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「言葉とは何か」への一つの秀逸な回答と、「ことば展覧会」との出会い

始めたばかりのnoteを興味の赴くままにサーフィンしていて、たどり着いたある記事に私は興奮した。それは、拝啓 あんこぼーろさんによる昨年末の「ことば展覧会」という企画に参加した司名森ちほさんの記事だった。

企画の募集は残念ながら終わってしまっていますが。

note(ここ)で日々読み書きしているあなたにとっての「ことば」とは何ですか?

あなたにとっての、言葉とは。その問いは私にとって重大なものだったし、それに対する司名森さんの答えが、私にとってすごく完ぺきだったことに大きな衝撃を受けた。というのは、私が言葉というものに対して漠然と感じながらも自ら言語化してみたことがなかったイメージを、「それそれそれ!まさにそれですよ!」とドンピシャに表現してくれていたことが一つ。それが、この部分。

言葉って、世界だ。
 言葉があってはじめて存在を認識する。思考が届く。そうすると世界が広がる。同時に、言葉にすることによって固定されてしまうものもある。それも世界だ。限定して枠を決めたという意味で世界だ。

私にとって言葉は、コミュニケーションの手段であるという以前に、世界を識るツール、「それによって世界を認識するもの」であったことを確認できた。もう少し言うと、世界を捉える方法には、右脳で捉えるのと左脳で捉えるのの二種類があって、左脳で捉えるときの最大のツールが言葉なのだろう。

認識が先か、コミュニケーションが先か、と言われれば、言葉は他者に意思を伝達する必要のために生まれたのだと思うけれど。そうして発達した言葉によって、物事を区別して認識し、それを使って思考することができるようになり、抽象的な概念が生まれたりして、言葉と思考が共に深化してきた。たぶんね。

コミュニケーションとしての言葉の方を私がより苦手とするのは、私の中に自閉的な要素を割と濃く持っていることと関係しているのかもしれない。私の中で、世界を認識し、思考する手段としての言葉が第一義的に重要だった。

司名森さんの回答が完ぺきだと感じた理由のもう一つは、私が苦手なコミュニケーションの側面も含めて様々な角度から「言葉」というものを観察し、切り込んでいる様が実に自由で見事だったから。感性の柔らかさ、豊かさ、言葉選びの自由さに心を奪われた。

例えばこんな表現にびっくりした。

私には私の言葉があり、相手には相手の言葉がある。きっとそれだけの話なんだろうけれども。
同じ言葉にも個性があって、成長していく。
言葉は五感のどれでもない。

司名森さんの記事と出会ってから、「ことば展覧会」の作品集に飛んでいき、私の大好きな問いに対する、あまりにも豊かで深い、尽きない表現のバリエーションと出会った。「言葉は人生の相棒」だからこそ、みなさんの力作にはその人の人生がドクドクと流れていて。私には到底作り出せない言葉の数々が、それを生み出した人の心の形をありありと描き出していた。司名森さんの答えだけでも私は宇宙を見るようだったのに、ここにはいくつもの銀河系が……。

ほんとうに、すごい企画ですね。
なかなか一気には読めないので、少しずつ目を通していきたいと思う。

ここで表現をしてこられたみなさんの言葉選びの自由さを見て、自分の文章はなんて固くて片寄っていて、不自由なんだろうと感じた。それは悲観ではない気づきであるとともに、ここで豊かな表現のシャワーを浴びて刺激を受けながら自分の表現に向き合い続けることで、自分もより自由になっていかれそうな手応えでもあった。

司名森さん、そして素晴らしい企画を立ててくださった拝啓 あんこぼーろさんに感謝いたします。

noteって、奥深くておもしろいですね!皆様、これからもよろしくお願いします。

募集はとっくに締め切られたこの問いに対し、気楽に独りよがりの回答をしてみようかな。(長くなるので、次の記事で。)

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