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櫛木理宇『死蝋の匣』第1章特別公開 最悪の無理心中事件をめぐる戦慄ミステリ! 

櫛木理宇さんの『死蝋の匣』が7/2に刊行されました。連続するショッキングな猟奇事件と、ストーリーが進むにつれて曝かれるジュニアアイドル界の闇に、「小説 野性時代」連載時から「怖すぎる」「エグすぎる」と読んだ人を震えあがらせてきた今作。書籍刊行後も悲鳴のような感想が続々と寄せられています。刊行を記念して第1章を特別公開! ページをめくる手も嫌な予感も止まらない、戦慄のミステリをお楽しみください。

あらすじ

茨城県で滅多刺しの男女の死体と死蝋のかけらが発見される。翌日、白昼のコンビニで女子中学生たちが襲撃される第二の事件が発生。現場の指紋から捜査線上に椎野千草という女性が浮かび上がる。彼女は、十三年前に起きた史上最悪の無理心中事件の生き残りだった――。千草の足取りが掴めぬまま、増えてゆく死体。止まらぬ猟奇殺人犯を元家裁調査官・白石と県警捜査第一課・和井田コンビが追う!


『死蝋の匣』試し読み


【死(屍)蝋】死体が長時間、水中や地中などに置かれた場合に、脂肪が分解して脂肪酸となり、水中のカルシウムやマグネシウムと結合してチーズおよび石鹼様になったもの。


プロローグ


 ワンルームの単身者用アパートだった。
 女性にはあまり人気のない、築四十年を超える物件だ。取り得は家賃が安いことと、三点ユニットバスでなくトイレがべつなことくらいか。
 彼女がその部屋に住んで、早や五年目になる。
 家具も家電もすくなく、殺風景な部屋であった。
 ベッド代わりのマットレスに姿見、ロウテーブル。二十インチのテレビ、洗濯機、炊飯器は、先輩から三つ合わせて一万円で譲り受けたものだ。四回払いのローンで買った冷蔵庫と、タブレットだけがかろうじて新しい。
 趣味は読書だが、本棚はなかった。ものを増やすのがいやなので、図書館とレンタルコミックと、サブスクで読める電子書籍をフル活用している。休日は、本と漫画とSNSでほぼ潰れる。
 しかし今日は火曜だ。彼女は出勤しなくてはならない。
 毎朝、彼女は七時半に起きる。
 起きて真っ先にするのは、冷蔵庫を開けることだ。朝食代わりのパック豆乳を一本と、前日におかずを詰めておいた弁当箱を取りだす。豆乳を飲みながら、弁当箱に白飯を詰める。
 白飯の粗熱を取る間、彼女は顔を洗い、歯をみがく。テレビのニュースを横目に髪をまとめ、日焼け止めを塗り、眉毛を描く。
 彼女は工場勤務である。
 作業服一式は支給されるので、通勤はラフな服装でかまわない。たいていはゆったりしたワイドパンツかロングスカートに、シンプルなニットだ。化粧は推奨されていないのでしない。ネイルもしない。
 弁当箱をジップロックに入れる。愛用のバッグを肩にかつぐ。
 スニーカーは先月買ったばかりだ。沓脱で、機嫌よく靴紐を締める。現在の彼女の宝物はこのスニーカーと、二十万円で買った型落ちの軽自動車の二つである。
 時刻は八時十五分。扉が閉まる。
 無人の部屋は、しばらく静まりかえっている。
 だが、八時二十七分。
 作り付けのクロゼット兼押し入れの戸が、じりじり中からひらきはじめる。
 細く開いた隙間から目だけが覗く。しばし、外界をうかがう。
 やがて戸が、二十センチほど開く。
 瘦せた〝影〟が、ぬるりとすべり出てくる。
 クロゼット兼押し入れの天井板が一枚ずれ、〝影〟がそこから──つまり屋根裏から降りてきたことを物語っている。
〝影〟は寝起きで湿った頭皮を搔く。ぼりぼりと搔く。いつまでも搔く。手を止め、爪さきを嗅ぐ。その間も足は、意味なく室内を一周している。
 視線が、ふとロウテーブルで止まった。
 正確にはテーブルの上の、食べかけのスナック菓子にだ。袋の口は、大きなクリップで留めてある。
〝影〟はテーブルの横にしゃがみ、クリップをはずした。
 まず臭いを嗅ぐ。傷んでいないことを十二分に確認してから、一枚かじる。もう一枚。さらにもう一枚。
 ふたたびクリップで袋を留め、〝影〟は立ちあがる。
 向かった先はトイレだ。排尿し、排便する。次いで水を飲む。コップを使って飲み、洗いもせずコップ立てに戻す。
〝影〟は浴室に入った。服を脱いでから、蛇口をひねって湯を細く出す。ちろちろと出るシャワーで全身の汗を流し、髪を洗う。
 湯もシャンプーも、使うのは最低限だ。最低限で済むよう、とうに体が慣れている。電気代や水道料金や、減ったシャンプーで家主に気づかれてはたまらない。
 衣類の洗濯も、浴室で済ませてしまう。清潔にしたいからと言うより、異臭で存在を気づかれたくないからだ。
 衣類が乾くまでの間、〝影〟はテレビを観る。家主の布団に寝ころがる。布団を嗅ぎ、枕を嗅ぐ。脱ぎっぱなしのパジャマも嗅ぐ。
 ときおり水を飲み、スナック菓子を数枚食べる。
 むろん、本来の居住者に悟られぬ程度の枚数でやめておく。
 それでなくとも〝影〟は少食だ。幼少期からろくに食べてこなかったせいで、胃が縮まっているのだ。
 やがて、陽が西に傾きだす。
〝影〟は室内に干しておいた衣類を着る。まだ生乾きでも、かまわず着る。周囲を見まわし、髪の毛などが落ちていたらつまんで拾う。
 空きペットボトルに水だけ汲んで、〝影〟はふたたびクロゼット兼押し入れに入る。戸を閉ざし、ずらした天井板から屋根裏へ戻る。
 屋根裏はひとすじの光もない。
 体をまるめて〝影〟は横たわる。ほっとする。
 食べて、飲んで、体をきれいにして、たまに光を浴びなければいけない。体を壊さないためだ。わかっている。
 しかし頭でわかっていても、安心できるのはここのほうだ。誰にも見られない、誰もいない、光の射さぬこの空間こそ安堵できる。
〝影〟は手を伸ばす。
 真っ暗だが、どこになにがあるかは感覚で理解していた。指さきでそっとそれに触れ、撫でる。ビニールの感触が、指に心地いい。
 ──みんな、離れていく。
 みんな〝影〟から離れていく。いなくなる。それがわかっているからこそ、指さきの感触はいっそういとおしかった。
 もしこの屋根裏に光があったなら、そして〝影〟以外の人間がいたなら、きっと魂消る悲鳴が上がっていただろう。
 家人に気取られず、寄居虫のように屋根裏で暮らす〝影〟。
 その奇妙な〝影〟が指さきでいとおしむ異物。
 それはビニールに包まれた、胎児の死蝋だった。


第一章


 白石洛はキッチンに立っていた。
 その眉間には、深い皺が刻まれている。
 べつにキッチンに立つのが不本意なわけではない。むしろ本意だ。なにしろ現在の彼は、専業主夫の身である。
 独身ゆえ、正確に言えば『主夫』ではない。しかし家主の実兄として、『家政夫』の肩書は他人行儀過ぎるだろう。家事の九割九分を担っているから、『家事手伝い』の呼称も当てはまらない。
 よって〝広義の専業主夫〟である、と白石は己の立場を自負している。
 彼はちらりと壁掛けの時計を見上げ、
 ──うむ。そろそろパンを焼こう。
 とオーブンへ向かった。
 今日は七月の第一日曜だ。普段は生活サイクルの合わない妹の果子と、ランチをともにできる数すくない日である。
 成形して二次発酵を済ませたパン生地に、白石は刷毛で溶き卵を塗った。これを塗っておくと、焼きあがったときのつやが違う。次いで百七十度に予熱したオーブンで、十二分焼きあげる。
 ──パンはこれでOK、と。
 パンを焼くのはひさしぶりだった。
 白石は基本、パンはパン屋で買うのが一番だと思っている。焼きたてはともかく、冷めても美味いのはやはりプロの商品のほうだ、と。
 だが昨夜はどうにもパンを焼きたく──いや、こねたくなったのだ。
 正確に言えば、いらいらをなにかにぶつけたかった。苛立ったときはパン生地を力まかせにこね、台に叩きつけまくるに限る。
 ──さて、パンが焼きあがるまでに、パスタの用意だ。
 パスタは五分で茹であがる細麵にした。沸騰させたたっぷりの湯に塩を入れ、パスタをねじって放りこむ。
 茹でている間もすることがある。大蒜を包丁の腹で潰し、鷹の爪とともにオリーヴオイルで炒めねばならない。
 香りが立ったら、茹で汁をすこし加える。アルデンテに茹であがったパスタを、一気にフライパンへ投入する。茹で汁をさらに足し、水気がなくなるまで絡める。
 仕上げに釜揚げしらすを混ぜ、ごくかるく火を通したら終わりだ。あとは盛りつけ、てっぺんに水菜を飾って出来あがり、である。
 ちょうどパンも焼きあがった。スープは昨晩のミネストローネが残っている。デザートは、いただきもののゼリーがある。
 ──よし。完璧だ。
 白石はうなずき、息を吸いこんで怒鳴った。
「果子ぉ、昼メシだぞ! 冷めないうちに早く来い!」

「……今晩、デートだって言ったよね?」
 この部屋の家主こと妹の果子が、焼きたての丸パンをちぎりながら言う。
「それにしてはこのランチ、大蒜がっつりすぎない?」
「いいじゃないか。おまえの好物だろ、しらすと水菜のペペロンチーノ」
 視線は合わせず、白石はパスタをフォークに巻きつけた。
「ミネストローネも、うちのって大蒜たっぷりだよね」
「入れたほうが美味いからな」
「もー……」
 果子が嘆息した。
「ま、いいけど。瑛一くんはそれくらいで怒るような、心の狭い男じゃないし」
 白石の眉がぴくっと引き攣った。
 そう、苛立ちの原因のうちひとつがこれである。
 外資系医療機器メーカーの開発営業部で毎日夜中まで働く果子が、昨夜は珍しく九時台に帰ってきた。そして兄の顔を見るなり言いはなった。
「明日、晩ごはんいらない。瑛一くんとデートなの」
 と。
〝瑛一くん〟は、白石の旧友の呼称だ。正式なフルネームは和井田瑛一郎という。
 職業は警察官で、階級は巡査部長。所属は茨城県警刑事部捜査第一課強行係である。つまり殺人、強盗、放火などを捜査するのが仕事だ。
 果子が首をすくめて、
「いいじゃんべつに。わたしだってデートくらいするよ、妙齢の女性なんだし。……ん、このパン美味しい。よく焼けてる」
「そうか、おかわりもあるぞ。……それより、自分で妙齢とか言うな」
「焼きたてパンに蜂蜜バターの取り合わせって正義よね。……ていうか、瑛一くん以外とならデートしていいわけ?」
「駄目だ」
 一転し、ぴしゃりと白石は言った。
「和井田も駄目だが、よその男はもっと駄目だ。そんなどこの馬の骨ともわからん男、お兄ちゃんは許しません」
「じゃあどうしろと」
 果子が呆れ声を出す。
「過保護お兄ちゃんの言うこと聞いてたら、わたし、還暦過ぎても結婚できないよ。ただでさえ仕事仕事で出会いがないのにさ」
「おまえは焦る必要なんかない」
 ミネストローネの野菜をスプーンでかき集め、白石はむっつり言った。
「せっかく主査になれたばかりじゃないか。それに、『しばらくは仕事に生きる』って言ってただろ。恋愛に焦りは禁物だ。焦るとババを摑むぞ」
「瑛一くんはババじゃないもん」
 さらりといなして、果子はパン籠に手を伸ばした。早くも三個目のパンである。
 見れば、パスタの皿もミネストローネもほぼ空に近い。なにをさせてもしゃきしゃきと要領のいい妹は、食べるスピードさえ兄をはるかに凌駕する。
「いいか、早く帰るんだぞ。遅くなるなよ」
 白石は低く言った。
 だがここが引き際だろう。これ以上うるさく言ったらさすがに嫌われそうだ。このへんで矛をおさめるべきだ、と理性で己を律する。
 ──べつに、和井田がいやなわけじゃない。
 信用できない男でもない。むしろ全世界の男の中では、かなり上等な部類と言えるだろう。国立大学で法学を専攻した公務員だし、でかい図体といい腕っぷしといい、いかにも果子を守ってくれそうで頼もしい。
 ──ただなんというか、そう……妹を持つ兄として、複雑なだけだ。
 腹立ちまぎれに、白石はパスタを口に押しこんだ。
 白石が家裁調査官を辞め、このマンションで妹の専業主夫を務めはじめてから、早や数年が経つ。
 昨年の二〇一〇年は和井田が持ちこんだ『虜囚の犬』事件に巻きこまれたものの、最近はごく平穏な日々である。
 ──兄として、むろん果子には幸せになってほしい。しかし。
 そう、〝しかし〟だ。
 白石はただの兄ではなく、果子の保護者でもありたい──と思っている。
 われながら僭越だとは思う。「兄としてすら頼りないのに、父親役までできる立場か」とも、「無職の分際で」とも思う。
 だがこれは、あくまで心意気の問題なのだ。いわば男の矜持だ。であるからして、そんじょそこらの野郎に妹は渡せない。
「果子、デザートはゼリーだぞ。園村先生からいただいた千疋屋の……」
 言いかけた声が、途中で消えた。
 テレビのニュースから、「茨城県」の単語が聞こえてきたからだ。しかもアナウンサーはこうつづけた。
「茨城県那珂市で、男女二人の遺体が発見されました」と。
 果子がリモコンを手に取り、ボリュームを上げる。男性のアナウンサーが、無機質な声で原稿を読みあげた。
「今日午前九時二十分ごろ、茨城県那珂市の住宅で男女二人の遺体が見つかりました。この家に住む会社経営者の角田精作さん(55)と、三須しのぶさん(53)が倒れているのを社員が発見し、通報。警察が駆けつけたところ、その場で死亡が確認されました。遺体に複数の刺し傷、また室内に荒らされた形跡があることから、県警は強盗殺人事件の可能性があるとみて、捜査していく方針です──」
 白石はフォークを置いた。妹を見やる。
「那珂か」
「那珂だね」
「和井田とデートってことは、やつから誘いがあったのか?」
「うん。ほかの事件が解決したから、待機にまわされたって言ってた。次の事件が起きるまでは、しばらく書類仕事だけだって」
「『次の事件が起きるまでは』か。そうか……」
 白石が唸るとほぼ同時に、着信音が鳴り響いた。
 果子のスマートフォンだ。電話アプリの着信音である。手を伸ばし、果子が液晶をタップした。
「ごめんよ果子ちゃん!」
 スピーカーにせずとも、悲鳴じみた声が白石の耳にまで届いた。
 和井田瑛一郎だ。
「ごめん、ほんとうにごめん。いま那珂署にいるんだ。捜査本部が立ってしまった。申しわけないが、今夜は抜けられそうにない。ほんとうにごめん」
 巨体を折り曲げ、平身低頭するさまが目に見えるようだった。
「すまない果子ちゃん。この埋め合わせは絶対にする。償いもする。次におれと会ったとき、殴る蹴るしてくれていっこうにかまわない。だが頼むから、嫌いにはならないでください」
「なに言ってんの。なるわけないでしょ」
 仕事なんだからしかたないよ、と果子は笑い、
「頑張って瑛一くん。茨城の治安のため、働いてね」
 と明るく激励した。
「もちろんだ」
 和井田が声を弾ませる。
「果子ちゃんが安心して暮らせるよう、きみが住むこの県をおれは全身全霊で守る。最速で、いや秒で解決するから待っていてくれ」

 通信指令室からの無線に従い、那珂市砲浪一〇二四番地の現場に第一臨場したのは、最寄りの交番員二名だった。一人は巡査部長、もう一人は巡査だ。
 現場は一軒家であった。第一発見者は玄関ポーチに、いまだ青い顔でへたりこんでいる。
「那珂一一二、現場到着。通報者を確認しています。どうぞ」
「本部から那珂一一二。機捜と鑑識が急行中。現場保存を願います」
「那珂一一二、了解」
 巡査が無線報告する間に、巡査部長は第一発見者の聴取にかかった。数分と経たぬうち、機動捜査隊と鑑識が到着する。
 機動捜査隊の班長に、巡査部長は聴取の内容を報告した。
「遺体はこの家の所有者である角田精作と、内縁の妻、三須しのぶの両名のようです。角田は芸能プロダクション『STエンタテインメンツ』の代表取締役で、第一発見者は社員でした」
「『STエンタテインメンツ』……? 聞いたことねえな」
 首をかしげる班長に、巡査部長がつづけた。
「社員は内縁の妻を入れても八名だそうですから、弱小プロですね。社員いわく、悲鳴やあやしい人影などはいっさい見聞きしていない、とのことです」
「わかった。ご苦労」
 遺体は寝室に二体転がっていた。両名とも、あきらかに他殺であった。
 家のまわりには規制線が張られ、機動捜査隊の車両と那珂署のパトカー四台がずらりと路肩に駐まった。野次馬も、百人単位で集まりつつあった。
 そこへ、黒のアルファードが到着する。那珂署刑事課捜査一係の捜査車両だった。
 次いで横づけされた白のアテンザは、県警捜査第一課の覆面パトカーである。
「なんだ、もうお出ましか。早ぇな」
 機動捜査隊の班長がつぶやいた。
 アルファードから四人の刑事が、アテンザから三人の刑事が降り立つ。
 うち一人は見上げるほどの長身であった。肩幅が広く、胸板がぶ厚い。鋭い目つきといい武張った雰囲気といい、そこにいるだけで他人に威圧感を与える。
 捜査第一課強行係、和井田瑛一郎巡査部長だった。
 全員が手袋をはめ、靴カバーを二重に履く。「入ります」と鑑識に声をかけてから、捜査員たちは邸内に踏み入った。
 殺害現場は一階の寝室だった。すでにビニールシートが敷かれ、ドアは開けはなたれていたが、入った瞬間につんと異臭がした。
「なんの臭いだ?」
 思わず、といったふうに訊く捜査員に、鑑識が答える。
「強酸性の洗浄剤と思われます」
 角田精作とおぼしき五十代の男性は、ベッドに仰向いたまま絶命していた。一方、三須しのぶと思われる女性は、床に転げ落ちた姿勢だ。
 二人とも顔面から首にかけて、火傷のように赤くただれている。そして腹といわず胸といわず、滅多刺しにされていた。おびただしい血が床を染めている。古くなった血と洗浄剤の臭いが入り混じり、鼻が曲がるような悪臭をはなっている。
「侵入経路はここか」
 和井田はひらいた掃き出し窓を指した。クレセント錠のまわりが、ガラス切りで丸く切りとられている。
「死因はどう見ても、刺創による失血死ですね。死亡推定時刻は?」
 遺体の横の検視官に尋ねる。
「死後硬直と肝臓の温度からして、午前一時から三時の間ってとこか」
 検視官は即答した。
「犯人はそこの掃き出し窓のガラスを切り、侵入。眠っていた被害者たちの顔に液状のパイプ洗浄剤をぶっかけたと思われる。知ってのとおりパイプ洗浄剤ってのは、かなりの劇薬だからな。被害者たちは驚いて起きたろうが、目を開けられなかったか、開けてもろくに見えなかったはずだ」
「その後に滅多刺し、か。なかなか激しい犯行だ。怨恨ですかね?」
「まだわからん。物盗りの可能性もある」
 検視官は親指でクロゼットを指した。やはり扉がひらいており、抽斗のいくつかは床に落ちていた。
「ほかの部屋も、物色の形跡アリアリだ。被害者両名の財布からは、現金のみが抜かれていた。あとは三須しのぶの貴金属だな。安っぽいネックレスが二本だけ残され、ほかはごっそりいかれている。金庫の中身は未確認。ひとまず鑑識が指紋だけ採取した」
「下足痕も、見込みありそうですね」
 和井田は床を見下ろした。
 血で染まった床から廊下にかけて、べたべたとスニーカーらしき足跡がつづいている。第一発見者と犯人のものだろう。この様子なら判別は容易なはずだ。
「うわ、ひでえ臭いだな」
 新たな声が背後で起こった。
 和井田が振りむくと、東村係長が入ってくるところだった。和井田の直属の上司だ。さらに三人の部下を引き連れている。
「おーい、みんな聞け。いま那珂署に捜査本部を設営中だ。事件主任官には、捜一の課長補佐が就く。捜査本部長は那珂署長だそうだ。住宅街の事件で、地域性が高そうだからな。さっそくおまえらには、マル目探しに当たってもらう。第一回捜査会議は七時の予定だ。いい土産を持ち帰れよ」
 東村係長が、ぱんと手を叩く。
「よしおまえ、そこの若いのと組め。おまえはそっちのとだ」
 てきぱきと、かつ適当にその場でバディを決めていく。
 聞き込みなどの捜査班は二人一組で動くのが基本だ。たいていは、所轄署員と本部刑事の組み合わせである。新米とベテランが組まされることも多い。所轄署員は地域の事情について詳しく、本部刑事は凶悪犯の捜査方法に明るい。お互いの足りない部分を補い合いつつ捜査していくわけだ。
「和井田は、ええと、そこの若手と組め」
「了解です」
 答えてから、和井田は指定された相棒を見やった。
 女性警察官だった。タイトなパンツスーツに白のテニスシューズ。うなじで黒髪をひとつに結んでいる。薄化粧の顔は、二十六、七歳に見えた。
「那珂署捜一係の岸本歩佳巡査長です。よろしくお願いいたします」
「よろしく頼む。おれは……」
「和井田部長ですね。存じあげております」
 名のる前に、前のめりで言われた。
「部長は覚えておられないでしょうが、わたしが交番勤務だった三年前、『常陸三人殺傷事件』でご一緒いたしました。今回はバディを組めて、まことに光栄です。なにとぞご指導ご鞭撻のほどお願い申しあげます」
「え、……あ、ああ」
 らしくもなく、和井田はたじろいだ。これが最近の若者のノリか? と訝りつつ視線をはずす。
 その視線が、ふと一点に吸い寄せられた。
「ん?」
「なんです?」岸本巡査長が問う。
 鑑識が床に並べたビニール製の証拠品袋を、和井田は指した。
「ありゃなんだろうと思ってな」
「言われてみれば不思議ですね。見たことがあるような、ないような」
 証拠品袋を透かして見えるそれに、巡査長も首をかしげた。
「干からびたチーズのかけら、でしょうか? まさか犯行直後に、犯人が冷蔵庫をあさった──とか?」
 言ってから、彼女は己の言葉を笑った。
「まさかですよね。だとしたら現場でアイスやメロンを食べた『世田谷一家殺人事件』ばりじゃないですか。そんな図太い犯人、そうそういませんよ」

「白石さん、ほんとうにありがとう。わたしじゃ脚立に登ったって届かないのよ。やっぱり男手があるとないとじゃ、大違いねえ」
「いえそんな」
 大げさな讃辞に、白石は頭を搔いた。
「ぼくなんて男手と呼べるかどうか……。こちらこそ園村先生には、いつもおすそわけをいただいちゃって」
 場所は、白石兄妹と同じマンションの一一〇七号室だ。「数日前から浴室の電球が切れて、困ってるの」と請われ、馳せ参じたのである。
 脚立を抱え、白石は浴室から出た。
 交換した古い電球は、住人である園村牧子に渡した。
 謙遜でなく〝男らしさ〟には縁遠い白石だが、百七十七センチの身長は、確かに電球交換にちょうどいい。
「ところで、こないだのゼリーありがとうございました。妹が歓喜してました。とくにブラッドオレンジが絶品で」
「いえいえ。この歳になると、それほど量は食べられませんからね。お中元は嬉しいものだけど、洋菓子のたぐいはどうしても余っちゃうの」
〝園村先生〟こと園村牧子は、このマンションの自治会長である。果子いわく「ダンジョンのラスボス」。副会長いわく「最終兵器」。
 そう呼ばれるだけの貫禄は、元教頭先生という経歴に裏打ちされたものだ。
 四十年近く市内の中学を異動し、教育に携わってきただけあって、その人脈と人望は絶大である。現に牧子と交流しはじめてから、白石はこのマンションでいちだんと暮らしやすくなった。
「水ようかんや、揖保乃糸の黒帯ならいくらあってもいいんだけど。あ、そうだ白石さん、梅酒いらない? 十年くらい前に漬けたやつが、ボトルごと余ってるのよ」
「十年ものの梅酒! ぜひいただきます」
 白石は目の色を変えた。
 アルコールは、兄妹ともにいける口である。ゼリーは果子にほとんど譲ってやったが、梅酒のほうは争奪戦になりそうだ。
「もう真っ黒になっちゃってね、どろどろで」
「素晴らしいじゃないですか。それがいいんです」
 強くうなずいたとき、白石のポケットで着信音が鳴った。最近ようやく契約したスマートフォンの電話アプリだ。「失礼します」とことわり、液晶を覗く。
〝例の番号〟からだった。
 思わず眉が曇り、口がへの字になる。牧子の前でなかったら、舌打ちしていたかもしれない。
 ──パン生地を叩きつけた苛立ちの、もうひとつの理由だ。
「出ないの?」
 牧子が問う。咄嗟に白石は噓をついた。
「あ、いえ……。登録外の番号からなんで、やめておこうかと」
「それがいいわね。最近は詐欺電話ばかりで物騒だから」
 二十回ほど鳴って、着信音は切れた。しかし数秒置いて、また鳴りだす。白石の顔が、さらに曇った。こめかみが、ちりっと痛んだ。
「白石さん」
 牧子が言った。
「出なさいな。──知ってる人なんでしょう?」
 白石はぎくりとした。
「え、いや、その」
「顔いろでわかりますよ」静かに牧子が言う。
 責めている声音ではなかった。
 なのに、白石は顔が上げられなかった。
「わたしはね、たいした人間じゃないけれど、観察眼にだけは自信があるの。そんな顔をするくらいなら、さっさと応対してケリを付けてしまいなさいな」
 このあと何度も、白石は「あのとき、園村先生と一緒でさえなかったら」と後悔することになる。
 園村牧子の家にお邪魔せず、彼女にああ言われてさえいなかったら、電話など無視しとおしたのに──と。
 しかし牧子のせいではなかった。最終的に決断したのは白石である。彼自身、それはよくわかっていた。
 だからこそそのとき、鳴りつづけるスマートフォンに白石は目を落としたのだ。
 液晶に表示された登録名は、父方の伯父だった。つい昨夜も、着信履歴に残されていた名である。
 ──両親が離婚して以来、ろくに会っていない父の実兄。
 父方の親戚にいい思い出はなかった。いやな予感しかしない。胸の奥が、ざわりと波立つ。
 だが意を決して、白石は画面をタップした。
「──はい。ええ、洛です。……どうも、おひさしぶりです」

 第一回捜査会議は、予定どおり七時にはじまった。
 雛壇には、東村係長が予告したとおりの幹部が並んだ。那珂警察署長と副署長。事件主任官を務める、本部の刑事課長補佐。そして副主任官の那珂署刑事課長。
 招集された警察官は総勢八十人と、なかなかの規模であった。
 那珂署のまわりにもマスコミが集まり、窓ガラス越しにもカメラのフラッシュや、中継車のライトがまぶしい。
「マル害が代表取締役だった『STエンタテインメンツ』に、世間の注目が集まっているようです」
 岸本巡査長が、和井田の耳にささやいた。
 雛壇と向かい合う捜査員用の長テーブルに、二人は並んで着いていた。
「『STエンタテインメンツ』は確かに弱小芸能プロですが、いま人気の若手女優が十歳前後のとき所属していたことが判明し、SNSなどで騒がれはじめたんです。センセーショナルな話題ですから、しばらくマスコミがうるさいかと」
「センセーショナル?」
「その……ええと、どこから説明していいか」
 岸本が言い終えぬうち、中央の演台から号令がかかった。
「気を付け!」
 その場の全員が立ちあがった。
「敬礼!」
 室内式の腰を折る敬礼ののち、「休め!」の号令でパイプ椅子に腰を下ろす。
 主任官だけは、座ることなくマイクを握った。
「えー、まだ仮称ではありますが、今回の『那珂男女殺害事件捜査本部』の事件主任官を命ぜられました。捜査員諸君、さっそくだが、現時点で判明した事案の概要を伝え、整理することとする。手もとの捜査計画書を参照しながら聞いてくれ」
 全員が、テーブルに一部ずつ配られた資料をめくった。六、七枚のコピーをホチキスで綴じた、簡単な資料だ。
 マイクが主任官から、演台の副主任官に渡った。
「では以後は、わたしから説明いたします。被害者は那珂市砲浪在住、角田精作さん、五十五歳。同居の内縁の妻、三須しのぶさん、五十三歳。死因はともに、複数の刺創による失血死でした。三須さんの両腕には多数の防御創があり、うち指二本は切断されかけていました。
 現場の状況から鑑みるに、犯人はガラス切りを用いて掃き出し窓から侵入。眠っている二人に強酸性のパイプ洗浄液を振りかけ、先に角田さんを刺殺。次に三須さんを刺したものと思われます。
 両名の身元を確認したのは、第一発見者です。角田さんが経営する『STエンタテインメンツ』の社員で、両名が出社しないため様子を見に来たとのことでした。その後、角田さんと三須さんの親族に連絡が付き、遺体を見ていただいたところ、正式な確認が取れました。
 推定殺害時刻は、午前一時から三時の間。現場は閑静な住宅地であり、時刻が時刻でしたので有力な目撃者はいまのところ見つかっておりません。また被害者宅に防犯カメラなどはありませんでした。
 凶器は未発見ながら、創口からして刃渡り十六センチの牛刀。創の深さから見るに、犯人は比較的非力な人物と思われます。また現場から採取できた下足痕は、二十四・五センチのスニーカーでした」
 ここで捜査員の一人が挙手した。
「非力で小柄な人物ということは、犯人が十代の可能性もありますね?」
 一同がわずかにざわめく。
「『STエンタテインメンツ』がらみかも、ってことですね」
 和井田に身を寄せ、岸本がささやく。
「インターネットで検索できた事実だけでも、該事務所はいかがわしい芸能プロです。所属タレントの大半が、九歳から十二歳。中には五、六歳の子どもまでいます。年端もいかない少年少女にきわどい水着を着せるのがメインの、いわゆるジュニアアイドル事務所です」
「えー、まだ犯人像の特定には早いかと」
 演台で副主任官が咳払いした。
「十代前半の少年の可能性も、女性の可能性も、老人の可能性もあるとだけ言っておきます。ではつづけます。
 現場は荒らされ、物色されていました。前述の第一発見者によれば、角田さん宅にはつねに二十万円から三十万円の現金があったそうです。また三須さんはネックレスや指輪、ピアスなど約百点を所持していました。この現金と、貴金属の大半が失われております。ただしブランドバッグ、時計などは手付かずでした。
 遺体の衣服や、現場で採取された指紋、微物については科捜研に送りました。同じく現場から発見できた被害者両名のスマートフォンとともに、分析中です」
 以上、と言いたげに副主任官がマイクを離した。
 ふたたび捜査員の間から、質問とも野次とも付かぬ言葉が飛ぶ。
「第一発見者は、信用できそうなやつですか? まずは裏取りからかな」
「マスコミ連中が邪魔です。広報担当から釘を刺してもらえませんかね」等々。
 そのすべてを、副主任官は「追ってお答えします」でさばいた。
 次いで捜査班の振り分けにかかる。
 現場周辺をまわって聞き込みする地取り班、関係者を調べて被害者の人間関係を洗う敷鑑班、遺留品を精査する証拠品班の、おおよそ三つに分けていく。
 和井田は敷鑑一班に割りふられた。
 相棒は引きつづき岸本巡査長だ。
「和井田部長、あらためてよろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
 うなずいてから、和井田は言った。
「ところで、そのかたっ苦しい敬語をやめてくれ。タメ口でこられても困るが、もうちょいラフに頼む」
「ラフですね。了解です」
「ほんとにわかってるか?」
「わかっています。本職、迅速な適応と対応には自信があります」
 きりりと答える岸本に、
「……まあいい、行くぞ」
 和井田はため息まじりに出口を指した。

 和井田たちが真っ先に会ったのは、『STエンタテインメンツ』の元社員だった。
 第一発見者となった社員を、角田に紹介した男でもある。ただし自身は、その数箇月後に退職したという。現在はちいさな不動産会社で営業をしているそうだ。
 会社を訪ねると、「いまちょうど帰るとこでした」とすんなり応じてくれた。駐車場に移動し、彼のカローラの横で話を聞いた。
「ニュース観てたまげましたよ。角田社長、ほんとに死んだんすか? いやー、まだ信じらんないな。日本が滅びても最後まで生き残りそうな、ゴキブリ並みのしぶとい人だと思ってたのに」
 三十代なかばの、軽薄そうな外見の男だった。
 安っぽいスーツと対照的に、腕時計だけがオメガだ。そして、ほんのすこしも悲しくなさそうだった。
「四年前まで、『STエンタテインメンツ』にお勤めだったそうですね」
 岸本巡査長が尋ねた。
「何年ほど、角田さんのもとで働かれたんですか?」
「十年くらい……いや、十二年か。まあ入社した頃は、おれも若かったすからね。羽振りのよさそうな角田社長に誘われて、ついふらふらっと」
「どのような業務を担当されていたんです?」
「おもにスカウトですね。けど社員がすくないもんで、マネージャー役も運転手も、基本はなんでもしましたよ」
「どうスカウトするのか、具体的にお聞かせ願えますか」
「具体的にって、うーん」
 元社員は首をかしげた。
「最近は猫も杓子もSNSをやるんで、声かけやすくなりましたけどね。自撮りしてる可愛い子に、ダイレクトメッセージ飛ばせばいいだけだから。けど十二年前は地道にやってましたよ。歩いてる目ぼしい子に声かけたり、あとは雑誌にオーディションの広告載せたり」
「オーディション、ですか?」
「もちろん大したもんじゃないすけどね。雑誌って言ったって、無料で配ってるタウン誌とかだし。けど『芸能プロ』って書いとくだけで、けっこう応募が集まるんですよ。世の中、馬鹿親……じゃなかった、親馬鹿が多いですからね。『うちの子はアイドルばりの美少女だ!』と思いこんでる親が、毎回釣れるんです」
 釣れる、の一言に、岸本の眉がぴくりと動く。彼女が不快感をあらわにする前に、和井田は素早く割りこんだ。
「扱ってたのは、ジュニアアイドルってやつらしいですね。すみませんが、そこから教えてもらえません? アイドルとジュニアアイドルってのは、いったいどう違うんですか。すみませんね。警察ってそういうの、全然詳しくないもんで」
 へりくだって問うと、
「あはは。それ普通です。アイドルもジュニアアイドルも、違いなんてわかりゃしないってのが普通。おまわりさん、めちゃ正常すよ」
 元社員は破顔した。
「『STエンタ』は、U-12メインのジュニアアイドル事務所なんです。わかります? U-12って」
「アンダートゥエルブ、つまり十二歳以下ってことでしょう。サッカーなんかでも使う言葉ですね」
 和井田が調子を合わせる。元社員は指を鳴らした。
「そう、それそれ。まあ百聞は一見に如かずで、どういうもんかは画像見りゃ一発でわかるんすけど」
 スマートフォンを取りだして操作し、和井田に向かって画面を突きだす。
 思わず和井田は、素早く横目で岸本をうかがった。女性が見て、けっして愉快ではない画像がそこにあった。
 十二歳どころか八、九歳にしか見えない女児が、ほとんど紐のビキニ姿で足を大きくひらいている。布地で隠れているのは、かろうじて乳首と局部だけだ。当然ながら、まったく凹凸のない体形である。
「それから、こんなのとか」
 つづいて表示されたのは男児の画像だった。同じく局部だけ隠れた極小の海水パンツを着け、カメラ目線で棒アイスをしゃぶっている。五、六歳に見えた。
 さいわい岸本は無表情を貫いていた。
 和井田は作り笑顔のまま、
「なるほど。ロリコン向けのグラドルってとこか。でも見せてもらっといてアレですが、商売になるほど需要あるんですかね?」
「ありもあり! 需要大ありですよ!」
 元社員が声を張りあげる。和井田は首をかしげた。
「へえ、おれはこの手の趣味がないんでわからないな。だって普通のグラドルと違って、雑誌やCMの仕事はないでしょう。写真集とかで稼ぐんですか?」
「写真集と、DVDね。あとはなんといっても撮影会と抱っこ会」
「撮影会?」
「有料イベントですよ。要するに料金徴収できる〝ファンの集い〟です。ファンたちが自前のカメラやスマホで、推しの子を撮影できるんです。ほら、AKBの握手会とかってあったでしょ? 向こうはアイドルと握手できるイベント、こっちはアイドルを撮影したり抱っこしたりできるイベント、ってわけ」
「発展形なんですね」
 和井田は笑顔を崩さず言った。
「ところでその『撮影会』の画像もあります? 後学のため見ておきたいな」
「ありますよ。ちょっと変態の領域入ってきちゃうけど……。はは、でも合法だし、時効なんで逮捕しないでくださいね」
 笑いながら元社員は再度スマートフォンを操作した。
 今度の表示画像は、さらに過激だった。
 マイクロビキニの女児に、カメラをかまえた数十人の男がむらがる画像。六、七歳の女児がみずからスカートをめくり、パンチラを撮らせている画像。はたまた超ミニスカートのアイドルと男たちがツイスターゲームで遊び、腋下やスカートの中を接写させている画像。
「ヤバいっしょ? はは。でも普段はお堅い公務員とか、娘持ちのお父さんとかが意外と多いんすよ。まいっちゃいますよね」
「ですねえ。でもそういや、いま人気の若手女優さんも『STエンタ』に所属されていたとか?」
 岸本から聞いた情報を、和井田はそらとぼけて訊いた。
「あ、もうバレちゃいました?」
 元社員が手を叩く。
「当然です。マスコミにもとっくに嗅ぎつけられてますよ。おかげで署のまわりがうるせえったらない。当時の彼女も、こういった撮影会に出たんですか?」
「出ましたよお。と言っても、もう十年以上前ですけどね。凜音ちゃんは顔立ちが大人びすぎてたから、U-12としちゃ逆に人気なくてね。焦った親御さんが人気出させようと、ガンガンきわどい仕事入れて……ほら、こういうのです」
 三たび、元社員が液晶を突きつけてくる。
「ああ、なるほど。これはまずいな」
 和井田はあくまでにこやかに応じた。応じつつ、元社員にぐっと顔を近づける。
「いちおう言っときますけど──この手の画像、新たに流出させないでくださいね? 面倒なことになりますから。厄介ごとは、お互い御免でしょう?」

 元社員を解放して駅に向かう道中、
「……さすがですね。和井田部長」
 ぽつりと岸本が言った。
「あ?」
「あんなやつの言葉、いやな顔ひとつせず、にこにこ聞いて……。わたしは無表情でいるのが精いっぱいでした」
「そりゃ、あの場でいやな顔なんぞしたら、あいつはしゃべるのをやめたろうからな。吐き気のする糞野郎でも、おだてなきゃいかんときはある。すべては犯人逮捕のためだ。大義のためならちょっとの間、節を曲げるくらいはなんてこたねえ」
「そういうところです」
 岸本は和井田を見上げた。
「そういうところが尊敬できると、三年前も思いました。和井田部長、あいかわらず素敵です」
「ありがとうよ。聡明な上に世辞も巧いな。岸本巡査長」
 にこりともせず和井田は言った。
「だが残念ながら、おれにはすでに心に決めた女性がいる。……現時刻は、ええと、九時ちょっと過ぎか。捜査初日からの泊まり込みは避けたい。あと一件聞き込みをして、今日のところは帰るぞ。いいな巡査長?」
「了解です」
 肩を並べて二人は歩きだした。

 次に二人が会ったのは、元社員の証言で浮かんだ同事務所の元幹部であった。
 かつては「角田社長の右腕だった」という彼は五十代で、現在は実家の跡継ぎとしてレタス農家を営んでいた。
「『STエンタ』にいた頃は、それなりに美味しい思いもさせてもらいましたけどね。でもあんなの、大の男が一生やる仕事じゃありませんから」
 よく日焼けした顔でにこにこと言う。朴訥な笑みは、とても元芸能プロの人間には見えなかった。
「ええ、九時台のドラマでいま話題の北凜音ちゃんね。あの子、おれがスカウトしたんですわ。うちにいた頃はいまいち人気者にしてやれんかったから、路線変えてよかったんじゃないですか」
「幼い頃から、顔立ちが大人びていたそうですね?」
 岸本が水を向けると、元幹部は得たりとうなずいた。
「そうなんですよ。素材は群を抜いてたんすけどねえ。けどアイドルってのは、容姿がいいだけじゃ人気出ませんから。一にキャラ立ち、二に愛想です。とくにジュニアアイドルはイベント主体ですからね、顔やスタイルがいまいちでも、神対応の子はコアなリピーターが付きます。凜音はその点、ファンのロリコンたちを、あからさまに嫌ってたからな」
「ほう。嫌いになるきっかけでも?」
「いや、わりと最初っからでしたよ。父親くらいの歳の男たちが、自分のパンチラや食いこみ目当てにむらがってくるのがキモかったんでしょ。『その塩対応が、クールでいい!』なんてファンもいるにはいましたが、やっぱり神薙ケイちゃんみたいな愛想いい子のほうが、おしなべて人気は出やすいです」
 元幹部は鼻を搔いて、
「まあ凜音はね、もともとアイドルになりたがってなかったし」
 と言った。
「アイドル志望じゃなかったんですか? 歌手のほうがよかったとか?」
 と岸本。
「いやあ。よくある話ですよ。本人はたいして乗り気じゃないけど、親のほうが血まなこってやつ。いわゆるステージママですね。凜音んとこは、典型的でした」
「わが子を有名にしようと必死、ってアレですか」
「それです。たとえば撮影会なんかでも、水着の取りあいがあるわけですよ。事務所はやっぱり人気の高い子順に水着を選ばせますからね。『ちょっと! うちの子にもっと食いこむ水着をちょうだいよ!』『あのTバック、狙ってたのに!』ってな感じで、親のほうが目の色変えるんです。『Tバックさえ穿けてたら、うちの子のほうがカメコ多かったのに!』なんてね」
「カメコ?」
「カメラ小僧の略です。ジュニアアイドルにカメラを持って殺到するファンたちのことですよ。大半は三十代から五十代で、小僧って歳じゃありませんが」
「ごじゅう……」
 岸本の頰がわずかに引き攣る。
 和井田は質問役を替わった。
「後学のためお訊きしたいんですが、本人より親のほうが熱心、というケースは、全体の何割ほどですか?」
「うーん、七割? いや八割強かな。本人たちは子どもですしね。注目されたりちやほやされるのが嬉しいってだけで、性欲のなんたるかもよくわかってませんから。その点、親たちはよーくわかってますよ。わかった上で、ジュニア期を足がかりにしてもっと有名にしようとする」
「なるほど。しかしねえ、おれたち素人から見ると、『もしのちのち売れたとしても、ジュニア時代の画像や映像がバレたら、トータルでマイナスなんじゃ……?』と思っちまいますね」
「はは。それが普通ですよ」
 元幹部は愉快そうに笑った。
「でもママさんたちはもう〝渦中の人〟ですからね。アイドル本人より、わがことになってしまってる。中にいると、視野が狭まって気づけないんです。目先の撮影会やイベントで、他の子よりわが子を目立たせることに躍起です」
「いま『ママさん』とおっしゃいましたね。やはり父親よりも、母親のほうが熱心ですか?」
「母親が九割ですね」
 元幹部はあっさり認めた。
「そこは、アイドルが女児でも男児でも同じです。みなさん驚くほど似かよってますよ。母親は中の上くらいの美人で、その昔アイドルに憧れた過去がある」
「かなわなかった自分の夢を、わが子に託すんですな」
「おそらくね。そして父親のほうは対照的に、家庭に無関心です。たまーに現場に付いてくることはあっても、たいがいわが子よりスマホ見てますね。娘がカメコにパンチラ撮られても、ふーんって顔してます。男児アイドルの場合なら、現場に父親が来ることはまずあり得ません」
「ふむ。ではもうひとつお訊きしたいんですが」
 和井田は笑顔のまま言った。
「かつてジュニアアイドルだった子たちが過去を後悔し、角田さんに脅迫まがいの真似をしたり、社員に危害を加えようとしたことはありますか?」
「ああ、そりゃまあ」
 元幹部がてきめんに口ごもった。
「でも、事前に契約書を交わしてますからね。さすがにそこはちゃんとしてますよ。だから、あとでゴネられたってねえ」
「いやいや、だからこそです。契約書を盾に取られ、法では苦情を言えないからこそ、強硬手段に出る元アイドルや家族もいたのでは?」
 和井田は言いつのり、
「北凜音とも、揉めてらっしゃったようだ」
 とかまをかけた。これは賭けだったが、元幹部は瞬時に顔いろを変えた。
「そんな……、凜音に文句言われる筋合いはないですよ」
 口をへの字に曲げ、吐き捨てる。
「あの子にひどいことをした覚えはない」
「ほう。では、どの子にならあるんです?」
 和井田は冷笑した。
 元幹部は一瞬ぐっと詰まり、すぐにそっぽを向いた。
「昔ですよ、大昔。──なんであれ、とっくに時効だ。だいたい『アイドルになりたい、有名になりたい』とむらがってきたのは向こうなんですよ。いっときでもいい夢見せてやったんだから、恨むどころか感謝してくれなきゃあね」

 和井田と岸本は、元幹部に礼を告げて質問を切りあげた。
 腕時計を覗くと、夜の十時をまわっていた。
「帰署して報告を済ませたら、今日のところは帰るぞ。これ以上社員をつついても益はなさそうだ。明日からは被害者側──じゃなかった、元アイドル側からの主張を聞くべきだろうな」
「マル害たちの家から、古いアドレス帳やタレント名簿が見つかったそうです。おそらくはその名簿からたどれるかと」
 岸本巡査長はうなずいてから、
「……どうも『STエンタ』は、ただのジュニアアイドル事務所じゃなさそうですね。写真集の出版だの撮影会だのより、もっとヤバいことをやってた気がします」
「同感だ」
 和井田は首肯して、
「北凜音とかいう子には悪いが、事務所の過去を掘りおこす必要がある。ふん。容疑の的を絞りきれんほどの怨恨が、ざくざく出てくる予感がするぜ」
 と顎を撫でた。

 翌日の午前九時十五分。
 白石は埃焼けした床に膝を突き、黙々と掃除し、ゴミをかたづけ、山のように積まれた本を整理していた。
 白石と果子の住むマンションではない。電車で四駅離れた街に建つ、一軒家だ。
 ゴミ屋敷というほどではなかった。しかし充分に埃くさく、黴くさく、蜘蛛の巣だらけだった。住人はものを捨てられないタイプだったらしく、古い家電、古い衣服、壊れた家具、とりわけ山のような蔵書が各部屋を埋めていた。
 ──父が、死の寸前まで住んでいた家だ。
 ふうと息を吐き、白石はひびの入った皿を段ボールに放りこんだ。
 伯父、つまり父の実兄との電話は簡潔に終わった。
「おまえのお父さんが、先々月に死んだ」
 まるで感情のない声で、伯父はそう告げた。
「遺体はこちらで直葬にした。初七日も、四十九日も済ませた。財産も借金もいっさい遺していかなかったから、面倒ごとはない。そこは安心してくれ。だがひとつだけ、相談がある」
 その相談とやらが、邸内の遺品整理についてであった。
 父が住んだこの家は借家なのだそうだ。一年ごとの更新で、契約は八月末日で切れる。だからして八月三十一日までに、すべての遺品を整理して引きあげ、家をある程度きれいにして明けわたさねばならない。
「すまんな。二箇月も経ってからの連絡で」
 伯父は言った。
「だが弟の遺言が見つかったんだ。『おれが死んでも、洛や果子には連絡するな。一人で静かに逝きたいんだ』とな」
「──ああ」
 白石は電話口で苦笑した。
「それは、父らしいですね」
 電話を切った白石は、その夜、夕飯の席で果子に話した。
 もう二十年以上会っていない実父の死。そして彼の遺品整理について、伯父から電話があったことを。
「伯父いわく、廃品回収業者やハウスクリーニング会社に頼んでおしまい、でいっこうにかまわないらしい。だがその前に、ぼくらの意向を訊いておきたかったそうだ。ほんとうに全部、事務的に処理してかまわないのか、と」
「お兄ちゃんは、どう思うの」
「ぼくは遺品整理と掃除くらいは、引き受けようと思ってる」
 その日の夕飯は、簡単に蕎麦にした。父の死を知ったせいか、さすがに食欲がなかった。
 自分のぶんはかけ蕎麦のみにし、果子には出汁巻きたまご、ほうれん草のごま和え、稲荷ずしの皿を添えた。ただし稲荷の油揚げは、市販品で手を抜かせてもらった。
「遺品整理、わたしも手伝うよ」
「馬鹿言え。おまえは仕事があるだろ」
 言下に白石は却下した。
 果子は忙しい身だ。毎日朝六時半に起き、八時にマンションを出て、会社から帰ってくるのは深夜だ。これ以上負担はかけられない。
「でも」
「でもじゃない」
 白石は言い張った。
「第一おまえは、ぼく以上に父のことを覚えていないだろう。……大丈夫だ。家事の合間にやれるから、おまえはなにも気にしなくていい」
 というわけで、白石はいまこの家にいる。
 エプロンを着け、ゴム手袋をはめ、顔の下半分をマスクと三角巾で覆い、わた埃や蜘蛛の巣と格闘している。
 借家は平屋ながら、五部屋もあった。うち一部屋は寝室、うち一部屋は食卓のある居間で、残りの三部屋は物置だった。たぶん物置のつもりはなかっただろうが、結果的にがらくたで溢れていた。
 トイレの床は、歩くとスリッパの裏がじゃりじゃり鳴った。浴室は湯垢と黴と、大量の抜け毛にまみれていた。
 台所には炊飯器もレンジもオーブントースターもない。かろうじて置かれた冷蔵庫の中では、食パンが黴の塊と化し、卵が腐っていた。
 ──両親が離婚したのは、ぼくが七歳のときだ。
 手を動かしつつ、白石はぼんやり考える。
 白石は当時、小学一年生だった。果子はまだ保育園児である。
 父と母は同僚だった。ともに有名製薬会社で働いていた。父は企画開発部の製剤研究室にいた。白石が知る限り、離婚後も転職しなかったはずだ。
 ──お父さんはね、すっごく優秀だったのよ。心から尊敬できる人だった。だから好きになったの。
 母から何度か聞かされた言葉だ。
 ──でも家庭人としては、駄目だった。父親としてもね。
 父は研究以外のことには、およそ興味のない人間だった。食べるものにも、着るものにも無頓着。流行りの曲や映画などには目もくれなかった。己の知能に絶対の自信があり、傲岸なほどだった。
 ──そういうとこが、クールでストイックに見えたのよね。
 しかし実際の父は、べつだんクールでもストイックでもなかった。すぐ不機嫌になり、子どものようにすねた。
 白石が覚えているエピソードのひとつに、こんなものがある。
 確か、お盆だった。父方の実家に、一家四人で墓参に向かったのだ。
 父は運転免許証がないため、ハンドルを握るのは母である。夏休みの常で、道路はひどい渋滞だった。
 渋滞にはまってわずか五分で、助手席の父は舌打ちと貧乏ゆすりをはじめた。低いつぶやきが、車内を満たした。
 ──だからいやだったんだ。こんなに暑いのに、こんなに人だらけなのに、なんで外に出るんだ。墓参りなんて馬鹿馬鹿しい。なにがお盆だ。非科学的だし、前世紀の遺物だ。
 ──墓参りなんかバーチャルで充分だ。親戚に会う必要性も感じない。時間の無駄だ。なんて無為な時間なんだ、くだらない。くだらない。くだらない。くだらない。くだらない。くだらない。くだらない。くだらない!
 やめて、と母が諫めると、一転して父は黙りこんだ。ふくれっつらで窓の外を睨み、その後はいくら母が機嫌をとっても無視しつづけた。
 白石は気まずかった。居心地が悪かった。
 どうしてお父さんはいつもこうなんだろう、と思った。隣のチャイルドシートで眠る果子を眺めながら、内心でうんざりしていた。
 その頃の白石の語彙に〝うんざり〟という言葉はまだなかった。だが心境はまさしくそれだった。父と一緒に行動すると、毎回その〝うんざり〟がやって来た。
 父はおよそ我慢というものを知らなかった。不遜でわがままで、子どもっぽかった。絶えず不機嫌だった。「不機嫌でいることは、おれの権利」とでも思っているようだった。
 母が父よりも子どもたちを優先すると臍を曲げ、母が風邪で発熱すると怒った。母に対抗するように自分も熱をはかり、
 ──見ろ。六度八分もある。おれは平熱が低いんだ。おれのほうが具合が悪い。おまえは八度七分? だからなんだ。母親のくせに熱を出すなんてたるんでる。おれの母さんは、熱なんか出したことはなかった。
 と癇癪を起こした。
 その父も母も、すでに亡い。
 固く絞った雑巾で畳を目に沿って拭き、白石は嘆息する。
 母は数年前に死んだ。そして父は、先々月この家で息を引きとったという。入浴中の心臓麻痺だった。
 発見したのは伯父の妻だったそうだ。彼女以外、この借家に近寄る者はいなかった。彼女もまた、夫の親類に振りまわされた人生だった。
 ──洛ちゃんは、大人ねえ。
 ──落ちついて、聞き分けのいい子だこと。
 子どもの頃、親戚たちによく言われた。父方母方を問わず、みな驚いたようにそう言った。その声音に、幼い白石は言外の含みを嗅ぎとった。
 ──顔はお父さん似なのに、中身は似なかったのね。
 ──数彦さんより、この子のほうがよっぽど大人だわ。
 ──数彦さんの奥さんも大変ね。子どもより厄介な〝大きな長男〟を抱えて。
 白石は複雑だった。誉められて嬉しい反面、父が恥ずかしかった。
〝大きな長男〟は、実際に親戚たちの口から洩れ聞いたフレーズである。父のことだ。四十を過ぎた父が、母に幼児のように世話されているのを見て、誰かが嘲笑まじりに言ったのだ。
 ──あの家には、子どもが三人いるのね。
 と。
 離婚したあと、父は家政婦に家事を頼んでいたらしい。
 しかし家政婦相手にも癇癪を起こすので、何度も人が替わり、しまいにはブラックリストに入れられた。
 しかたなく伯父の妻が一人で面倒を見ていたが、彼女とも仲たがいした。
 その後は孤独だったようだ。この借家を追いだされなかったのが、不思議なくらいである。
 白石はバケツを引き寄せ、真っ黒になった雑巾をゆすいだ。バケツの水はどろどろに濁り、埃や虫の死骸が浮いた。
 水を替えに、白石は立ちあがった。
 早くも腰が痛い。腕の筋肉が悲鳴を上げつつある。
 はじめのうちは「まずは本を分類し、整理して、売れるものとそうでないものに分ける。箱ごとに食器なら食器、小物なら小物と分けて詰め、必ず緩衝材を──」などと考えていた。
 しかし小一時間格闘したいまならわかる。無理だ。とうてい仕分けなどしていられない。掃除して、がらくたを箱に詰めるので精いっぱいだ。
「……いまだけでいいから、和井田並みの体力と腕力がほしい……」
 愚痴りながら、白石は洗面台にバケツの汚水をあけた。

『那珂男女殺害事件』の第二回会議は、予定どおり朝九時にはじまった。
 昨日と同じく、副主任官が司会を受け持つ。
 和井田と岸本は、長テーブルの二列目に陣取った。演台のほぼ真ん前と言える、特等席である。
「えー、鑑識および科捜研から上がった情報を、ひとまず報告いたします。現場から、被害者両名のものではない少量の血液を採取できました。おそらく刃物をふるった際、柄を持つ手が血ですべり、刃で傷つけたものと思われます。こちらの血液は科捜研に送付済みで、DNA型を割りだしてもらう予定です。
 また洗面所の蛇口、金庫のダイヤルからも、血液と指紋を採取しました。前者は手を洗ったとき、後者は金庫を開けようとして付いたものでしょう。ただし暗証番号がわからなかったようで、金庫の中身は手付かずでした。中身は土地家屋の権利書、通帳、実印、借用書、債券などです」
 副主任官は言葉を切り、眼鏡を押しあげた。
「指紋は過去のデータにヒットなし。血液、指紋および下足痕は、マル害と第一発見者を除けば各一人ぶんしか見つかっておらず、現段階では単独犯と推定されます。下足痕の靴と、犯行に使われたパイプ洗浄液については、証拠品班からお願いします」
 前列の捜査員を手で示す。
 指された捜査員が立ちあがり、替わってマイクを持った。
「証拠品一班より報告いたします。靴裏の文様からして、下足痕はM社のゴアテックスタイプと特定できました。サイズは二十四・五センチ。県内の販売店舗は、追ってリストアップします。
 またパイプ洗浄液は、P社の製品でした。こちらは粉末と液体の両製品あり。液体のほうは医薬用外劇物指定でないため、ホームセンターなどで簡単に買えます。主成分は水酸化カリウムで腐食性。皮膚に付着すると、発赤、痛み、水疱、重度の熱傷などを引き起こします」
 正面のプロジェクタースクリーンに、被害者両名の顔面が大写しになる。
 広範囲の皮膚が、はっきりと赤くただれていた。よく見れば、目のまわりのただれがとくにひどいとわかる。最初から、目を狙って振りかけたのだ。
 ──こりゃあ、予想以上に計画的だな。
 和井田はひとりごちた。
 犯人は小柄で非力な人物らしい。対する被害者両名は、どちらも肥り肉だった。
 三須しのぶは身長約百六十センチ、体重は推定七十五キロ。角田精作は身長百七十五センチで、推定九十キロだ。
 ──まともに向かってかなう相手じゃない。だから、まず目をつぶした。
 怨恨でないなら、そうとうに冷酷な犯人と言える。
 腐食性とわかっている洗浄液を他人の顔面にぶちまけるのは、普通の人間ならば、つい本能的にためらう。
 その点、この犯人はいたって手際がよかった。掃き出し窓をガラス切りで切り、鍵を開け、被害者たちが気配で目を覚ます前に洗浄液を振りかけている。逡巡も迷いもないからこそ、なし得た犯行であった。
 証拠品班の捜査員がマイクを副主任官に返した。演台を降り、もとの席に戻る。
 副主任官が咳払いして、
「つづけます。えー、殺害現場となった角田邸内からは、被害者両名のスマートフォン各一台、ノートパソコン一台を発見、分析中であります。いまのところ確認できているのは履歴のみですが、角田さんのSMS履歴から、複数の女性と性愛関係にあったことが認められました」
 捜査員の間から、嘆息に似た声がいくつか洩れた。
「えー、お静かに。SMSの内容からして、お相手は角田さんが経営する芸能プロダクションの、所属タレントの母親たちと思われます。現在確認できている相手は三人ですが、今後増える可能性もあります。また角田さん宛てに、脅迫めいたメールを送っていた人物も、いまのところ二人確認できました」
「三須しのぶのほうはどうした?」
 前列から、ベテラン捜査員が野次とも質問とも付かぬ声を飛ばす。
 副主任官はじろりと彼を見て、
「三須しのぶ〝さん〟な」
 と短くたしなめた。マイクを持ちなおし、
「えー、三須しのぶさんのスマートフォンの履歴からも……」
 言いかけた言葉が途切れた。会議室の引き戸が、突然開いたせいだ。入ってきたのは背の高い白衣の男性だった。
 男性は幹部が居並ぶ雛壇に駆け寄り、主任官になにやら書類を渡した。ただごとではないと見た副主任官が「失礼」と言い、マイクを離す。
「あの白衣の人、科捜研の研究官ですね」
 岸本が和井田にささやいてくる。
「なにかあったようだな」
 和井田もささやきを返した。
 数分、雛壇での話し合いがつづいた。主任官の眉間に皺が寄っている。副主任官の顔には戸惑いがあった。
 やがて副主任官が演台に戻り、マイクを握った。
「えー、失礼。ただいま入った情報をお知らせします」
 表情に、いまだ困惑が濃い。
「現場から採取できた微物のうちひとつに、不可解──というか、奇妙な点が浮かんだようです」
 科捜研の職員がプロジェクターを操作する。スクリーンに証拠品袋が映しだされた。
「和井田部長」
 岸本が身を寄せてくる。
「おう」
 和井田は唸るように応じた。間違いない。つい昨日、岸本が「干からびたチーズのかけら」と評した採取物であった。
 副主任官が書類をめくり、
「科捜研が分析した結果、こちらは死蝋化した人体組織だったそうです」
 と言った。
「えー、死蝋とは蝋状に変化した死体を指します。死体が水中や水分の多い土中にあって空気との接触を断たれると、脂肪酸が生じ、カルシウムやマグネシウムと結合して石鹼様、チーズ様、石膏様になります」
 スクリーンの画像が切り替わった。
 ふたたび捜査員の間から、ざわっと声が起こる。
 それは、ひどく醜いマネキン人形に見えた。ミイラにも見えた。同時に、激しく損壊された遺体にも見えた。唇はなく、歯列が剝きだしだった。全体に黒ずんでいながらも、人体にはあり得ぬ、つるりとした奇妙な質感をたたえている。
「こちらはあくまで参考資料です。現場にあった採取物は──おそらくこれほど古くないため、やや白っぽいチーズ様だったと思われます」
 説明しづらそうに、副主任官は言った。
「ちょっと待て」
 さきほど声を上げたベテラン捜査員が、挙手した。
「それはつまり、犯人が現場に死蝋のかけらを落としていったってことか? それとも角田邸にもともとあったもんなのか? 被害者たちもしくは犯人は、死体コレクターなのか? 死蝋ってのは一朝一夕にできるもんじゃねえぞ。人体組織が蝋状に変質するからには、そうとう古い死体のはずだ」
「いまの段階では、なんとも言えません」
 副主任官は封じるように声を張りあげてから、
「……いまのところ、ほかに死蝋や死骸があったとおぼしき痕跡は、邸内から見つかっておりません。あらゆる可能性を視野に入れて捜査していく方針に、今後も変更はありません」
 と締めくくった。

 会議を終え、それぞれの捜査班がそれぞれに散っていく。
 その前に、和井田は東村係長に呼び止められた。
「和井田。金庫から見つかった借用書の相手や、角田の不倫相手については庶務班に整理させておく。今日は予定どおり、『STエンタ』の元アイドルや家族からたっぷり聞き込みしてこい。どうやら今回のマル害たちは、叩けば叩くほど濃ゆーい埃を出してくれそうだ」
「了解です」
 和井田は首肯し、岸本をうながして会議室を出た。

 和井田と岸本は、北凜音の叔母に会った。凜音の実母の妹である。
 叔母一家が住む家の三和土で、三人は話をした。
「凜音のところには絶対に行かないでください。あの子、いまが大事な時期なんです。代わりにわたしがなんでも答えますから」
 そう言いながら、叔母は頰を硬くしていた。
 凜音の両親はしばらく前に離婚したらしい。父親は再婚済みで、母親は富山の実家へ戻った。現在はこの叔母が、凜音の母親代わりだという。
「ではまず、なぜ『STエンタテインメンツ』に凜音さんが所属することになったのか、そこからお聞かせください」
 岸本が言った。叔母は無意識のように額を拭って、
「きっかけは、スカウトだったと聞いています。姉──つまり凜音の母親と二人で繁華街を歩いているとき、声をかけられたそうです。姉はそれで、有頂天になってしまって……以来、『凜音を有名アイドルにするんだ!』と躍起でした」
「スカウト以前はどうだったんです? その前は、アイドルにはまるで興味なかったんですか? それとも前々から野心はあった?」
「後者、ですかね」
 叔母は歯切れ悪く言った。
「話がさかのぼりますが……そもそも、わたしたちの母が厳しい人だったんです。衿ぐりの広いTシャツは駄目だとか、膝が出るスカート丈は駄目だとか。可愛い服なんて、買ってもらえたことはなかった。自分のお小遣いやバイト代で買っても、やはり叱られました。わたしはそんな母に反抗しましたが、姉は言いなりでしたね。
 その反動でしょうか、凜音が生まれた途端、姉は可愛い子ども服を山ほど買いこみ、凜音を着せ替え人形にしました。また凜音も、両親のいいとこどりみたいな可愛い子に生まれたものですからね、なにを着せても似合ったんです」
「スカウトされたとき、凜音さんはいくつでした?」
「八歳だったと思います。小学二年生ですね。デビューは、その半年後くらいだったでしょうか」
「やはり水着などを着てのデビューですか?」
「ええ……」
 叔母はうつむいた。
「そのデビュー写真を見たとき、あなたはどう思われました? 正直なところをお願いします」
「正直言うと、そりゃ、引きました」
 額の汗を拭う。
「大はしゃぎの姉には『すごいね、可愛いね』としか言えませんでしたけど。ふくらんでもいない胸に、ほんのちょっとの布地が張りついたような水着で……。なのに姉は気にするどころか、『次はもっとエッチなのを着せてもらうわ。そのほうが人気が出るんだから』なんて鼻の穴をふくらませてました。どうしちゃったんだろうと、こっちが怖くなったくらいです」
「凜音さんの父親は、反対しなかったんですか?」
 岸本は前傾姿勢になった。
「普通の男親なら、娘のそんな姿は不愉快だと思いますが」
「いえ、お義兄さん──正確には元義兄ですが、あの人はまるで無関心でした」
 叔母の顔に、はじめて薄い苦笑が浮かぶ。
「お仕事が忙しかったとか?」
「公務員でしたから、残業があっても七時には帰ってたみたいですよ」
 突きはなすように彼女は言った。
「というか公務員だからこそ、母がお見合いに乗り気になったんです。姉本人の意思よりも、母の意向が強い結婚でしたね。絆の薄い夫婦でした。だからよけい、姉は凜音の活動に入れこんでしまったんでしょう」
「失礼ですが、お姉さんは専業主婦でいらしたんですか?」
「パートの事務員でした。と言っても週五日で、九時から四時まででしたから、ほぼフルタイムと変わりないかと」
「では彼女は毎日のパートと、家事育児、そして凜音さんのステージママもこなしていらした?」
「ですね。でも当時の姉にとって、凜音のステージママをすることは、息抜きだったと思います。生き甲斐、と言ったほうがいいでしょうか。すくなくとも充実していたし、現実を忘れられたんだと思います」
「凜音さん本人はどうでした? ジュニアアイドルであることを楽しんでいましたか?」
「それは……いえ」
 わかりやすく眉が曇った。
「八、九歳の頃は『ママが喜ぶから頑張ろう』くらいの感覚でした。でも十歳を過ぎれば、子どもでもだんだんわかってくるじゃないですか。小四くらいからは、はっきりといやがってましたよ。うちに家出してきては『イベントいやだ、キモい』『変な水着もいや。学校でからかわれる』って愚痴ってました」
「凜音さんは、いくつまで『STエンタ』にいたんです?」
「小六でやめたから、十二歳までですね。姉はつづけさせたがったけど、凜音がいやだと言い張ったんです。生き甲斐をなくした姉は、一気に老けこみまして……」
 叔母はため息をついた。
「姉は、鬱になりました。朝起きられなくなり、家事ができなくなった。義兄はそんな姉を怒鳴りました。一方の凜音は『自分のせいだ』と落ちこみ、自傷をはじめ……。わたしが保護しなかったら、あの子はどうなっていたかわかりません」
 唇をきつく嚙む。
 和井田はそこで割りこんだ。
「『STエンタ』をやめるときは、引きとめられませんでしたか? 社長と揉めたようなことは?」
「凜音はさほど人気がなかったので、強く止められはしなかったです。ただ」
「ただ?」
「そのう……『最後だから、映画を撮ってみない?』という誘いは、あったようです。姉は心を動かされたようでしたが、凜音が拒みました。どうも凜音は、それがどういう映画なのか、ほかの女の子たちから聞いて知っていたようで」
「ポルノ映画、ということですか」
 和井田の目が光った。
「そうです。『STエンタ』ではなく、知人の制作会社が撮るという建前でしたが、どう考えても……ですよね。ともかくそこで凜音が『絶対に出ない』と言い張り、『STエンタ』とは縁が切れました」
 だが余波は残った。凜音の母が鬱になったことを機に、夫婦仲は一気に悪化した。
 凜音が中二のとき、彼らはついに離婚。療養のため、母親は実家に帰った。父親は、離婚後すぐに見合いで再婚した。
 父親は心身ともに健康だったが、凜音を引きとりたがらなかった。しかたなく彼女は、高校卒業までを叔母の家で過ごした。叔母のもとには娘が二人おり、さいわい姉妹同然に仲がよかった。
 凜音はその後、本人の希望で劇団に所属したという。本格的に演技を学び、十九歳で再デビューできた。
 現在は二十三歳で、実力派の若手として注目を浴びつつある。
「いまの凜音の姿こそ、姉に喜んでほしいんですけどね……。でも姉は『あんなの、わたしの娘じゃない。ああなってほしかったんじゃない』と拒否しつづけています。姉は角田に心酔していましたからね。角田抜きで成功した凜音を、『憎たらしい』と言うことすらありますよ」
 叔母の頰が歪んだ。
 和井田は息を吸いこんだ。ここからが本番である。
「では角田精作が殺されたと聞いたとき、あなたはどう思われましたか?」
「どう、って」
 叔母が小首をかしげる。
「そりゃ驚きはしましたよ。けど反面、納得でしたね。ああそうか、殺されたんだ、やっぱり……という感じでした」
「と、言われますと?」
「だってねえ、うさんくさい人でしたもの。子どもを使ってあんな商売をするような人、まともな死にかたはできないでしょうよ。うちの凜音はさいわい回避できましたが、例の映画に出てしまった子も、すくなくないようですし」
「その映画に出た子のお名前はわかりますか?」
「フルネームはわかりません。でも凜音が『ツボミちゃんとか、メルちゃんは撮らされた』と言ってましたね」
「ツボミちゃん、メルちゃんというのは芸名でしょうか?」
「わかりません。わたしはそこまで業界にかかわっていなかったし」
 叔母が頰に手を当てる。その手に傷はなかった。両手ともきれいなもんだ、と和井田はひとりごちた。
 犯人は手に切創を負ったはずである。「ポルノ出演を回避できた」というのは噓で、売り出し中の姪のため証拠隠滅しようと犯行に及んだ──という筋書きも考えられるが、手に傷がないのでは犯人たり得ない。
 ──今後の捜査で北凜音のポルノ出演が判明したら、わからんがな。
 ともあれこの家の誰かが犯人だとしても、身元は全員しっかりしている。容易に逃亡できる身ではない。
 最後にアリバイを確認し、和井田たちは叔母の家を離れた。

10

「もう昼だな。牛丼でいいか?」
「もちろんです」
 外まわりをする捜査員の食生活は、お世辞にも豊かではない。牛丼、立ち食い蕎麦かうどん、コンビニのおにぎり、菓子パンのローテーションだ。とにもかくにも、早く食えることが大事である。
 和井田は牛丼の大盛り、岸本は並盛り。無料の味噌汁と水で、流しこむように食べはじめた。
「和井田部長」
「ん?」
 岸本が指すほうを見やる。テレビだった。
 映っているのは昼どきのワイドショウらしい。若い女性が壇上でフラッシュを浴びている。
「北凜音ですよ。『STエンタ』の件で記者会見してるみたい」
「ほう」
 和井田は牛丼をかき込みながら、北凜音の手を見た。無傷だ。マイクを握った両手は真っ白で美しかった。爪が割れた様子もない。
 そこで突然、ニュースが切り替わった。
 男性のニュースキャスターが大写しになる。
「速報です。茨城県大洗町のコンビニ駐車場にて、女子中学生五人が突然刃物で襲われ、一人が死亡、四人が重軽傷を負うという事件が起きました。犯人は刃物を持ったまま、いまだ逃走中……」
「おいおい」
 思わず和井田は丼を置いた。
「大洗町で無差別殺傷? いや、まだ無差別と決まったわけじゃねえか。昨日の今日で、また捜査本部が立つのかよ」
「大洗なら捜本設置は水戸署ですね。本部の捜一はいま、どの班が待機……」
 でしたっけ、と言いかけた岸本の声が、着信音でかき消された。
 和井田のスマートフォンだ。
 液晶を覗く。牛丼屋に入る前に、捜査本部に入れたメールの返事だった。ほかの客には聞こえぬ程度の小声で読みあげる。
「マル害宅にあったタレント名簿に〝森長つぼみ〟と〝姫野メル〟の名があったそうだ。どちらにも赤ボールペンで囲いあり。森長つぼみは本名だが、姫野メルは芸名で、本名は肥田野芽衣。住所と連絡先は……変わっていそうだが、近所に訊いてまわりゃあ、なんとかなるか」

 だが残念ながら、森長つぼみは数年前に自殺していた。
 連絡が付いたのは、つぼみの三歳上の兄であった。彼が二十七歳だというから、つぼみは生きていれば二十四歳のはずだ。
「『STエンタ』の社長、殺されたんですね。まあ、自業自得でしょ。むしろ長生きしすぎたくらいです」
 自動車ディーラーで整備工をしている兄は、三十分休憩を取り、淡々と答えてくれた。軍手をはずしたその手に、やはり傷はなかった。
「つぼみは六歳から九歳まで、『STエンタ』でジュニアアイドルをやってました。一番ちやほやされたのは、六歳から七歳の間くらいかな。おれもガキだったんで、『妹が芸能人なんてすげーじゃん』くらいしか思ってませんでした。けど、いま思うとヤバすぎですよね。六、七歳の子どもに食いこみ水着を着せて、変態どもに写真売ってたんですから」
 彼は顔をしかめ、
「同僚に娘持ちが何人かいますけど、六、七歳なんて赤ちゃんみたいなもんですよ。この歳になると、あらためて気持ち悪りいや」
 と声を落とした。
「妹は、言っちゃなんだけど、そんなに可愛い顔立ちじゃなかったです。子どもらしい顔はしてましたけどね。七歳まではその層のタレントがすくないんで、そこそこ売れました。でも八歳越えると、やっぱ容姿が可愛い子に人気が集中するんですよ。和泉沢なんとかちゃんみたいな、演技派は別としてね。悩んでたとこへ、角田の知人とかいう男が持ちかけてきたわけです。
『つぼみちゃんは演技のほうが向いてると思う。撮影費用は出してもらわなきゃいけないけど、どうです、映画に出てみませんか』
 なんてね。その撮影費用がいくらだったと思います? 百五十万ですよ。さすがに母も迷ったみたいだけど、『お子さんが有名になるための必要経費です』なんて言われて、払っちまった」
 兄の声は、苦渋に満ちていた。
「両親はその頃、はっきり言ってうまくいってなかったです。あからさまに不仲でした。母は、おれとつぼみに期待するしかなかったんでしょうね。おれを馬鹿高い塾に行かせ、つぼみをアイドルにしようと必死だった。そのために、夜中まで働いてました。父はよそに女がいたらしくて、ろくに帰ってもこなかった」
「映画のほうは、どうなったんです?」
 岸本がおそるおそる、というふうに問う。末路はわかっていたが、訊かぬわけにもいかない。
「いちおう、出来あがりましたよ。……エロDVDでした。どうりで母を撮影場所に立ち入らせなかったわけだ。たった九歳の妹を、大人たちがよってたかっておだてて、脱がせて……。どんな内容だったのか、おれたち家族が知ったのは、DVDが市場に出まわってからです。
 その頃には角田の知人や制作会社とは、とっくに連絡が取れなくなっていた。母は百五十万むしられた上、娘のポルノを撮られたんです。角田に抗議しても無駄でした。『STエンタの仕事じゃないんで、そう言われても困る』『うちとは関係ない』の一点張りでね」
「つぼみさんは、その後は?」
「当時はわかってなかったみたいです。小学校こそ一回転校しましたが、中高時代は普通に過ごしてましたね。でも……」
 兄は言葉を詰まらせた。
「十七歳のとき、あいつに彼氏ができたんです。ほんとうに好きな相手ができて、なんというか、相手といい雰囲気になったとき──フラッシュバック、っていうんですか? 撮影のときの記憶が、急によみがえったらしくて」
 その日以降、つぼみは人が変わってしまった。呻くように兄は言った。
「あたしは汚い、汚い」「死にたい」と繰りかえし、自傷するようになった。彼氏ともうまくいかなくなった。
 腕は、リストカットやアームカットの傷跡だらけになった。精神科にも通わせたが、めざましい回復はなかった。
 そんな娘の姿に、父は「おまえがアイドルなんかやらせるから」と母を責めた。
 母は「あなただって止めなかったじゃない。なによ、家のことなんかほっぽらかして浮気してたくせに」と怒鳴りかえした。
 つぼみが死んだのは、十九歳の秋だ。
 部屋のドアノブにビニール紐をかけ、縊れ死んでいた。
 両親は離婚した。当時大学四年生だった兄は、就活どころか、ショックで外にも出られなくなった。
 休学して精神科に通ったが、結局は復学できずに除籍になった。その後も人と向き合う仕事には就けず、一人で作業できる整備工を選んだという。
「……父の言うことも、一理あるんです。確かに母は馬鹿でしたよ」
 兄はため息とともに言った。
「でもおれは、母を嫌いにはなれない。逆に父のことは、はっきり嫌いですね。母は馬鹿なりに、子どもに対して一生懸命でした。父は……なんだろうな、空気? いや空気ですらなかったです。〝いるけど、いない人〟って感じでした。家の中にいるときでも、父は〝家庭〟の中にはいなかった。つぼみがああなっても、最後まで逃げつづけた。かかわろうとせず、ただ母を責めるだけだった。つぼみの一周忌にも三回忌にも、あいつは顔を出しませんでした」
 気づけば〝父〟が〝あいつ〟になっていた。
 現在、彼は実家の近くで一人暮らしをし、週に二回ほど母親の様子をうかがいに通う日々だという。
 父親は音信不通で、どこでなにをしているかも知らないそうだ。

 和井田たちは次いで、肥田野芽衣の元同級生から話を聞いた。
 芽衣は現在、消息不明だという。
「小学一年から四年までかな? 子どもなのに、グラビアアイドルみたいなことしてました。陰ではけっこう悪口言われてましたよ。わたしも母に『あの子と仲よくしないで』って言われたし……。だってほら、普通のアイドルじゃなかったですもん。歌手とかならうらやましいけど、あれじゃねえ」
 言いづらそうに、しかし率直に元同級生は話した。
「はい。小学生のときにエッチDVDを撮ったんですよね。知ってます。ネットに流れたのを、データごと学校に持ってきた男子がいて……。芽衣ちゃん、それで学校に来なくなっちゃったんです。わたし、プリントとか何度か持っていきました。でも顔見せてくれたことは、一度もなかったな」
 その後、芽衣は不登校をつづけた。中学校には一日たりとも登校しなかった。
 一家は芽衣が十六歳のとき転居していったが、近隣の誰にも告げぬ、夜逃げ同然の引っ越しだったという。
「去年の同窓会で、芽衣ちゃんの話題が出ました。AV女優として、二本くらいDVDを出したみたいです。確かなのはそこまでで、いまは風俗にいるとかなんとか、変な噂ばっかり。元気なのか、死んでるのかもわかりません」
「あなたの目から見て、芽衣さんのご両親はどんな方でしたか?」
 岸本が問う。
「お父さんは、宗教に熱心な人でした。いわゆる二世信者っていうんですか? そっちにばかり熱心で、芽衣ちゃんに関心なかったです。お母さんは宗教のことを知らずに結婚した、って噂でした。お姑さんと旦那さんに『信心しろ』って言われるのがいやで、よけい芽衣ちゃんの芸能活動にのめりこんだとか」
 約十年前の転居には、姑も付いていったという。
 肥田野家はいまも空き家のまま、寄りつく人もなく荒れ放題だそうだ。

「どこの家も、似たりよったりなのが不思議ですね」
 コンビニのイートインスペースで、岸本がコーヒー片手に嘆息した。
「母親がアイドル活動に躍起で、父親は無関心。夫婦仲はよくない。なんだか家庭の問題を、娘の活躍で埋めあわせようとした感じ」
 時刻はすでに七時を過ぎた。
 会社帰りらしいスーツ姿の男女で、店内は混みあっていた。弁当やホットスナックが静かに、だが飛ぶように売れる。疲れ顔の女性が度数の高い缶チューハイを買い、せかせかと早足で出ていく。
「──〝いるけど、いない人〟か」
 アイスコーヒーを呷って、和井田はつぶやいた。
「森長つぼみの兄が言った言葉だ。『家の中にいるときでも、父は〝家庭〟の中にはいなかった』か。わかる気がするぜ。その場に存在はしていても、輪の中にいないんだ。父親に限らず、反抗期の少年少女も家庭でそうなりがちだな」
「警察にもいますよ」
 すまし顔で岸本が答える。
「在籍はしてても、いないも同然の空気署員」
「確かに」和井田は苦笑した。
「意外と辛口だな、岸本巡査長」
「新たな魅力を和井田部長に見せようかと」
「そいつはもっといい相手のために取っておけ。──おっ、捜本からだ」
 内ポケットで鳴ったスマートフォンを、和井田は取りだした。メールではなく電話の着信だった。
「こちら敷イチ。……はあぁ? なんだと?」
 和井田の形相が、みるみる険悪に変わった。

11

 三時のアラームが鳴った。
 浴室の外に置いておいた、スマートフォンのアラームである。
「もう、そんな時間か……」
 白石は床のタイルに手を突いて立ちあがり、固まった腰を伸ばした。その場で四、五回屈伸する。背中や膝の関節がぽきぽき鳴った。
 アラームを設定しておくのは、園村牧子のアドバイスであった。
「遺品整理だの大掃除だのは、つい根を詰めすぎて時間を忘れがちだから、必ず休憩を取るようにね。アラームをかけておくといいわ。水分補給も忘れずに。初日から飛ばすと、あとがつづかないわよ」
 と重々注意されたのだ。
「さすが園村先生。助言がいちいち的確だ……」
 ひとりごちながら白石は脛を拭き、足の裏を拭き、そのタオルを出口に敷いてから浴室を出た。この家にはバスマットすらないのだ。
 ──バスマットもなく、浴室用洗剤もない。
 父はこの家でどんな暮らしぶりだったのだろう。白石はあらためて思った。自然と、バスタブを振りかえる。
 ──あのバスタブで、父は死んだんだな。
 さいわい、遺体の発見は早かったそうだ。湯はすっかり水になり、浸かったままの父は皮膚こそふやけていたものの、低気温のおかげで腐乱はなかったという。
 遺体はともかく、この浴室はひどい状態だった。
 排水口は、髪の毛や脂でどろどろに詰まっていた。浴槽は垢がこびりついていた。床も天井も黴だらけで、鏡はどう擦っても曇りが取れなかった。
 蛇口の上のカウンターには、ボディソープもシャンプーもない。かろうじて、ちびた石鹼だけが石鹼箱に残っている。あとはT字剃刀と軽石があるのみだ。剃刀の刃は、茶いろく錆びていた。
 ──両親の離婚は、ぼくのせいか?
 白石の脳裏を、そんな思いがよぎった。
 ──父がこんな汚らしい浴室で、一人きりで死んでいかねばならなかったのは、やはりぼくのせいなんだろうか?
 かぶりを振って疑念を払い落とし、白石は縁側へ向かった。
 板張りの縁側はすでに雑巾がけし、雨戸を開けはなしてあった。
 庭も草ぼうぼうでひどいものだ。虫よけスプレーをあたりに撒いてから、白石は保冷バッグを置き、板張りに腰を下ろした。
「草刈りもしなくちゃな……。鎌である程度刈ってから、除草剤を撒けばいいのか? あとでネットで検索しよう……」
 独り言を言いつつ、保冷バッグから水筒を取りだす。
 中身は朝に淹れたアイスティーだ。ステンレス製のコップに注ぎ、ぐっと呷る。よく冷えて美味かった。アールグレイ特有の、柑橘の風味が鼻から抜けていく。
 荒れ放題の庭ではあるが、すくなくとも緑は豊かだった。さっきまで見ていた黴や水垢よりは、数百倍目にやさしい。
 どこかで土鳩が鳴いていた。名も知れぬ雑草が、薄黄いろの可愛らしい花を咲かせている。
 二杯目のアールグレイを楽しんでから、白石は保冷バッグからタッパーウェアを出した。こちらも早朝に仕込んでおいたものだ。
「長い作業は低血糖を起こしますからね、おやつを持っていきなさい。面倒なら、飴玉や一口チョコでもいいから」
 との、これまた牧子の助言を容れた結果だった。
 ただしタッパーの中身は飴玉でもチョコでもない。切り分けてラップに包んだ手製のバナナパウンドケーキである。
 ラップを剝がすと、まずバニラエッセンスの香りがし、次にアーモンドプードルの香りが立ちのぼった。
 最近は砂糖もバターも使わない健康志向のケーキが流行りらしい。しかし白石はあえて、バターも砂糖もたっぷり、生クリームも使うどっしり系のケーキを焼いた。
 ──一日じゅう這いずりまわって働くんだ。これくらいのカロリーは取らなきゃ身が持たない。
 というか、やってられない。
「甘い。美味い……」
 丈高い雑草を眺めながら、しみじみと味わった。
 ケーキの三分の二をタッパーウェアに詰め、残る三分の一は冷蔵庫に残してきた。
 どうせ果子は今日も零時過ぎに帰るだろう。疲れた妹のため、ささやかなデザートを用意するのも兄のたしなみというやつだ。
「うん、やはりバターをケチらなくて正解だった。甘さもちょうどいい……。果子のやつは酒吞みのくせして、甘いものにもうるさいからな」
 ぶつぶつと独り言を落とす。
 傍から見れば、きっと不気味だろう。しかしつぶやかずにはいられなかった。だってこの邸内は、静かすぎる。
 ──静かすぎて、油断すると己の思考に吞みこまれていきそうだ。
 あのとき両親が離婚したのは自分のせいではなかったか──? という、いまさら詮ない思考と疑問に、である。
 白石は青々と茂る若草を前に、
「次はアーモンドじゃなく、くるみでもいいかもな。うん、よく出来てるじゃないか。美味い……」
 と小声で自画自賛しつづけた。

 それから数時間働き、とっぷりと日が暮れた頃。
 雑巾とバケツを片そうとしていた白石の前に、その闖入者はあらわれた。
「……なんだ、おまえ」
 口もとを覆う三角巾をずらし、白石は顔を上げた。
 闖入者は月を背に、シルエットとなって白石の前に立ちはだかっていた。
 玄関こそ施錠していたものの、庭の枝折戸をくぐれば誰でも入ってこられる。縁側の雨戸を開けはなしているからよけいだ。無言で立つ長身巨軀のシルエットに、
「おい、どうした」
 と、白石はいま一度声をかけた。
「おまえがなんでこんなところにいる。どうしてここがわかったんだ」
「果子ちゃんから聞いた」
 シルエットが──和井田瑛一郎が、そう低く答える。
 次いで、彼は問うた。
「椎野千草を知っているか」
 と。
「椎野? ……ああ」
 すぐに白石は首肯した。
「知ってる。ぼくが家裁調査官だった頃、担当した子だ」
「どんな子だった」
「は?」
 なぜそんなことを訊く、と言おうとして白石はやめた。空気がぴりりと張りつめていた。和井田の顔は逆光で見えないが、ただならぬ気配を感じた。
 ──なにか、あったらしいな。
 そう察した。
 和井田とは長い付き合いだ。高校と大学を通しての朋友である。七年を通して同じ学び舎に通った、いまや唯一と言ってもいい友人であった。
「椎野千草は……いわゆる非行少女じゃなかった」
 白石は声を押しだした。
「確かに問題を起こしはしたが、根っこはいい子だった。家裁送致になったのだって、あの子のせいじゃない。ただ、いろいろ不幸があって……」
 言葉を切り、彼は問うた。
「椎野千草がどうしたんだ」
「人を、殺した」
 和井田の答えは簡潔だった。
「先日、芸能プロの社長と内縁の妻を殺害した。今日は女子中学生五人に刃物を振るった。うち一人の少女が、死んだ。わずか十四歳だった」
 唸るような口調だった。
「白石。椎野千草について、知っていることをすべて教えろ」
「すべてって……。おまえ、なにを言ってるんだ?」
 和井田のシルエットを見上げ、呆けた声で白石は答えた。
 ──椎野千草が、人を殺しただって?
 あり得ない。
 椎野千草には、あの子には、そんな真似はできないはずだ。
 なぜって千草は、誰よりも知っている。殺人のなんたるかを。いっときの激情がどんな結果を引き起こすかを。
 だから、あり得ない。
「一番肝心なことは──彼女の過去は、どうせもう突きとめているんだろう。わかっているのに、なぜぼくに訊く」
 白石が知る限り、殺人という犯罪をこの世のなにより忌み嫌っている人間の一人が、椎野千草である。
 ──なぜって彼女は、一家心中の生き残りだ。
 千草の父親は殺意をもって、彼女を含む家族全員を刺した。そして自殺した。妻と息子二人を殺害したのち、愛車の中で己の頸動脈をかき切ったのだ。かろうじて、千草だけが命を取りとめた。
 ──だから千草が人を殺すなど、信じられない。
 万感の思いをこめ、白石は朋友を見上げた。
 しかし和井田はなにも答えなかった。
 奇妙に赤らんだ月が、彼の背後から借家を昏く照らしていた。

(気になる続きは、ぜひ本書でお楽しみください)


書誌情報

書名:死蝋の匣
著者:櫛木理宇
発売日:2024年07月02日
ISBNコード:9784041145432
定価:2,090円(本体1,900円+税)
総ページ数:336ページ
体裁:四六判 変形
発行:KADOKAWA

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