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李 琴峰さんの『ポラリスが降り注ぐ夜』

老眼のせいか、“人間の生きざまをあざ笑う暗黒の鳥”のように見えた。


李 琴峰さんが、最新の芥川賞作家だということはこの本を手に取って気付いた。
物忘れ、勘違い、軽い認知症であることは百も承知。
なにせ不良老人ジュニアのことですから。

あれ、なんだったっけ?
まただ...
新宿二丁目を舞台にした『ポラリスが降り注ぐ夜』が面白いぞ!って出ていた書評は?
まあ、こういうことが日常茶飯事雨霰なので、表紙の若い女性のモノクロームを中世ヨーロッパのコレラ医師が被っていた鳥の嘴に似た仮面、そこから妄想する不吉な黒い鳥だと思い込んでしまった。

コンクリートの壁にも、鉄条網にも遮断されていない新宿二丁目。
見えない境界線を夜毎越えて訪れるひとたち、通わずにはいられないひとたち、彼らをじっと待っているひとたちの性(さが)、生きざまがストレートに描かれている。
物語の背骨には、性的思考・志向・嗜好が据えられている。
本書では主にレスビアン。
性的思考・志向・嗜好は、生き方の思考・志向・嗜好に内包されていないだろうか。

新宿二丁目。ずいぶんご無沙汰している。
あのころお店をおやりになっていた方々は、もうとっくに還暦を超してどうされているのだろうか。案外現役。大いに考えられる。
「わたしの居場所は、終生このお店。ニチョコ(二丁目の子の意)なんて、他に行く場所も頼る人間もいないもの」
誰だったかがそう言っていた。

ぼくは二十歳を少し超えていたと思う。
何者でも無かった頃のぼくを新宿二丁目に連れて行ってくれたのは、東北沢の居酒屋で仲良くなったずっと年上の大手出版社の編集者だった。
都の西北出身の彼の同輩がやっている店は、10時ころから朝方までが営業時間。
いわゆる「スナック」で、6,7人なら座れるカウンターの天板が口紅のような赤色だった。
小柄な店主は、ロング・ヘアのウィッグを被っていた。
薄いピンクのひらひらする上着(あれはなんと呼ぶ服だったのか)に白いパンタロン。
女装まで行かないが、男の格好は好きじゃない、ということは分かった。

「○○といって大学の同級生で、これでも某大手車屋の営業課長さん。同期の出世頭」と紹介してくれた。

冗談みたいな話だが冗談ではなかった。
仕事が終わってから開店準備をするのでお店を開けられるのは10時ころ。
客が引いたら仮眠してネクタイを締め銀座に出社する暮らしを、もう5年(そうだったと…)やってるんですよ、というような会話を交わした記憶がある。

まだ何者でもなかったぼくはびっくりした。
こんな生き方もあるんだ。
ある時、おずおずと「会社の方は大丈夫なんですか」と聞いてみた。
すると、淡々と「大丈夫じゃないですねぇ。見つかったらたぶんクビでしょう」
ぼくは甚く感動してしまった。

自分の飲み代が辛うじて稼げるようになると、ぼくの足は仕事場のあった六本木や新橋、
新宿ゴールデン街へ向かい、二丁目を素通りするようになっていた。

幾年かが過ぎ、夜10時開店の店は煙のように消えていた。身体を悪くしたというような噂を一度耳にした。

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李 琴峰さんが描いている七つの物語には、レスビアン、バイセクシュアル、Aセクシュアル、ノンセクシュアル、トランスジェンダーといった様々なカテゴリーに関する話が登場する。
ぼくが知っているのはずいぶん昔だから、ホモセクシュアル、おかまさん、レスビアン、バイセクシュアル程度。

何故、そんなに細かく分けなければいけないのか。
最初にそう考えた。
それぞれのセクシャリティを微細に理解し、如何にして社会全体で受け入れるか深く考察するためか。きっとそうじゃない。
セクシャリティだけじゃなく、人類種は古来、人種や民族、宗教、国家のカテゴライズも繰り返してきた。そこから生まれたのが現在の世界とぼくら絶滅危惧種だ。

不良老人ジュニアの頭に血が上る。
そのうち沸騰する。
放っておけよ。
世の中、いろんなひとがいるもんだねぇ、でいいじゃないか。
だから、不吉な黒い鳥が見えてしまう。

物語の中に「深い縦穴」という掌編がある。
主人公の香凛を“男のように愛したい”女の恋人は、いつか香凛が男に元に走るのではないかと、香凛の中のバイセクシュアル性をことあるごとに詰り、二人の生き方はすれ違いを深めていき、破綻の危機をはらんで進んで行く。

ある夜、飲んだ帰り道、新宿通りで一風変わった「人生相談」の男に出くわした。                               男に恋人との喧嘩の件を相談する。
面白いやりとりが続くが、それは本書を読んでのお楽しみ。
相談するうちに、ますます色んなことが分からなくなってきたという香凛に男が言う。

「建設するためには、まず破壊することが必要な場合もあります」
すると香凛は、
「建設の兆しが全く見えませんが」と。

「空き地にはおのずと家が建つものです」
「新しく建つ家の中で、お姉さんは恋人さんとどんな関係になりたいんですか?」

しばらく考えた香凛は、
「完全さという幻想に縛られず、過去にも囚われず、未来にも怯えず、ただ互いを見つめながら今現在を噛みしめる、そんな関係」
自分は今、樹海の氷穴のような深い縦穴の中に居る。窮屈な穴に居ては誰も入ってくる隙間など無い。どっちへ進むにしても自分一人で進まなければならないのだと。

正解じゃないだろうか。
ぼく自身、今までそうして生きて来たから、これからもそうしようと思う。

銀座四丁目交差点。編集者になりたての夏。
信号が変わるのを待っていた。
斜め後ろに誰かの気配。
美空ひばりしか掛けない、お通しのおでんがやたら美味しかった懐かしいあの店の記憶の断片が蘇る。
「お久しぶり。元気そうでなにより。じゃあ、また。」
そういってにっこり笑い、青信号に変わった横断歩道を渡っていった。

どっちへ進むにしても自分一人で進まなければならないのだ。

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