしたらよいのやら、という様子で、大きなため息を漏らす。
「しかし、なぜそんなことを」
「こちらの出方を見たかったのだろう。威圧して我々が震えあがるとは、さすがに思ってはいまい。あるいは、自分たちには強く出るほどの後ろ盾がある、という風に見せたかったのかもしれぬが……その点は、そなたの方が一枚上手だったな。老中大友様からことづてなどと、よくもまあ平然と噓を吐く。彼らには、だいぶ効いていた」
「噓ではありませんよ。あの方々が何かするようなら、お父様に出ていただきます」
 その言い草に、歌山はほう、と少し気を引かれる。
「随分と高く買っているようだな。彼らにもできることがあると?」
「時田殿は、御中﨟のおフキさまの弟です。時田家は、今、勢いがありますから」
「何も変わらぬよ。我々は粛々と餅曳の準備を進めるだけだ」
「しかし、変に頑張られて、余計なことをされては困るでしょう。大友家のわたくしとしても、大友家の下にいらっしゃる歌山様におかれましても」
 含みのある言い方に、歌山は内心辟易とする。若さゆえか、この娘も、あの侍たちと変わらない。少しでも相手の上に立つことに必死なのだ。
 しかし、歌山はあきれなどおくびにも出さず、こう返した。
「彼らには、仕事をした気になってもらおうか」
 案内役を付けて大奥を回らせれば、それで気も済むだろう、と。すると大友は言う。
「あの二人に丸め込まれないような者を付けませんと。大奥を裏切ることのない者を」
「確かにな」
 歌山はそう言ってふと立ち上がり、廊下に面したふすまを開いた。
「歌山様……?」
 中庭には、相変わらず雨が降り続いている。ひと気のなくなった祭壇をひとしきり眺めると、歌山は振り向き、大友に告げた。
「案内役は、既にもう決めてある」

    ■

 祭壇での儀礼が終わった後、アサとカメは長局向をぐるりとめぐった。先導する麦谷は最低限の説明をするだけで、どんどんと先に進んでいく。こちらは歌山様や大友様のお部屋がある一の側です。こちらは淡島様のお部屋がある二の側、次は……。
 しかし、アサの頭でひたすら渦巻いていたのは、後悔の念だった。つまり、淡島や麦谷に盾突いたことは果たして正しかったのだろうか、という思いである。
 カメを思っての抗弁とはいえ、かえって彼女を悪目立ちする立場に追い込んでしまったのではないか。カメはむしろ、しきたりにきちんと従っていた。自分の口答えが不要な波風を立たせた、と言うこともできるだろう。
 大奥はわたしたちの想いを満たす場ではない。
 歌山の言葉を反芻するたびに、アサは腹の底がちかちかと燃えるような心地がする。
 隣を歩くカメは、周囲をしきりに見回していた。その様子は、あたかも初めて縁日の祭りに連れてこられた少女のようで、行き交う女中たちに忍び笑いされるほどだった。挙句の果てには、
「ねぇ、奥女中の方々がたくさんいる!」
 と、アサに耳打ちをする始末。
「カメちゃんも、その一人でしょ」
 アサが小声でそう返すと、カメは「高まる~!」と言って、ますます目を輝かせるのだ。
 しかし、長局向の中心を貫く大廊下に差し掛かった時、不意にカメが立ち止まった。表情もこわり、一点を見つめたまま動かなくなる。
 その視線の先にあったのは、ひときわ美しい打掛に身を包み、こちらに向かってくる三人の女中たちだった。
 麦谷もそれに気づくと、
「御中﨟の方々です。道をお譲りするように」
 と言って廊下の端に下がる。
 アサは黙って麦谷に倣うが、カメは雷に打たれたように廊下の真ん中に立ったままだった。
「あれが……」
「おカメさん!」
 麦谷が声を低めてとがめると、ようやくカメも我に返ったらしい。慌てて道を空ける。
 御中﨟の三人が近づくと、大奥全体に漂っていた例の甘い香りがぐっと強くなる気がした。周りの女中たちに聞かせるつもりなのか、一人の御中﨟が良く通る声で言う。
「天子様は、もうおフキ様にしかご興味のない様子。大友様も、とぎにはご縁がないようですから、時田家の勢いは増すばかり」
 すると、今度はもう一人が、
「わたしたちも、おフキ様を引き立てる添え花のよう。気まぐれに、摘んでいただきたいものです」
 とこたえる。そして、最後に聞こえたのは、一際自信に満ちた声音だった。
「天子様はまだつぼみの頃のわたくしに声をかけられました。皆さま方にもきっと──」
 おや、どうしたことか。不意に、御中﨟の言葉が途切れた。顔を伏せたままのアサには、御中﨟が目の前で足を止めたということしかわからない。
 しかし、すぐにその理由はわかった。
「おフキ様……ごきげんよう。なんと、お美しい……」
 隣からカメの声が聞こえたのだ。横目で様子をうかがうと、彼女は駆け寄るのを必死に我慢しているというような風情で、じっと御中﨟を見つめているではないか。
「ふふふ。ごきげんよう、新人さんかしら」
「はい、カメと申します!」
「これから、お勤めに励んでくださいな」
 はい! と、カメの口から飛び出したのは、大奥中に響き渡る大きな返事。アサはカメのそでを引っ張るが、彼女はますます前のめりになっていた。
 フキたちはそれからまた揃って歩み去っていく。カメはその背中をうっとりと見送っていたが、やがて麦谷の怒りに満ちたまなざしに気付いたのだろう。遅まきながら頭を下げたものの、敬意を示す相手は遠く離れていた。入れ替わりに麦谷がむっくりと頭を上げ、カメをにらむ。が、結局何を言うこともなく、彼女は歩き出した。
 アサは頭を下げたままのカメの肩に触れ、
「もう大丈夫だよ」
 と知らせる。顔を上げたカメはさすがにしおらしい表情をしているかと思いきや、
「わたし、御中﨟様と、お話ししちゃった!」
 とはじけるような笑顔を見せた。アサは苦笑するしかない。
 その時だった。不意に、うなじに冷たい水が滴った気がして、思わずぶるりと身震いする。ところが、手で首の後ろを探ってみると、れていない。
 アサはそれから、廊下の離れたところに、濡れそぼった女中を見た。傘もささずに雨に打たれていたような様子。何事かと目をこらしていると、
「アサちゃん」
 と、カメに呼びかけられた。その拍子に視線を外し、再び目をやった時には、女中の姿はなくなっていた。その代わり、どこからかまりが一つ、ぽーんと落ちてきて、廊下で跳ねると見えなくなる。
 アサは言葉を失い、カメに手を引かれてようやく、自分がこぶしを強く握りしめていたことに気づく。行こうよ、と言うカメに気の抜けた返事をし、歩き出したが、頭の中には相変わらず濡れた女と手毬の影が焼き付いていた。
 しばらくしてアサはふと思い立ち、たもとから帳面と矢立を取り出した。御次淡島様、御広座敷頭麦谷様、御年寄歌山様、御中﨟大友様、御中﨟おフキ様。大奥に来てから出会った方々の名前を書きつける。もとより頭には入っていたが、こうしてなじみの筆、なじみの帳面を手にして文字を書き連ねていると、段々と心が鎮まってくる。
 すると、カメが横から帳面をのぞき込んできた。
「アサちゃん、字が上手なのね」
 アサが微笑み返すと、カメの表情にもあんがにじむ。
 カメちゃんは、あの人、見えた?
 そんな質問がのどもとまで出かかるが、アサが口を開くよりも先に、麦谷の声が廊下に響いた。
「ここが、あなた方の部屋になります」
 気づけば、アサたちは大奥の端に来ていた。四の側、と呼ばれる棟である。目の前にある長屋の趣は、途中で見てきたものよりも質素で、アサは内心ほっとする。障子戸を開くと、そこは小さな土間になっており、かまが二つと、その隣に大きなみずがめ。他の調度品も、アサの家とほとんど変わらない。
 麦谷は中に入ろうとはせず、廊下に立ったまま言った。
「二人の身分はなかとなるので、寝泊まりはここの二階になります。あなたたちの最初の仕事は、日の出前にあさの用意をすることです。まずは四の側の五十人分の用意をしてもらいます。慣れたら百人分まで増やすので、そのつもりで」
「百人も……」
 カメが思わず不安を漏らすが、麦谷の耳はそれを聞き逃さない。麦谷の口から𠮟しつせきが飛び出す前に、アサは口を開いた。
「御仲居のお役目をいただくには、はじめに料理の腕を見ていただく必要があると聞いたことがありますが」
 すると、麦谷はちらりとアサの方を見て、けんしわを寄せる。
さいはいに、ご不満でも?」
「いえ、どんなお役目も務める所存ですが、大奥では色々なしきたり●●●●を重んじていると、先ほど教えていただきましたので」
「……ちょうど、他に人手の足りぬお役目がなかったのです。もしも、お務めを十分に果たせぬようなら、大奥を去っていただきます」
「承知いたしました」
 アサがすました顔で応えると、麦谷は小さく鼻を鳴らした。
「まずは奥女中としてふさわしいかつこうにお着がえなさい。服は二階に用意してあります。準備が終わったら、左隣の部屋に来るように。御仲居の先輩女中を待たせておきます。お務めについては、その者に尋ねるように」
 麦谷はそう言って立ち去ろうとするが、何を思ったかカメがそれを呼び止める。
「あの、麦谷様」
 麦谷は立ち止まり、しゆんじゆんの後に振り返った。
「何ですか」
すず廊下に行っても、よろしいでしょうか……」
 カメを見つめる麦谷はぜんとしていたが、やがて張り付けたような笑みを浮かべる。
「……どうしてかしら?」
 麦谷の声音がひどく優しいことが、かえって彼女が押し殺すいらちを感じさせる。しかし、カメはそれに気づかず、こう続けた。
「あの、天子様とお会いできるのは、御鈴廊下だけと聞いていたので」
「……おカメさん、天子様に御目見できるのは、御広座敷頭よりも上のお役目をいただいた方です。まずは自分のお務めに励みなさい」
「承知……いたしました……」
 頭を下げるカメの横顔には、明らかな落胆の色が見える。その上、麦谷はわざとらしく、「あ、そういえば」と言って付け足した。
「お二人のお家は旗本ではありませんよねぇ。そうなると、出世したところで、よくてすえがしら。その上のさんに上がることのできる者は滅多におりませんよ。御広座敷頭は、そのまた上になりますから……」
「そんな」
 カメの声音には悲痛な響きがある。麦谷は終始笑みを崩すことなく、「では」と言って立ち去った。
 アサは自分たちに割り当てられた二階の部屋に向かうが、つとカメに袖を引かれた。見れば、その顔はすっかり青ざめている。
「どうしよう、アサちゃん……わたし、天子様にお会いできないのかな……」
 アサは首を横に振る。
「麦谷様は激励してくださったの。難しくても、高い位についた人が全くいないわけじゃないでしょう。頑張れば、きっと大丈夫」
「でも、わたし、料理とかしたことない」
「先輩に教えてもらえるし、わたしも少しは経験があるから」
 心配しないで、と微笑みかけると、カメはなぜか顔を曇らせた。
「アサちゃん……お料理もできるの?」
「え?」
「字もすごく上手だから」
「苦手なこともたくさんあるよ」
「たとえば?」
「えっと……髪結い、とか」
「わたし、それは得意!」
「じゃあ、わたしはカメちゃんに料理を教えるから、カメちゃんは髪結いを教えて?」
「わかった!」
 カメはそう言って、今度は一足先に二階へと続く階段に足をかける。その跳ねるような足取りを追いながら、アサは胸の奥で、何かがちくり、とうずくのを感じた。

(気になる続きは、ぜひ本書でお楽しみください)


書誌情報

書名:小説 劇場版モノノ怪 唐傘
著者:新 八角
発売日:2024年06月13日
ISBN:9784041140901
定価:770円(本体700円+税)
ページ数:256ページ
判型:文庫判
レーベル:角川文庫

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