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“喜び”と“歓び” 保坂和志さんの『生きる歓び』

1月24日のこと。

夕方、クリーク沿いの道路をのぞくと、街灯の灯りが照らす細かい雪片が降り始めていた。

ぼくの妹が、りんりんという名前の猫と暮らす山口県にも大雪警報が出ている。
心配する家人のLINEへ妹の返信。

湯たんぽ、温かカイロ、懐中電灯、りんりん用追加ブランケットなど、停電対策も準備万端で、あとはお風呂に入って早々に寝るだけだと。

ただ、野良猫の寅ちゃんが姿を見せない。

寅ちゃんは、ご飯をもらう時、一夜のねぐらが欲しい時にだけやってくる風来坊で、台風など天候が荒れると姿を見せないことが多く、今回も明日の朝、ひょっこりやって来るのではないか、と自分を納得させている様子だが、心配なのだろうことはLINEの文面から容易に想像が付く。

手元にあるのは、保坂和志さんの文庫『生きる歓び』

日頃、あまり手を出さない純文学方面の作家・保坂和志さんを知ったのは、NHKの「ネコメンタリー~猫も杓子も~」だった。

野良猫のシロちゃんに振り回される日々に、ああ、なんだかいい人だなぁ、と思った記憶がある。

『生きる歓び』に“歓び”が使われている。
ふーん、と思って図書館で借りてきた。

「喜び」「歓び」

ネットで検索すると、
「喜び」:何か良いことがあった時の嬉しい気持ち全般。
「歓び」:声を上げて嬉しがる気持ち・歓声を上げるほどの嬉しさ。

念のため「広辞苑・第五版」に当たってみると
「喜び」:よろこぶこと。うれしく思うこと。また、その気持ち。
「歓び」:(かん「歓」の欄に)よろこぶこと。よろこび。たのしみ。

ネットは、動的でとても分かり易いのだが、「広辞苑・第五版」は、なんだか平面的、空々しい、上から目線...失礼、言葉が過ぎました。

著者と思しき人物が、妻とともに墓参に行った先から話が始まる。
そう、日常のありふれた話ことば。

陽だまりの縁側に座って昨日の出来事を、渋茶でもすすりながら聞いているようで、なんだかこれ好きだぞ、純文学、私小説もいいじゃないか、と思ってしまった。

墓石が並ぶ通路に生まれたばかりの猫の仔がうずくまっている。
生後二、三週間と見当をつける作家は猫を飼っている。

墓場の桜の枝にはカラスが一羽、子猫のまわりから人間が居なくなるのを待っている。

結局、作家と妻は段ボールに入れた子猫を引き取って、掛かり付けの獣医への連絡、子猫は全盲かもしれないと言われる。
獣医の指示にしたがって瀕死の子猫に必要なものを買いそろえる。

このあたりが淡々と綴られていて心地よい。しかも子猫の生き死にに俄然興味をそそられる。

「花ちゃん」と名付けられた子猫は、哺乳ビンの先も、小さくくだいたまぐろの赤身も受け付けない。
ただうつ伏せのまま眠り続けている。

子猫を置いて自室を出て来た作家に妻は、

― 部屋を出ると、彼女は、「子猫、眠ってる?」と訊いてきた。
  「うん。
   ああやって、じっと眠ってるのを見てると、このまま死んじゃって      も、それはそれでいいのかなと思う」

 
無理やりミルクや赤身を口に入れる作家と妻。
子猫の回復を願う奮闘ぶりが、作家の口から直に聞いているように沁みてくる。

作家と妻が見つめるいのちの夜が過ぎ、朝が来た。

哺乳ビンの乳首を自分で噛み、赤身を飲み込むようになった子猫。

― 「もしこのまま助からないのだったら、それはそれで仕方ないのかもしれない」という私の危惧はきれいさっぱりなくなった。子猫の「花ちゃん」は、生きていることの歓びを小さな存在のすべてで発散させているように見えた。

“生きていることの歓び”かぁ。
「歓び」の使い方をひとつ、教えてもらった。

寅ちゃんが帰って来たかどうか、妹からのLINEはまだ来ない。


それにしても、ぼくが住む内房海沿いの街は、昨夜のことがまるで嘘のような快晴だ。

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