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【試し読み】江戸時代、侍が生理用品開発に挑む!? 滝沢志郎『月花美人』刊行記念 第1章特別公開!

大注目の歴史時代作家・滝沢志郎さんの新作『月花美人』が7月26日(金)に刊行となります。これを記念して、大ボリュームの試し読みを実施!
本作は江戸時代後期、時代に盾突き、生理用品開発に立ち上がった侍の奮闘記です。笑いあり、涙あり、剣劇あり、恋模様ありの、エンタメ度満点の作品になりました。時代小説ファンの方にはもちろん、普段はあまり読まないという方にも、いま心からお勧めしたい作品です。
新鋭のここ一番の勝負作、是非お楽しみください!!


『月花美人』試し読み


序 章


 私のととさまは武士の鑑のような人でした。
 剣においては菜澄の地に並ぶ者とてなく、日々研鑽を怠らず、常に厳しく自分を律しておられました。卑怯なことを何よりも嫌う人でした。娘の私の目にも、武士の誇りが服を着て歩いているように見えたものです。
 そんなととさまが武士の風上にも置けぬ輩と罵られるようになったのは、あのようなものに関わったためです。
 女の身には月に一度、穢れが訪れます。血の穢れ。月経のことです。月役、月の穢れ、月のもの等、いろいろな呼び方がされますが、この菜澄の地では多くの人が「サヤネ」と呼んでいます。
「サヤネ」は私のととさまの名です。
 ととさまが作ったのは、月経を処置するための品物でした。それまで月経はぼろ布や古紙で処置されていましたが、新たに「それだけ」のために使えるものを作ったのです。
 月経を穢れとする世において、それは天地をひっくり返すも同然のことでした。ととさまのお仕事は、あまりにも早すぎたのかもしれません。
 今、ととさまを「義士」と称える人もいます。神仏のごとく崇める人もいます。それはそれで結構なこととは思いますが、ととさまはきっと、己に恥じない生き方をしようとしただけでありましょう。我孫子屋の壮介さんも、町医者の佐倉虎峰先生も、同じ思いだったはずです。
 あの日々のことは、今では思い出す人もほとんどおりません。
 ここに一冊の帳面があります。「佐倉虎峰日記」とでも名付けておきましょうか。先日、物置を片付けていたら出てきたものです。
 この日記には、あの日々のことが綴られていました。これを紐解きつつ、語ってまいりましょう。美しい菜澄湖に抱かれたこの地で、「革命」を志した人々の物語を。


第一章        サヤネに斬られる


 竹林は黄金色の朝靄の中にあった。
 そこへ静かに立つ、総髪の侍一匹。
 半眼で腰を沈め、刀の柄に手を掛けている。その身が竹そのものになったかのように、微動だにしない。
 不意に静寂を破ったのは、飛来した一羽の雀。竹の枝にとまり、楽しげに鳴き出した。
 侍は鞘から刀を抜き放った。黄金色の鋭利な光が、袈裟懸けに朝靄を切り裂く。
 侍は刀を逆手で鞘に納めた。
 雀はまだ鳴いている。
 竹が斜めにずれ、瑞々しい切り口を見せた。斬られたことにようやく気づいたかのように、竹は倒れはじめた。雀が驚いて飛び立つ。
 竹が地面に倒れるまで、侍は微動だにしない──つもりであった。だが、竹が地面を打つ音がいつまでも聞こえない。やむなく半眼を解くと、斬った竹はとなりの竹にしなだれかかり、中途半端に揺れていた。
 斬った竹を手で押してみる。倒れない。叩く。揺らす。それでも倒れない。
 放っておこうか。否、もしも娘がここを通ったときに倒れてきたら何としよう。
 数歩下がる。助走を始めたところで、不意に声をかけられた。
「ととさま」
 危うく脚がもつれるところを、すんでのところでこらえた。
「若葉、急に声を掛けるな」
「申し訳ござりませぬ。朝餉の支度ができましたゆえ、お呼びしに参りました」
 娘の若葉である。数えで十三歳。顔つきはまだ幼いが、武士の娘らしく、言葉遣いも所作も折り目正しい。落葉を踏む足音すら静かで、近づく気配を感じさせなかった。
「すぐに参る」
 侍は威儀を正して若葉のもとに向かった。
「……ととさま!」
 若葉が突然声をあげた。その目は父の頭上を見ている。
 侍は落ち着いていた。
「さがれ、若葉!」
 腰を落とし、柄に手をかける。気配を読み、呼吸を整え、振り向きざまに抜刀する。
「ほうっ……!」
 鋭い気合。抜刀の勢いそのままに、頭上を薙ぎ払う。
 両断された竹が地面を打ち、跳ね上がる。竹はしばし暴れた後、横たわった。
 ふう、と一息つくと、侍は血振りをして刀身のわずかな露を払った。風が竹林を静かに渡っていく。
 奇妙な音が鳴っていた。梵鐘の残響のような、微かな音。鞘から小さな振動が伝わってくる。三味線の弦を弾くと、棹が震える。同じように鞘が震えているのだ。侍が刀を納めると、鞘の鳴りはぴたりとおさまった。
 鞘音。
 抜刀の勢いの凄まじさに、鞘が鳴る。その音の美しさにちなみ、彼は師匠からその名を賜っていた。
「若葉、さがれと言ったではないか」
 望月鞘音は娘を叱った。
「申し訳ござりませぬ。横に避けたほうが早いと思いましたゆえ」
 若葉は冷静に、身を守るための最短の方法をとっていた。私よりよほど落ち着いているな、と鞘音は苦笑する。とりあえず、竹に飛び蹴りを入れる姿を見られなくてよかった。三十路の男が見られるには、いささかみっともない姿であろう。
「さて、帰るか」
「はい、ととさま」
 このように呼ばれているが、二人は去年まで叔父と姪であった。鞘音の兄夫婦が流行り病で不意に身罷ったため、遺された若葉を鞘音が養女にしたのである。
 鞘音は薪を満載した背負子を担ぎ上げた。勢いよく担ぎすぎて、薪が何本かこぼれ落ちる。
 若葉が無言でそれを拾った。拾って胸に抱えたまま、どうしたものかと迷っている様子である。
「ほれ」
 鞘音は若葉に背負子を向けた。若葉はややためらってから、拾った薪を背負子に差し込んだ。
 ──まだ遠慮しておるのだな。
 表情に乏しい若葉の顔を見て、鞘音は思う。幼い頃から、妙に落ち着きのある娘ではあった。それが両親を喪って以来、さらに口数が少なくなってしまった。
 女は愛嬌というから、これでは婿探しにも難渋するやもしれぬ。
 そこまで考えて、鞘音は内心で苦笑した。いささか気が早い。まだ数えで十三歳。早くてもあと二、三年は先のことだ。
 鞘音は後からついてくる若葉を見やった。若葉は一本だけ手に残した柴の小枝で、戯れに草を薙いでいる。子供っぽい仕草に、鞘音はどこか安堵した。
 そう、若葉はまだまだ子供のはずであった。

 菜澄は豊穣な田園地帯である。
 遠い昔、千葉氏が支配した頃の下総の地には、広大な香取海が葉脈のように入り組んで横たわっていた。その南の一角にあったのが「なづみ(泥み)浦」である。一帯には湿地が広がっていたという。
 およそ二百年前、利根川の東遷事業に伴って周辺が干拓整備され、なづみ浦は淡水の菜澄湖に生まれ変わった。「なづみ」が「なすみ」と改称されたのは、濁りを嫌ったためだという。菜の字が当てられたのは、菜種油の産地だからである。春には菜の花、秋には稲穂と、菜澄の野は年に二度、黄金色に染まる。
 菜澄が擁する利根川には北国からの船が、成田街道には成田山への参詣客が行き交う。江戸からの道のりは、わずかに一日半。菜澄は交通の要衝でもあった。
 鞘音と若葉は一汁一菜の朝餉をいただくと、出かける支度をした。
 二人は小高い丘の上に一軒だけ建つ粗末な家に二人暮らしである。庭からは麓の村と田畑、土手の向こうにきらめく菜澄湖が見渡せた。湖の対岸は台地になっており、その頂には菜澄城天守閣が威容を見せている。二人の住む村は、湖越しに御城と向き合っているためであろうが、向村という簡単な名前で呼ばれていた。
 二人はこれから、菜澄の城下町に出かける。
 鞘音は大きな行李を背負った。若葉は鞘音がつくった小さな行李を背負う。
 外に出ると、鞘音は伸びをした。
「良い天気だのう」
 若葉の気分を引き立てるために、あえて明るい声を出す。
「はい」と若葉は短く返事をした。その視線が鞘音の右腕に注がれている。伸びをしたときに袖がずり下がったのだ。
 鞘音の右腕には、三寸にも渡る傷痕があった。ちょうど籠手の位置である。昨年、若葉の両親が亡くなったという知らせを受けて西国から帰る途次、箱根峠で追い剥ぎに襲われた際の傷だった。五人の敵のうち三人に手傷を負わせ、ようやく囲みを切り抜けたとき、はじめて自分も負傷していることに気付いた。思いのほか深手で、菜澄に帰ったときもまだ右腕を吊った状態であった。
「この傷が気になるか?」
「いいえ、失礼いたしました」
「ほれ、ちいとも痛まぬぞ」
 鞘音は腕を振ってみせた。若干ひきつるような感覚はあったが、剣を振るうのに支障はない。
「ようござりました」
 若葉は少し笑顔を見せた。
 村の集落を通る。年貢を無事に納め、一息つく時節である。しばらく村人は農閑期の副業で日々を暮らす。江戸へ出稼ぎに行く者もいるであろう。村人の多くは屋内で仕事をしているのか、人の気配が濃いわりに、表に出ている者は少なかった。
 鞘音は安堵した。嫌い合っているわけではないが、村人とは疎遠であった。丘の上の武士の夫婦が死んで、今度は得体の知れない侍が住み着いた。そう訝しく思われているに違いない。城仕えしていない郷士の身を恥じてはいないつもりだが、多少卑屈にはなっているのかもしれない。
 若葉と同じ年頃の娘たちが、遠巻きに見ている。若葉は視線を落として通り過ぎた。
 ずっとこのままというわけにもいくまいが──村人とのつきあいがうまくいっていないことは、鞘音のちょっとした悩みであった。
 集落の出口のあたりに、大柄な托鉢僧がいた。和讃を唱えている。

 帰命頂礼血盆経 女人の悪業深きゆえ 御説き給う慈悲の海 渡る苦海の有様は 月に七日の月水と 産するときの大悪血 神や仏を穢すゆえ おのずと罰を受くるなり

「血盆経」という経典を和語(日本語)で讃える歌だった。女人を救済する教えとしか、鞘音は知らない。菜澄には清泉寺という血盆経の聖地があり、亡き母も帰依していた覚えがある。
 托鉢僧は鞘音と若葉を見ると和讃を止めた。
「やあ、鞘音どの、若葉どの。御城下に行かれるのか」
 声が大きい。僧名を宗月といい、清泉寺で修行した僧である。この村には清泉寺の末寺があり、その方丈(住職)として、一昨年に村に移り住んだ。鞘音たちにとって、数少ないこの村の知人である。
「さよう、御城下に参ります」
「壮介のところか」
 城下に住む、紙問屋の若旦那である。宗月の弟であった。
「そのとおりにござる」
「あやつはよくやっているかね」
 僧侶にしては言葉遣いが俗っぽい。その気取りのなさも含めて、菜澄では敬愛されているらしい。いずれは清泉寺の住職になるだろうという評判であった。
「まあ、よくやっているものと存じます」
 宗月の弟・壮介は、鞘音の幼馴染である。どちらかといえば放蕩息子と噂されている。嫁も取らず、しょっちゅう利根川をさかのぼっては江戸で吉原通いをしていると、まことしやかに囁かれていた。
「それは結構」
 と言いつつ、宗月はあまり信じていない様子である。
「若葉どの、叔父上と一緒に御城下に行けて、よかったのう」
「叔父ではなく、今は義父にござります」
「ああ、そうであったな。これは失礼。ぐわっはっは」
 若葉の表情が和らいでいる。若葉にとって宗月方丈は、この村で唯一とも言える心を開ける相手であった。両親が亡くなったときも、何かと心強かったようである。
 宗月は合掌し、ふたたび血盆経和讃を唱えはじめた。俗世での縁は切ったということなのか、弟によろしくとも言わない。これまでもずっとそうであった。出家する際、実家と色々あったとも鞘音は聞いていた。

又その悪血が地に触れて 積り積りて池となる 深さは四万余旬なり 広さも四万余旬なり 八万余旬の血の池は みずから作りし地獄ゆえ ひとたび女人と生まれては 貴賤上下の隔てなく 皆この地獄に堕つるなり……

 鞘音と若葉は畦道を歩いている。稲刈りが終わり、そろそろ田に菜種を蒔く季節であろうか。田植えの季節には菜澄の空を映す水田も、今は乾いていた。
 土手を越えると、眼下に光る菜澄湖があった。薄の穂が波打つ湖岸を通り過ぎ、渡し場に出る。
 船頭が桟橋に腰掛けて、退屈そうに煙管を吸っていた。
「やってくれるか」
 鞘音と若葉は、向村と城下町を頻繁に往復する。さすがに船頭とはそれなりに気安い関係であった。
 船頭は煙管を叩いて灰を落とした。
「あと二、三人は乗せたいんですがね」
「村を通ってきたが、誰も来る様子はないぞ」
 船頭はやれやれといった態で腰を上げた。
「乗っておくんなさい」
 二人が乗り込むと、葦を押しのけるように舟が動き出した。湖水からは川骨や菱の葉も顔を出している。若葉が手を伸ばして葉をつついた。
 帆が上がり、舟は湖面を静かに波立てて進んでいく。この渡し舟のほかにも、湖には大小の帆掛け舟の姿があった。鯉や鮒を捕っているのだろう。朝の陽を受ける水面には、鴨の群れも泳いでいる。若葉に鴨鍋でも食わせてやりたいものだと、鞘音は思った。
 舟は湖を横断し、菜澄川に入った。菜澄川は菜澄湖に流れ込む川で、御城の外堀を兼ねている。天守閣を左に見て回り込む。城も城下町も、馬の胴体のように細長い台地の上にある。天守閣を頭として、城下町は背中にあたる。鞘音たちは尻尾の位置から上陸した。
 鞘音と若葉は坂をのぼり、馬の背骨にあたる通りに出た。菜澄城下を貫く大通りである。
 間口の狭い店が軒を連ねる中を、鞘音と若葉はひたすら歩いた。
「しんどくなったら、すぐに言いなさい」
 村に比べると、やはり街の空気は埃っぽい。風が吹けば土埃が舞いあがる。亡き兄夫婦は、哮喘(喘息)持ちの若葉のために、城下から空気の良い向村に移住したのである。
「わかっております。お気遣いは無用です」
 うるさがられてしまったようだ。表情にこそ出さないが、口調にかすかな苛立ちを感じる。こうして観察されることも、おそらく煩わしいのだろう。
 若い娘の一群が対面から歩いてきた。広い道なので、譲り合う必要もなくすれ違う。そのとき、鞘音の耳に奇妙な言葉が飛び込んできた。
「サヤネに斬られた」
 ──なんと?
 鞘音は思わず立ち止まった。若葉も無言で娘たちを振り返っている。
 サヤネ。鞘音。同名の何者かがいるのだろうか。いささか気取った名乗りだが、これまで同名の人物に会ったことは一度もない。ひとつ言えるのは、この菜澄で人を斬ったことなど一度もないということである。
 気がつくと、若葉が真面目な顔で鞘音を見上げていた。
「……私のことではない」
「若葉もそう思います」
 二人は再び歩き出した。

 大通りの店の間口がことごとく狭いのは、菜澄では間口の広さによって運上(税金)が課されているためである。そのかわり奥行きの長い店が多く、見本のような鰻の寝床が道沿いに連なっている。
 二人は一軒の店に向かった。「よろすかみ」と大書された看板が二人を迎える。「萬紙」。紙問屋である。屋号は我孫子屋であった。
「御免」
 雛芥子の家紋を染めた暖簾をくぐると、紙の匂いが鼻をつく。今日は湿気を吸っているようだ。上がり框に腰掛けると、天井まで積まれた紙の束が奥に見えた。
「やあ、源吾……いや失礼、鞘音どの」
 初老の男が気安く声をかけてきた。我孫子屋の当主、五代目壮右衛門である。源吾というのは鞘音の昔の名乗りである。子供の頃から鞘音を知っている人であった。
「あら、鞘音さま」
 こちらは壮右衛門の後妻の梅。後妻といっても、鞘音が物心ついたときには我孫子屋のおかみさんだったので、もう三十年近く連れ添っているはずである。宗月と弟の壮介は亡き前妻の子なので、お梅とは血がつながっていない。商家のおかみさんらしく、おおらかで気っ風のよい人であった。
 番頭の与三が茶を出してくれた。菓子まで付けてくれたのは、若葉のためであろう。若葉の父、鞘音にとっては兄の信右衛門の代から、この店とは付き合いがある。両親を亡くしたばかりの子に、この問屋の人々は優しかった。
「若旦那様をお呼びしましょう」
「いや、いい。奴に会うと話が長くなる」
 淡々と拒絶したが、店の奥から声が飛んできた。
「おいおいゲンさん、そいつはつれねえぜ。俺の顔も見ねえで帰るつもりだったのかい?」
 粋な着流し姿の男が姿を現した。我孫子屋の若旦那、壮介だった。鞘音と同い年で、かつては同じ剣術道場で修行したこともある幼馴染である。
「よう若葉ちゃん、会うたびに別品になるねえ」
「人の娘を物みたいに言うな」
「江戸では美人のことを別品て言うんだよ。ゲンさん、あちこち武者修行してた割には世事に疎いな」
「余計なお世話だ。それに、ゲンさんなどと気安く呼ぶな。今は望月鞘音と名乗っておる」
「そんな格好つけた名前、体がかゆくならねえか? 源吾って昔の名前のほうが似合ってると思うぜ?」
 壮介はどっかと上がり框に腰を下ろした。
「若葉ちゃん、奥で色紙を見せてもらいなよ。珍しいのが入ったんだ」
「はい、かたじけのうござります」
 大人同士の話の邪魔になると察したのか、若葉は素直に座を外した。
「さてゲンさん、いつものやつかな?」
「うむ、このとおりだ」
 鞘音は行李を叩いた。
「それじゃ、検めさせてもらうよ」
 鞘音は行李の蓋を開けた。中にはくすんだ色の紙が積まれている。古紙を漉き返した、浅草紙と呼ばれるものである。我孫子屋では新しく漉いた紙だけでなく、このような古紙も取り扱っていた。
「うん、悪くねえな」
 壮介は紙を大づかみにし、膝の上で端を整えた。慣れた手つきで紙の束を流しめくり、数枚を拾いだして光に透かしてみる。ごみの混入具合を確かめているのである。
「ほとんどごみが入ってねえや。丁寧な仕事するねえ」
「ごみ取りは若葉も手伝うておる」
 古紙を釜で煮て溶かし、水槽にあけて冷ます。それからは、若葉と二人でひたすら地道なごみ取りである。その間に若葉と話でもできればよいのだが、二人ともごみ取りに夢中になってしまい、作業中はほとんど無言であった。
「ゲンさんは紙漉きを始めてまだ一年だよな。これだけ漉ければ立派なもんだよ」
 紙漉きの道具は、我孫子屋から借りている。問屋は道具を職人に貸し出し、職人は漉いた紙を問屋に納める。そういう仕組みであった。
「兄上には及ばぬが」
「信右衛門さんも良い腕だった。浅草紙ばっかりじゃなくて、そろそろ楮を漉いてみないかって言ってたところだったんだ」
 楮は上質の紙の原料である。
「兄は断ったのか」
「ああ、紙漉きは武士の本分ではないからってな」
 鞘音は兄の心情を思った。武士たる身で、職人の手業を讃えられることに忸怩たるものがあったのだろう。兄は城下から農村に移り住んでも、武士たる矜持を保ち、剣術の鍛錬を怠らなかったという。
「ゲンさんはどうだい。浅草紙で小遣い稼ぎするより、よっぽどまとまった稼ぎになるぜ?」
「うむ、やろう」
「え、やんの?」
 自分から誘っておいて驚いている。鞘音があっさり即答したのが意外だったようだ。
「面白そうではないか」
 鞘音としては、特にこだわりはなかった。手先の器用さにはひそかに自信があり、それはむしろ、武士としても誇ってよいことではないかと思っている。かの宮本武蔵は剣のみならず画業にも秀でていたというが、畏れ多くも、どこか通じるものがあるようにすら感じていた。
「それじゃ、ゲンさんにも楮の根を分けるから、育ててみなよ」
 楮は根挿しで殖やすのだそうである。壮介が言うには、望月家のある小高い丘は楮を育てるのに適しているはずだという。
「南の斜面に根を挿しておけば、勝手に育つよ」
「紙を作れるほど育つまでに、どれほどかかる?」
「三年だな」
「長いな」
「今年の楮が穫れたら、紙の里から幹を何本か譲ってもらうよ。それでやり方を覚えたらいい。もちろん、上手くできたら買い取るぜ」
 鞘音としては、ありがたい提案であった。紙の里とは、菜澄の南部の丘陵地帯にある、紙漉きが盛んな集落である。
「よかろう、やってみせようではないか」
「手間はかかるし、冬場の水仕事だから、楽じゃねえぜ?」
「望むところよ」
 壮介は嬉しそうに笑った。
「ゲンさんのそういうところ、嫌いじゃねえよ。同じ兄弟でも、信右衛門さんとはちょっと違うよな。信右衛門さんはいかにも武士って感じの人だったが」
「私が武士らしくないような言い方をするな」
 そこで鞘音はふと思い出した。兄弟云々の話が出たせいであろう。
「来る途中、宗月方丈に会うたぞ」
 壮介の両親に聞こえないよう、一応声はひそめた。
「そうか」
 笑っていた顔が、途端に冷淡になった。元気だったか、とも聞かない。昔は仲の良い兄弟だったはずだが、宗月が出家するとき、家族の間で大喧嘩があったそうである。宗月は我孫子屋を勘当となり、両者の関係はまだ修復されていないようだった。
「それじゃ、浅草紙はたしかに受け取ったよ。報酬はいつもどおり、後で与三さんから受け取ってくれ」
 壮介はいつも番頭を通じて報酬を渡す。鞘音としても、旧友の手から内職の報酬を直接受け取ることには、いささか抵抗があった。つまらない意地とわかってはいるが、壮介もそんな鞘音の心情を 慮 ってくれているようであった。
「お志津」壮介は奉公人を呼んだ。「ゲンさんの紙を向こうに持っていってくれ」
 お志津と呼ばれた女は、二十五歳ほどであろう。もう十年も我孫子屋に奉公しているという。きびきびとよく働く、愛嬌のある女であった。
「あら、浅草紙にしてはずいぶん綺麗ですね」
「へへへ、そうだろ?」
「べつに若旦那をほめたわけじゃありませんよ」
「わかってるよ、そんなこと」
「じゃあ何で若旦那がえらそうにしてるんですか」
「してねえだろ、うるせえな」
 やはり長年奉公しているだけあって、お志津は壮介とずいぶん息が合うようだった。鞘音の目には、何年も連れ添った夫婦のように見えることもある。壮介はいまだ独り身なので、いっそ本当に嫁にすればよかろうにと思うのだが、そうもいかないのだろうか。我孫子屋のような大店では、跡継ぎの結婚にはいろいろと思惑が絡むのかもしれない。当主の壮右衛門は息子をどうするつもりなのだろう。余計なお世話と思いつつ、店でどこか浮いているような幼馴染の身の上を、鞘音は案じてしまうのだった。
「さて、もうひとつのほうも持ってきてくれたのかい?」
「うむ、むろんだ」
 鞘音はもうひとつの行李を開けた。その中にびっしりと詰め込まれているのは、長方形の紙包みである。ひとつひとつの大きさと厚みは、ちょうど大人の掌ほど。この包みは浅草紙ではなく、楮の無垢な紙だった。
「そう、これだ。サヤネ紙」
 それは鞘音が追い剥ぎに襲われて腕を負傷したとき、治療の過程で「発明」したものであった。
 医者に縫ってもらった傷には晒布を巻いていたが、すぐに血で汚れてしまう。旅の道中で洗って取り替えるのは大変なので、重ねた懐紙をあててから晒布を巻いてみることにした。しかし、懐紙もすぐに汚れる上、着け心地も悪かった。菜澄に帰るまでの間に試行錯誤を重ね、できあがったのが、このサヤネ紙であった。
 作り方はいたって単純である。

一、紙を数枚よく揉みほぐし、綿のように柔らかくする。
二、柔らかくした紙のかたまりを清潔な紙で包む。
三、長方形の型に入れて押しつぶす。
四、適当に糊づけして形を整える。

 以上である。
 これを傷口にあてると着け心地が非常に柔らかく、血もよく吸う。出血が多いときでもほとんど晒布を汚すことはない。うっかりぶつけても衝撃を和らげてくれるので、傷も痛まない。あらゆる点で優れものだった。
「剣鬼・望月鞘音の命を救ったサヤネ紙だ。ご利益がありそうな気がするよな」
 そう、こんなものが売り物として成り立ったのは、ひとえに鞘音の剣名の賜物である。恥ずかしながら、不肖・望月鞘音は、この菜澄で「剣鬼」の異名を取っている。鞘音自身も帰郷するまで知らなかったが、壮介が言うには、二年ほど前からその異名を聞くようになったという。ちょうど菜澄で領地替えがあり、新たに高山家が領主となった時期であった。
 ともかく、その「剣鬼」が発明し愛用している医療品という点に目をつけて、壮介はこの品物の販売を買って出たのである。要は、単なる実用品に縁起物という価値を付けて売っているのだった。
 ちなみに、「商品化」にあたって鞘音は多少の工夫を加えた。
 まず、中身の紙は材料費を抑えるために浅草紙を使う。むろん清潔が第一なので、道端で拾ってきたような紙を漉き返すわけにはいかない。壮介に頼み、寺子屋や私塾で手習いに使われた身元の明らかな紙だけを回してもらった。それをさらに灰汁で煮て、毒消しをしてから漉き返している。ついでに、家の裏山に自生している牛額草を黒焼きにして、粉末にして混ぜた。牛額草の黒焼きは打ち身や切り傷に効くと、かつて多摩の薬売りに教わった。
「そちらも持っていきましょうか?」
 戻ってきたお志津が尋ねる。
「いや、これはいい。こいつのことで、これからゲンさんに話があるんだ」
「ああ、先生の御用ですか」
「なんだお前、知ってんのか」
「私は先生のところへよくお使いに行きますからね。あらかた聞いてますよ」
「そうか、なら席を外してくれ。こいつは男同士の話だ」
「女の話なのに?」
「馬鹿、余計なこと言うな。いいから向こうへ行ってろ」
 やれやれといった様子で、お志津は自分の仕事に戻っていった。
「壮介、女の話とはどういうことだ?」
「それは後で話す。ものには順序ってもんがある」
 壮介はサヤネ紙を鞘音の目の前に突きつけた。
「じつはふた月ほど前から、サヤネ紙をまとめて買ってくれてる人がいる」
「ほう、誰だ?」
「城下で開業してる医者だ」
「なるほど、医者か」
 傷の治療に使うものである。本職の医者が買い求めるほどのものを作れたと思うと、何やら誇らしい。
「その医者はもう、サヤネ紙をべた褒めよ。いくつあっても足りないってさ」
「ほほう」鞘音は驚いた。「そこまで褒められると、いささか面映ゆい」
「そうだろ。俺も誇らしいよ」
「しかし、御城下にはそれほどに怪我人が多いものか」
「そ、そうだな、みんなそそっかしいんだろうな」
 壮介の笑いは乾いている。
「その医者は何という方だ?」
「この近所で開業してる、佐倉虎峰先生だ」
 鞘音の記憶が刺激された。
「佐倉虎峰。何やら覚えがある名だな」
「ゲンさんが覚えてるのは、俺たちがガキの頃によく怒られてたジジイだろ?」
「そうだそうだ。ずいぶんよい歳になっておられるはずだな」
 自分たちが子供の頃、すでに初老と言ってよさそうな年齢に見えた。妻は歳の離れた若い女で、子供もいたはずである。まだ生きておられたのか、というのが正直な感想だった。
「まあ、虎峰先生のことも後で話すとしてだ……」
 また後回しである。壮介なりに段取りがあるようだ。
「話ってのは、サヤネ紙を手直ししてもらいてえんだ」
「手直し? どう手直しせよというのだ?」
 壮介は、なぜか鞘音から視線を外した。
「虎峰先生が言うには、サヤネ紙は怪我人にだけ使うものじゃねえ。もっと大勢の人にとって役に立つものらしいんだな」
 怪我の治療以外に使い道があるということか。しかも、大勢の人にとって。
「雑巾にも使えると前に申しておったな。そのことか?」
「違うよ。それなら医者がわざわざ言いに来ねえだろ」
 それもそうだ。
「では、怪我ではない何らかの不調に悩んでいる者が大勢いて、そのためにサヤネ紙が役に立つということだな?」
「そうそう、そういうこと」
 壮介がさかんに頷いている。
「それはじつに良きことではないか。何をもったいぶっておるのか知らぬが、そういうことならば喜んで手直しいたすぞ」
「やってくれるのか?」
「手直しすれば、佐倉虎峰先生は今後もまとめて買ってくださるのであろう?」
 鞘音と若葉、二人の暮らし向きは決して楽ではない。内職の得意先ができるなら、じつにありがたい話であった。
「さすがゲンさん、話がわかる」
「まあ、どう手直しするか考えるのも面白そうだからのう」
 物作りを好む、鞘音の生来の気質が出た。
「よし、武士に二言はねえな?」
 瞬間、鞘音の脳裏に不審の念がよぎった。幼馴染の勘であろう。この男、まだすべてを話していない。なぜ急いで約束を取り付けようとするのか。
「壮介、おぬし何か大事なことを隠しておらぬか?」
 壮介は腕を組み、天井を見上げた。鞘音にはわかる。目が泳ぐのを悟らせまいとしているのだ。
「やはり、何か隠しておるな?」
「いや、隠すつもりはねえんだ。ただ、どう話したもんかと……」
「そういえば先刻、女の話だと申しておったな。あれはどういう意味だ」
 ふと、鞘音は視線を感じた。若い二人連れの女の客である。サヤネ紙を手に会話する鞘音と壮介に、不審な目を注いでいる。
「……?」
 何か穢らわしいものを見るような目であった。なぜだろう。身だしなみは清潔に整えているつもりだが。
「あれって、あれだよね……」
 店を出ていく女たちの会話が耳に届いた。あれとはなんだ。
「壮介、これを何か妙なことに使わせてはおるまいな?」
 鞘音はサヤネ紙を手に詰め寄った。
 壮介はやはり目を合わせようとしない。
 そこへ今度は、我孫子屋の馴染客らしい中年の女がやってきた。こちらは無遠慮に、行李の中を顔ごと突っ込むようにのぞきこんできた。
「若旦那、これはサヤネ紙といいましたかね?」
「ああ、そうだよ」
 女はサヤネ紙から目を離さない。
「本当に、虎峰先生のところでもらう月役紙にそっくりだねえ」
 感慨深げに言い残し、女は買い物に戻っていった。
 壮介は咳払いした。
「ゲンさん、世の中には」
「今のはなんだ」
 鞘音は静かに壮介の話を遮った。
「あの女、月役紙と言ったな。月役とは、女の……月の穢れのことではないのか」
 月経である。直接口にするのを憚って、月の穢れ、月の障り、月のものなど、婉曲的に呼ばれることが多い。
「ゲンさん、落ち着け」
「落ち着いておる」
「目が怖いよ」
「怒らぬから正直に申せ。おぬし、サヤネ紙を女の下の用に使わせておるのか」
 壮介は観念したように、サヤネ紙の行李を叩いた。
「そう、そのとおりだ。サヤネ紙は女の下の用を足すのにちょうどいいらしい。血をよく吸うから──」
 壮介はその先を言えなかった。鞘音が立ち上がり、壮介の襟首を締め上げたのである。
「おぬし、武士の名を何と心得ておる……!」
 鞘音の突然の振舞いに、店内が騒然とする。
「私が作ったものだ。私の名を付けたものだ。それを穢らわしき用に使わせるとは、いかなる了見か!」
 奥で色紙を見ていた若葉が、驚いて飛んできた。
「ゲンゴジさま、いえ、ととさま。お怒りを鎮めてください」
 若葉は養女になるまで、鞘音を「ゲンゴジさま」と呼んでいた。幼い頃に「源吾叔父さま」を上手く発音できず、大きくなってもそのまま呼び続けていたのである。
「若葉、これは武士の面目にかかわることなのだ。口を出すな」
 番頭の与三も、お志津も、他の奉公人たちも、おろおろするばかりである。
「落ち着いてくれ、ゲンさん。サヤネ紙をそんなことに使えるなんて、俺も知らなかったんだよ。虎峰先生が教えてくれたんだ」
「佐倉虎峰か。あの御老体め、どうしてくれようか」
「どうするも何も、御老体の虎峰先生はとっくに亡くなってるよ」
「ふざけるな。虎峰先生に教わったと今言うたではないか」
 鞘音が壮介の襟をさらにきつく締め上げたとき、鞘音の後ろ襟にしなやかな手が添えられた。女の手だ。
 若葉の手ではない。若葉は離れたところで両手を握りしめている。では、誰だ?
 振り返って手の主を確かめようとしたとき、膝の力が抜け、鞘音の視界に我孫子屋の天井が広がった。
「──なに?」
 自分が転ばされたと気付くまでに、しばしの間が必要だった。
「ととさま!」
 若葉が駆け寄ってくる。
「だ、大事ない」
 何をされたのか、わからなかった。何やら体術でひっくり返されたようだが。
 天井を見上げる鞘音を、人影が見下ろしてきた。白い上衣に紺袴で、頭は総髪に結っている。医者の風体だ。
「どなたかは存じませんが、二本差しの御身で町人をいじめるのは感心しませんね」
 女の声だった。
「虎峰先生!」
 壮介が助かったというような声を出す。
 鞘音は起き上がった。
「虎峰だと──?」
 医者の風体の女が胸をそらした。
「新町で医者をしている佐倉虎峰と申します」
 涼やかな風情の、三十路ほどの女医がそこにいた。

「あなたが望月鞘音さまでございましたか。そうとは気づかず、ご無礼をいたしました」
 佐倉虎峰は慇懃に頭を下げた。言葉とは裏腹に、あまり悪いとは思っていないように見える。
「あらためて紹介するよ。女医者の佐倉虎峰先生だ。俺たちがガキの頃によく叱られてたジ……虎峰先生の娘さんだ」
 虎峰というのは代々襲名するらしい。目の前にいる佐倉虎峰は、三代目ということであった。なお、「女医者」とはいわゆる産婦人科を専門とする医者を指すことが多いが、虎峰のような女の医者を指すこともある。
「鞘音さまのお作りになったサヤネ紙、あれを拝見したときは目の覚めるような心地がいたしました。あのように素晴らしい物をお作りになった御方に投げ技を仕掛けるとは、重ね重ねお詫び申し上げます」
 医者は骨接ぎの修業の一環として、柔術を心得ている者が多い。
「謝らんでいい」
 謝られると、かえって情けなくなる。背後からの不意打ちとはいえ、女に投げられてしまうとは何たる不覚。
 今、鞘音を真ん中に挟んで、虎峰と壮介も上がり框に腰掛けていた。
 鞘音はどうにか心を落ち着けた。今の状況を整理してみる。
 サヤネ紙を考え、作ったのは自身、望月鞘音。
 サヤネ紙を商品として売り出したのは、紙問屋の我孫子屋壮介。
 サヤネ紙を「月役紙」などとして女の下の用に使わせているのは、女医の佐倉虎峰。
 整理できた。鞘音は立ち上がり、女医を睨みつけた。
「佐倉虎峰どの、そなたのところで話がおかしくなっておるようだ」
 他の客がいる手前、大声は出せない。努めて声を抑えている。
「私が何をしたとおっしゃるのです?」
 虎峰は冷ややかに鞘音を見返している。
「いやいやゲンさん、先生に悪気はねえ。医者として、患者のことを考えたまでだ」
「おぬしは黙っておれ。そもそも、おぬしも何だ。この女の言うなりになって、私にサヤネ紙の手直しをせよとは」
「いや、それにはわけがあって……」
 佐倉虎峰は、鞘音の抗議など知らぬ顔である。
「若旦那、ちょうどよかった。この行李のサヤネ紙を丸ごとくださいな」
「そなた、人の話を聞いておったのか。よくも私の目の前で買えるものだな」
「これはもう我孫子屋さんが買い取られたものでしょう? ならば、私と我孫子屋さんとの取引です。貴方様が口を出す筋ではありません」
「う、む……」
 鞘音はたじろいだ。佐倉虎峰、弁が立つ。そして、一歩も引かぬこの態度。旦那は尻に敷かれているに違いない。
 佐倉虎峰はわざとらしくため息をつき、鞘音を上目遣いに見た。
「よろしいですか、望月鞘音さま。率直に申し上げて、丸めた紙をまた紙に包む程度のもの、私でも作れます」
「何を申す。あれでも細かい工夫がしてあるのだ」
「私も私で工夫するまでのこと。そういえば牛額草の黒焼きを混ぜているようですが、たいした効き目はないと思いますよ」
 いきなり商品にケチをつけ始めた。
「牛額草の黒焼きは打ち身や切り傷に効くと聞いたぞ」
「多摩の薬売りが扱っている散薬のことですか? あれは飲み薬ですよ。生の茎や葉なら、すり潰して傷に塗ることもありますけれどね。わざわざ牛額草を採って黒焼きにする手間をお取りになるぐらいなら、そのぶん安くしていただきたいものです」
 鞘音は絶句した。じつに恥ずかしい勘違いをしていたらしい。
「私が医者として、患者に適切な月役の処置をさせることにどれほど苦心してきたか。それなのに、これほど単純なものを思いつかなかったとは口惜しいかぎり。それでも、これを作った望月鞘音さまに敬意を表して、あえて売れ残りの山を崩して差し上げているのですよ」
 虎峰は一気にまくしたてるのではなく、滔々と論を述べている。それがまた面憎い。
 おのれ佐倉虎峰。だが、憤る鞘音の脳裏に、引っかかる言葉があった。
「売れ残りの山……?」
「若旦那に聞いてごらんなさい」
 壮介は目を逸らしていたが、やがて観念したように鞘音に頭を下げた。
「ゲンさん、じつはサヤネ紙が売れたのは最初のひと月だけだ。あれはたしかに大怪我をしたときには便利だが、大怪我なんかそう滅多にするもんじゃねえ。やっぱり、みんなそこまでそそっかしくはなかった」
「雑巾にも……」
「それは雑巾でいいし、使い捨てるなら浅草紙で十分だ。サヤネ紙は結構高いしな」
 あえて強気の値をつけたのは壮介自身である。だが、己の目算の誤りを反省するでもなく、何やら開き直ってすらいる。
「近頃は納める数も減らしていたではないか」
「あれでも多すぎたんだ。虎峰先生の言うとおり、売れ残りが山になってた」
「それならば、なぜもっと早く作るのをやめるよう言わなかった」
 壮介が口ごもっているので、虎峰がかわりに答えた。
「若旦那は昔馴染のよしみで、無理をしてサヤネ紙を買い取っていらしたのですよ。貴方様と娘さんの暮らし向きのために」
 虎峰の瞳が店の外に向けられた。そこには、大人同士の話が終わるのを行儀よく待っている若葉がいる。
 鞘音は血の気が引く思いがした。
「私と若葉の暮らし向きのために、だと……。壮介、おぬしは私を憐れんだのか」
「そんなんじゃねえって。俺も自分で取り扱いを決めたもんだから、意地になってたんだよ。何としても売らなきゃいけねえってな」
 また、虎峰の淡々とした声。
「ははあ、それでうちの診療所にサヤネ紙を売り込みに来られたわけですか。失礼、ただの昔馴染のよしみではなかったということで、そこは私の心得違いでした」
 虎峰は行李のサヤネ紙を自分の風呂敷に移し、手際よく包んだ。慣れた様子からして、常連のようだ。
「さて、望月鞘音さま。若旦那からお話があったと思いますが、サヤネ紙の手直しをなさらぬならば、それでよし。これからは私が自分で作るだけのこと。憐れみを受けるのはお嫌なようですから、それでよろしいでしょう」
 立ち尽くす鞘音をよそに、虎峰は風呂敷を抱えて戸口に向かった。
「……虎峰どの、待たれよ」
 虎峰は風呂敷ごと振り返った。
「やっていただけるんですか?」
「そうは言うておらぬ。だが……」
「申し訳ないですが、これから往診なのです。ゆっくりお話を聞いている暇はないんですよ」
 虎峰はふたたび背を向けたが、ふと何かに気づいたようだ。
「ああ、そうでした」
 戸口の逆光が虎峰の顔の輪郭を不吉に浮かび上がらせる。
「いずれお耳に入るでしょうから、先に申し上げておきましょう。近頃、御城下の女たちの間では、月役のことを『サヤネ』と言うのが流行っているそうですよ。それだけサヤネ紙が月役の処置に適しているという証ですね」
 鞘音の視界が闇に包まれた。先刻聞いた女たちの会話が蘇る。
「サヤネに、斬られる──」
「ああ、月役が始まることをそう言うそうです。血が出るからでしょうね」
 ──なるほど、そういう意味だったのか。
 理解すると同時に、音が聞こえた。これまで守り、築き上げてきた武士としての体面が、一気に瓦解する音が。
「申し上げておきますが、私はこれを月役紙という名で処方しております。月役をサヤネと呼び始めたのは患者たちです。私を恨まれても困りますよ」
 この女、あくまで自分に責はないと言い張る気か。鞘音はついに怒声をあげた。
「待て、虎峰……!」
「待てません。往診があると申したではありませんか」
 逆上する鞘音を、壮介が後ろから羽交い締めにした。
「やめろって、ゲンさん」
「武士がこうまで名を穢されて、黙っておれるか!」
 壮介は店の者に声を掛けた。
「おいみんな、出合え。殿中にござるぞ!」
 壮介のふざけた呼びかけに、店の者がほとんど総出で鞘音にしがみついた。
「では、ごめんくださいまし」
 虎峰が涼しい顔で一礼し、店を出ていく。鞘音は若旦那と店の者たちを引きずりながら追いかけた。往来の人々が何事かと振り返る。
 往来にはちょうど、二本差しの集団がいた。
「どこの誰が騒いでおるのかと思えば、おぬしか。剣鬼と名高い望月鞘音どの」
「どの」に嫌みが込められている。声の主は二本差しの集団を率いる男だった。質素だが趣味の良い袴姿の侍である。
「むう、おぬしは眞家蓮次郎」
 鞘音は我知らず表情を引き締めた。

 眞家蓮次郎。菜澄の領主たる高山家お抱えの剣術指南役である。年齢は鞘音や壮介らと同じく、数えでちょうど三十歳であるはずだ。美男で品の良い男ぶりでも評判であり、現に今、町の女たちの視線が蓮次郎に集まっている。
 蓮次郎の両脇から、二人の侍が進み出た。
「蓮次郎様との勝負が怖くて逃げ出した腰抜けめ」
「よう恥ずかしげもなく御城下に顔を出せるものよ」
 蓮次郎が二人の肩を叩く。
「太郎右衛門、次郎右衛門、やめるがよい」
 鞘音は舌打ちして詰った。
「皆まで言わせる前に止めぬか」
 蓮次郎は鼻で笑った。
「まだ田舎に引き籠もっておるようだな、望月鞘音。刀よりも鍬のほうが手に馴染むと見える」
「畑仕事は足腰の鍛錬となり、紙漉きは手首の鍛錬となる。おぬしもやってみるがよかろう」
「あいにく、農夫の真似事をする趣味はないのでな」
「そうであった。おぬしは江戸でも、いつもそのようにお高くとまっておったな」
 もう十年も昔、二人は江戸の剣術道場でともに修行を積んだ仲であった。鞘音は武者修行、蓮次郎は参勤で江戸詰めの折である。当時から蓮次郎は、譜代高山家の剣術指南役の御曹司として、下へも置かれぬ扱いを受けていた。
「相も変わらず、そうして供を引き連れて歩くのが好きなようだな」
「なんの、おぬしのように気軽に出歩ける身分がつくづく羨ましいと思うておるよ」
 嫌みでは勝てそうにない。
 蓮次郎はわざとらしく咳払いした。
「時に望月鞘音、何やらそなたのことで穢らわしい噂を聞いたのだが」
 二人の弟子がふたたび前に飛び出した。
「女の下の用で口に糊するとは、剣鬼も落ちたものよのう」
「しかもその名が女の下そのものになるとはのう」
 蓮次郎がふたたび二人の肩を叩いた。
「太郎右衛門、次郎右衛門、やめよ」
「だから、皆まで言わす前に止めぬか!」
 蓮次郎の顔から嘲笑が消えた。声が凄みを帯びる。
「望月鞘音、そなたは何をしておるのだ。近々に殿が参勤からお帰りになるというのに、剣鬼の名を女の下で穢したままお迎えするつもりか」
 鞘音にしてみれば理不尽な言われようである。自分から剣鬼と名乗ったわけでもなく、好んで女の下に名を使われたわけでもない。自分の与り知らぬところで勝手に名を上げられたり下げられたり、たまったものではなかった。
 さらに正直なところでは、二年前から菜澄の領主となった高山家の殿様に、さほどの忠義を感じてもいない。知行地を安堵されているので形の上では君臣関係にあるが、それだけである。名君と噂される高山重久公に人並みの期待と興味はあったが、特に目通りしてみたいとも思っていなかった。
 それよりも鞘音にとって衝撃だったのは、蓮次郎が噂を知っていたことである。武家地にまで広まっているのであれば、「サヤネ」の名はすでに城下すべての笑い草になっているのではないか。
 かくなるうえは、命を賭して名を保つべし。鞘音はひそかに刀の鯉口に親指を添えた。一歩前に出ようとしたとき、両者の間にひとつの影が躍りでた。
「聞き捨てなりませんね」
 力強い声。佐倉虎峰であった。その眼は太郎右衛門と次郎右衛門ではなく、まっすぐ蓮次郎に据えられている。
「望月鞘音さまのお仕事で、どれほどの女子が救われているか。それを虚仮になさるとは、いかなる了見でしょう」
「私は何も言うておらぬぞ」
「弟子が勝手に言ったとおっしゃいますか。言い逃れは卑怯ですよ」
 蓮次郎の表情が変わった。かすかな剣気がその目に宿ったことに、鞘音は気付いた。
 ──まずい。
 無礼討ち。
 恥をかかされてそのままにしておくことは、武士にとって単なる体面の問題では済まない。罪悪であった。町人に笑いものにされた武士が、恥を雪がず捨て置いたとして御公儀から罰せられることもある。蓮次郎が刀を抜くとすれば、怒りだけでなく、武士としての義務感からでもあろう。武士とはそういうものだった。
 鞘音はすでに刀の鯉口に指をかけている。さらに今、柄に右手を添えた。あえて所作を大きくしたのは、蓮次郎を牽制するためである。
 蓮次郎の目が、鞘音のその動きをとらえた。
「……そうか、そなたが巷で噂の三代目佐倉虎峰か」
 蓮次郎はことさらに胸を張ると、呵々大笑した。
「これはこれは、威勢のよい女子がいたものだ。その胆力に免じて、ここは私が譲るとしよう」
 芝居がかっているが、武士としての面目を保ったことを、往来の民に示しているのである。
 蓮次郎の目から剣気が消えたので、鞘音も柄から手を離した。
「鞘音どの、失礼いたした。弟子の失言を許してもらいたい」
 失言で済ませる気か。鞘音は不満足であったが、周囲に見物人の輪ができている。事を荒立てると厄介だ。地位のある蓮次郎のほうがよりそう思っているはずで、だからこそ詫びを入れたのであろう。
「──うむ」
 短く、謝罪を受け入れる。
 蓮次郎たちは尊大な足取りで城のほうへ去っていった。
 虎峰に礼を言うべきなのだろうか。鞘音が迷っていると、虎峰は「それでは」と一礼し、そっけなく背を向けた。サヤネ紙の風呂敷を手にぶらさげて。
 虎峰の髻が、馬の尻尾のように揺れながら遠ざかっていく。
 鞘音の袖を小さな手がつかんだ。若葉である。義父とともに女医の背中を見つめる少女の瞳は、秋の澄んだ陽射しを映し、黄金色に輝いていた。

(この続きは単行本でお楽しみください)


書誌情報

書名:月花美人
著者:滝沢志郎
発売日:2024年07月26日
ISBNコード:9784041148648
定価:2,145円(本体1,950円+税)
総ページ数:320ページ
体裁:四六判 変形
発行:KADOKAWA

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