【巻末解説】『〔新訳〕 ジョニーは戦場へ行った』【解説:都甲幸治】
『ローマの休日』『黒い牡牛』『スパルタカス』……赤狩りによってハリウッドから追放されながら、数々の歴史的名作を生み出した稀代の脚本家、ダルトン・トランボ。彼が第二次世界大戦中に発表し、過激な反戦小説として波紋を呼んだ問題作が待望の新訳!
9月10日に発売された角川新書『〔新訳〕 ジョニーは戦場へ行った』より、巻末解説を特別公開します。
解説―蘇るトランボの遺志
都甲幸治(早稲田大学教授、アメリカ文学)
国家に利用される「英霊」たち
現代のアメリカ文学は常に戦争を描いてきた。20世紀に入ってからも、第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、そして湾岸戦争からイラク戦争と、大きなものだけでもアメリカは何度も戦ってきている。したがって、アメリカで書かれた文学が、多かれ少なかれ戦争を描くものであっても不思議はない。それは一見、戦争と全く関係ないような作品でもそうだ。よく探してみれば、戦争から戻ってきて心や体を病んだ者が何らかの形で登場している。
だが、そうした戦争に関連したアメリカ文学と一線を画するのが、このダルトン・トランボの『ジョニーは戦場へ行った』である。この小説のどこが他のものと違うのか。他の作品には、戦争へ行って生き残った者、あるいは死んだ者しか登場しない。ところがトランボの本作には、死にながら言葉で思考する力を保つ死者が登場する。それだけではない。彼は主人公として縦横無尽に語り続けるのだ。トランボはなぜこのような作品を構想したのか。
一言で言えば、死者たちがこれ以上、国家によって戦争に利用されるのを止めたい、というのがトランボの意図だろう。ドイツ生まれの歴史学者であるジョージ・L・モッセは『英霊 世界大戦の記憶の再構築』(1990)という、第一次世界大戦とその後を扱った著作でこう述べている。第一次世界大戦では、人類史上、経験したことのない1,300万人という膨大な人数の死者が出た。こうした未曾有の事態に直面した国家は、彼らの死を肯定的に意味づけ、むしろ自分たちのために利用する方法を編み出す必要があった。そうできなければ、国家の意思のもとにこれ以上の戦争を遂行することが不可能になってしまうからである。
したがって国家は、キリスト教的な殉教と復活という信仰の形に戦死者たちを当てはめた。そして、彼らの死は意義深い犠牲であるとみなした上で、彼らを英霊として崇め奉ることで、ナショナリズムという、近代国家を基礎づける宗教を強化できる、という道を見つけたのである。そのとき国家が利用したのは、戦争を否定する復員兵たちの考えではなく、むしろ自分たちの行動に肯定的な意義を見出そうとする復員兵たちの価値観であった。そして、戦争に悲惨さや残虐さを見ようとする人々の見方を切り捨てたのである。
モッセは言う。「戦争体験と戦死に直面して克服することから、近代戦争の飼い慣らしとでも呼べる事態が招来され、政治的・社会的な生活の自然な一面として近代戦争が受容されたのではなかったか」。こうして、死者たちの痛みや苦しみは組織的に忘却へ追いやられ、第一次世界大戦後、国家は何度も大規模な戦争を行うことができるようになった。
ヘミングウェイとフィッツジェラルドの戦争
これに対して、文学が手をこまねいていたわけではない。こうした国家による死者の利用を食い止めるべく、第一次世界大戦に直面したロスト・ジェネレーションの作家たちは、戦争に極めて批判的な作品を発表していった。たとえばその代表的な作品が、アーネスト・ヘミングウェイの『武器よさらば』(1929)である。
アメリカ人でありながら、イタリア戦線に参加することになった主人公は、戦争の悲惨さに心底嫌気がさす。そして、こんなことさえ口にするようになる。「栄光とか名誉とか、勇気とか神々しいとか、そういった抽象的な言葉は卑猥だ。それは、村の名前とか道路の番号とか、川の名前とか、部隊の番号とか日付といった具体的な言葉の横に置いてみればすぐにわかる。」さらに彼は勝手に講和条約を結んでしまい、戦線を離脱する。そして命からがらスイスに脱出するのだ。もっとも、戦争の暴力は彼を追ってきて、最後は恋人のキャサリンの命を奪うことになるのだが。
あるいは、F・スコット・フィッツジェラルドの名作『グレート・ギャツビー』(1925)はどうだろう。第一次世界大戦後、好景気に沸くニューヨーク郊外に突然、ギャツビーという名の大金持ちが現れ豪邸を建てる。そして、かつて別れた恋人デイジーと何とかよりを戻そうと奮闘するのだ。実はデイジーはトムという、これも大金持ちと結婚し、すでに子供さえいる。それでもギャツビーは諦めない。
実はギャツビーにはデイジーを取り戻したい理由があった。第一次世界大戦に参加したせいで、彼の人生はめちゃめちゃになってしまったのだ。友人のニックは言う。「ギャツビーは過去について能弁に語った。この男は何かを回復したがっているのだと、僕にもだんだんわかってきた。おそらくそれは彼という人間の理念のようなものだ。デイジーと恋に落ちることで、その理念は失われてしまった。彼の人生はその後混乱をきたし、秩序をなくしてしまった。しかしもう一度しかるべき出発点に戻って、すべてを注意深くやり直せば、きっと見いだせるはずだ。それがいかなるものであったかを……」。だが、その試みはうまくはいかない。
デイジーの浮気を嗅ぎつけたトムの差し金で二人は別れさせられ、その上、ギャツビーは見知らぬ人物に射殺される。生前はあれほど華やかだったのに、彼の葬式にはギャツビーの父親とニック、そしてもう一人の男性しか参列しない。そして彼は、ほとんど誰からも関心を持たれることなく、悲しく地中に埋められる。ニックは思う。「人はたとえ誰であれ、その人生の末期において誰かから親身な関心を寄せられてしかるべきだ」。だが、ニックのそうした想いが叶えられることはない。ギャツビーの死は、第一次世界大戦の塹壕における、兵士たちの泥濘の中での死を思い起こさせる。
死者に言葉を与えるために
ヘミングウェイの『武器よさらば』もフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』もともに、充分に反戦的な作品であると言えるだろう。しかし、トランボの立場からするとまだ足りない。『武器よさらば』では勝手に戦線を離脱する男の物語は、決断する一匹狼、というロマンチックなイメージに溢れている。一方ギャツビーは、追いかけても決して手が届かない崇高な女性というイメージを追い求め、その過程で死ぬという、これまたロマンチックな存在である。だからこそ、両作品は非常に強い魅力を持っているのだろう。だが、彼らの作品は結局、第一次世界大戦から生きて帰ってきた者たちの物語でしかない。ならば本当の意味で戦争に直面した者、すなわち死者は戦争をどうとらえたのだろうか。
こうした問いはナンセンスなものに見える。なぜなら誰もが知るように、「死人に口なし」だからだ。しかしだからこそ、国家は死者たちを自分たちの都合のいいように、いくらでも利用できたのではないか。そこでトランボが発明したのが、四肢を切断され、触覚以外の全ての感覚を失ってはいるものの、完全に思考する能力を保った主人公という、極めてトリッキーな存在である。本書の訳者あとがきでも触れられているように、これには実際のモデルがいた。だがこうした存在が何を思い、何を求めるか、という答えを与え、小説作品にまで練り上げたのは、トランボの大きな功績である。
トランボは本作を作り上げるために、主人公の意識の流れを綴るナレーションや、過去と現在を自由に行き来するフラッシュバック、そして若者たちの参戦を鼓舞する歌と出征の様子の描写を組み合わせていくモンタージュ、といった映画的な手法をふんだんに用いている。このあたりは、アカデミー賞受賞作である『ローマの休日』をはじめとした、多くの作品の脚本家として、押しも押されもせぬ存在であるトランボの面目躍如といったところだろう。そうして彼は、この本質的にはたった一つの病室で繰り広げられる極めて単調な物語を、充分に楽しんで読める作品へと転換できたのだ。
恋人を置いて、ヨーロッパの西部戦線にやってきたジョーは、塹壕の中で爆弾に吹き飛ばされる。やがて病室で気づいた彼は、自分の両手、両足が失われているだけでなく、感覚器官まで消滅していることに徐々に気づく。体の一つ一つのパーツをジョーが確認していくという展開に、読者はある種のサスペンスを感じるだろう。やがて現実に気づいたジョーは一度は絶望するが、皮膚から伝わる振動で看護師や医師を区別し、額で感じる暖かさで時間の経過を測るようになる。そしてついに、モールス信号に合わせて自分の頭部を動かすことで、意思の疎通にまで成功するのだ。返事は、指で額を叩いてもらえばいい。
ならばジョーは無事、社会に復帰することができたのか。ことはそれほど単純ではない。戦争の本質がわかる見世物として自分を公開してほしい、というジョーの希望を医師たちは却下する。それだけではない。彼とのあらゆる交流まで断ち切ってしまうのだ。なぜか。作品中でも述べられているように、彼の存在は国家によるあらゆる戦争イメージの操作をぶち壊してしまうからだ。チェコ・マサリク大学のアメリカ文化研究者、トマーシュ・ポスピーシュルは述べる。「生き残ったジョニーの変形した体は、王や民主主義、人類愛などのために大衆を動員して戦わせるための伝統的なレトリックを脅かす印となっている。」(Tomáš Pospíšil, “As Crippled As It Gets” 2012.)
そしてジョーは鎮静剤を打たれ、果てしない暗闇の中に戻っていった。だがそんな彼の姿を描いた本作『ジョニーは戦場へ行った』(1939)は、小説としての命を授けられ、第二次世界大戦開戦直後の時代に、人々に力強く語りかけることができた。しかも本書はその後、何度も蘇ることとなる。1971年には映画化され、カンヌ映画祭でグランプリを獲得して、ルイス・ブニュエルに激賞された。さらに1989年、国際的に著名なロックバンドであるメタリカは、本書を元に〈ワン〉という曲を作り、ミュージックビデオで本書の映画版をふんだんに引用した。
こうして、トランボの徹底して反戦的な意思は、時代を超えて、戦争の真実を暴こうとする人々を鼓舞し続けている。今回、新たな訳で日本語作品として本書が入手可能となったことを強く喜びたい。